「我は、おばさん」と、なぜ胸を張れないのか?
ミドルエイジを対象としたメディアを運営していた。大人女子という言葉が中年期の入り口に立っている女性の呼称として定着していた頃である。創刊編集長を担っていただいたスタイリストの大草直子さんは、頑なに「婦人」という言葉を打ち出そう、と譲らなかった。私はその思いに「婦人」が「(フランスにおける)マダム」のような響きになることを夢見ていた。
おばさんと呼ばれないための猶予期間を先延ばしにしたところで、大人女子と呼ばれようとすることにいつか限界がくる。そもそも、大人女子ってなんだ?
岡田育さんの新刊『我は、おばさん』に、首がもげそうになるくらいの頻度で脳内ヘッドバンキングをした。
人生100年時代とするなら、その中で一番長い「おばさん期」を、なぜゆえに惨めな気分で、あるいは自虐しながら、あるいは抗いモードで過ごせねばならないのか。
「将来、かわいいおばあちゃんになりたい」というフレーズが紹介されている。これは私も無意識にずっと使ってきたフレーズだ。
少女と老女の間にぽっかり空いた、不気味な穴を覗き込む気分だ。「おばさん」はどこへ消えたのだろうか。(P.127)
帯の文言に幾度となく胸を掴まれる。
一方、高島鈴さんの文章にも唸らされる。
もし私が「美しく」変わる、あるいは今の己を「美しい」と認識し直すことができたなら、私は救われるのかもしれないが、それは私が望む革命ではない。変わらなきゃいけないのは社会。もう一回書いとこう。変わらなきゃいけないのは社会。
詰まるところ私が想像しているのは、己の容姿が嫌いなままでも余裕で生きていける社会である。この世は容姿というものに意味を見出しすぎているし、容姿が人間の生存に食い込みすぎている。解体すべきはそこなのだ。
美容の仕事をしていると表現のダブルスタンダードにいつも悩まされる。アンチエイジングの商品を紹介しながらも、「年齢を重ねるのは素敵なことだ」を連呼しなくてはいけない。言葉を尽くせば、共に「加齢の呪縛から解放されよう!」という意味で同義なのだが、それを誤解なく伝えることはかなり難しい。
最後も岡田さんの文章をお借りして。
今まで男性を中心とする社会は、女の加齢を肯定的に捉えて正当に評価することを、ほとんどしてこなかった。そのツケを「おばさん」という言葉が支払わされているのだ。(P.15)
ついこの間まで早く大人になりたいと願っていた元少女たちが、ある時を境になぜか、年相応の成熟した女性として扱われるのを嫌がりだす。今生で与えられた時間のうち、少女と老婆の間に横たわる長い長い期間の途上を生きながら我々は、それをあるべき言葉で自称することすらしない。我は、おばさん。なぜ、胸を張ってそう名乗ることができないのだろうか。(P.17)
「我は、おばさん!」と自分は堂々としていたいと思うし、そこに思い煩う人が減っていく方向へと後押しするコンテンツを作っていければ、と思う。
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