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自由からの逃走。映画『ミッドサマー』考、再び

ホラー耐性がまったくないにも関わらず、覚悟しないままにノリで観てしまった『ミッドサマー』。

「なんだか不思議と爽快感があったー!」と伝えたら、「まったくハマれなかった」とぼやく知人がチラホラ。ハマる人と空振りする人がいる。その差とは何なのかと、ずっともんやり考えていたところに、ひとつの名回答記事が。

元カルト信者の方による「私がかつて経験したことが非常にリアルに再現されていた」という『ミッドサマー』レビュー。

ホルガ村やカルト宗教のような共同体は、結局のところ、多様性を否定し少数派を切り捨てるかりそめの理想社会に過ぎないのです。

私のように「癒された」的感想を持つ人々は、つまりは筆者同様に「カルト宗教」、あるいは、カルト的な何かにハマりやすい性質があるということが分かる。※この筆者は、ある時、ハッと目が覚めたようにカルト宗教から足を洗ったはずなのに、まさかのまた違う“カルト”にハマるというオチがつく(そこがこの記事の斬新などんでん返しだったりするので、ぜひご一読を!)

人はなぜカルト宗教に走るのか。この文章を読み、その昔、それらについて書かれた本を読み漁っていた時期があったことを思い出した(本当にたくさん出版されていた)。その中の一冊、オウム真理教をモデルにしたとされる新堂冬樹の『カリスマ』を思い出した。人はこれほどまでに強欲に、その逆にかくも弱い生き物なのだ、ということがよくわかるフィクションだった。人が洗脳されていく道程がマッチョな筆力でガガガッと書き進められており、その臨場感に一心不乱に読み進めた。そして、あまりに衝撃を受け、先輩に興奮して薦めて本を貸したら、数日後に無言で返されたっけ。少し下衆な表現がすぎる箇所はあったかなとは思うけれど、「だからこその“カリスマ”なわけだし」と言い訳したこともセットでなぜか思い出した。

そして、フロムの名著『自由からの逃走』

人間は自由になると逆に不安に駆られ、強い意見に依存したくなるという不合理さを的確に書き示しており、もう、何回読み返したか分からない。初版は1951年ながら、今読んでもまったく違和感がない。「自由からの逃走」をしたがるのが人間の真理なのだと私は思う。

人間は自分を縛る何かから自由になろうともがくけれど、いざ解き放たれ、自分の意思で「個」として生きる道を模索できるようになると、その自由さが圧となり、労となり、途端に逃げ出したくなる。

げに現代社会で「個」を生きることは過酷なり。

というわけで、カルト宗教入信理由のほぼすべては、結局ここに帰結するのではなかろうか。

人間は精神的な権威にしばりつけているあらゆる絆から自由になるが、しかしまさにこの自由が、孤独と不安感とを残し、無意味と無気力とで人間を圧倒するのである。(第3章 宗教改革時代の自由)
人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろ大きな機会の歯車、自動人形になってしまったという事実、生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。(第7章 自由とデモクラシーより)

私は、『ミッドサマー』を観て、目を覆いながらも、間違いなく癒された。ということは、私は、今、自分がそういう状態にあることを自覚しなければならないのだろう。

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