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私は、「大人」になっているのか?

80歳で生まれ、年月を減るごとに若返るという数奇な運命の下に生まれた主人公の一生を描く『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画がある。時々、ベンジャミン・バトンのような気持ちになる時がある。もちろん、私の場合は、年月を減るごとにきちんと年齢を重ねているわけなので、まったくもって自分勝手な感覚だ。

気持ちと年齢のギャップがどんどん解離している。

年齢を重ねるごとに、その事実にギョッとする。若ぶりたいわけじゃない。実年齢は46歳なのであるが、気持ちが35歳くらいで止まっている。ような気がする。

見た目だけがきちんと経年変化している!

白髪が出てきていて、それを鏡で発見する度に、ベンジャミン・バトンのような気持ちに勝手になっている。

女らしい……”らしい”には褒めや世間的承認が潜んでいる。

作家のはらだ有彩さんに新著インタビューした時の言葉が頭に残っている。

で、私は、きちんと”大人らしい”のか? 

もちろん、誰がどうみても、大人なのであるが、自分と世間とのギャップがあるんだよな〜、と。昨日、そんなことを雑誌編集者の友人と話していると、「私たち子供がいないし、遊びが仕事に繋がってしまうような職種についてしまったから(昔は本当にそんな感覚で働いていた…!!)、”大人であらねばいけない”と自覚し、そう振舞わなければならない機会が圧倒的に少ない人生だ」という理由に落着した。

一週間の疲れが抜けきらなかった昨日。そんなおしゃべりの後に、惰眠をむさぼりつつ、夜は映画を1本。

選んだのは、『ブルージェイ』。

高校の時付き合っていた2人が、地元の町で思いがけず再会する。今や大人として別の人生を歩むが、お互いに他の人にない相性の良さと、心残りを感じ始める。

『ブルージェイ』の二人は互いに高校時代の時が戻ったかのような時間を短時間は過ごせるものの、やっぱり「時」を重ねた事実がズレを生む。生きていれば、たくさんの出会いと別れを繰り返し、いろいろな感情を経験する。そして、感情のいなし方を会得していく。

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。と、ボーヴォワールは言った。それは、女性が(意志に反して)「女」という役割を押し付けられることへの社会批判だった。

「大人」も同じで、「大人になる」ことは、「大人という役割を担う」ことをさすだけなのかもしれない。

大人らしく振舞うことをやめる。つまり、大人としての「褒め」や「世間的承認」から解放されていたなら、『ブルージェイ』の二人は違った未来を選択したのだろうか?

さて、大人になるって何だろう?

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