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右へならえの言いなり戦士

今年は例年よりも多くの目標、テーマを掲げて挑んだ2022年も既に5月。
時の流れの残酷さを、ひしひしと感じながら最近は卒論と向き合い始めました。

さて、今回のテーマは『右へならえの言いなり戦士』です。

これは、僕が中学生から高校生の頃に感じていたことです。
僕は兵庫県の至って普通の公立の中学、高校出身なのですが、そこの6年間でずっと感じていたのが、先生も、生徒もみんな"人と同じことをするのが正しい"、"人と同じことをするように他人にも強要する"という空気感があるなということでした。

もちろん、何か具体的に言葉で言われた訳ではありませんが、見えない圧力が確かにそこにはあったはずです。
その時は、地方の公立学校だからかなぁなんて考えていましたが、よく良く考えれば学校だけじゃなく会社などの集団でも同じことが言えるのだろうなと最近になって気付きました。

これをさらに広義的に捉えれば日本の義務教育自体がそういった意図を持って行われている側面も必ずあるなと。

別にこれに対して善し悪しを論じるつもりはございません。

ただ、自分はかなりの居心地の悪さを中高生時代感じていたことは事実であります。
きっと声に出さないだけで僕の周りにも同じように感じていた人間は少なからず居たはずです。僕も声に出したことなんてありませんでしたし。
実際高校を卒業してから1人の友達にこういった類の話をされたことがあります。

ここからは僕のなんの根拠もない想像での見解を述べます。調べてもないし、敢えて調べようとしていないので、見当違いだったら、頭の中がお花畑の奴だなと思っておいてください。笑

人というのは本能的に群れる習性があるように思います。
その群れでは、基本的に皆同じ行動をする。
その方が大半の物事は上手く進むから。
1人では弱い生き物ですが、集団で群れて生活することによって強くなれた気がする。
これが人間だと思ってます。
だから、お互いがお互いにみんなと同じことをしろよと同調圧力をかける。
右に"習え"で協調性という言葉の元同じように振る舞う。
僕の大好きな欅坂46の『サイレントマジョリティー』の歌詞の一部を借りてしまえば、"One of themに成り下がっている"。

しかしやはりどの集団にも、逸脱した言動をする者がいる。
そういった人間を他の人間は激しく非難する。
そして逸脱した人間が、成功したら嫉妬から非難をし、失敗したら一種の"安心感"から嘲笑う。

もちろん人間には理性というものがありますから、こんなことしない素敵な人も沢山いることは十分に理解しています。

ただ本能的にはこういった一面があるのではないか、というのが僕の根拠の無い推測です。笑

僕が上京したい、東京の大学を目指したいと初めて親に言った時もそうでした。
否定的な意見、理由を羅列されたことを今でも覚えています。
確かに親族はもちろん、僕の周りにも東京の大学に行く人はほぼ居なかったので、僕のこの発言は集団から逸脱した発言だったのでしょう。
新しいことに挑戦したいと発言した時にこうして、否定的な意見を言って食い止めようとしてくる人の意見になんて耳を傾ける必要は無いと自分に言い聞かせたことを忘れません。

右へならえをして、人と同じことをしていれば困らない社会。最低限度の生活は保証される社会。

義務教育で右へならえの言いなり戦士を養成していくこの国で、誰しも必ず何かしら持っている個性というものを自分で見い出すことは非常に難しい。
日本人が真面目だと言われる所以には、少なからずこれも関係しているのでしょう。
個性を出さず、集団を乱さず、1つのタスクに皆で向き合う。

だからこれらの逆の行動をする人間は淘汰されてゆく。

出る杭は打たれる。

ただ、出過ぎた杭は打たれない。

個性を見出して正しい努力の元逸脱していけば、得られるものは他国よりも大きいと考えています。

僕はチャンスが多い、少し頑張るだけで、周りとの差が大きくなるこの国である意味よかったなと思う次第です。

右へならえの言いなり戦士も戦士であることには変わりない。
むしろそういった人達が国を支えている。
全員が全員逸脱したいけば国は滅びる。

そういった人達のおかげで逸脱した行動ができるのもまた事実。

だから、逸脱した人達は、批判を浴びながらも成功を収め、そういった戦士たちに還元をすることが役目だと考えています。


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