見出し画像

東京➖仕事=? 「東京に暮らす」を考える

昨夜は、ニューヨークから一時帰国だったはずが、3月から約半年の日本滞在となっている友人と会った。意を決して、来週、ニューヨークへ戻るという。

この半年で3回会って、マシンガントークを繰り広げてきた相手なのであるが、「互いにどんどん気持ちや心境が変化してきたね」と言いながら、昨夜は「これからどうする?」を語りあった。

私が「二拠点ライフを模索している」と語ると、「そうなるよね」と彼女は同意してくれた。

ブロードウェイで俳優をやっている彼女の知人はコロナで舞台がなくなり、生活費を稼ぐための飲食店でのホールでのアルバイトの仕事がなくなったのだと言う。ほぼテイクアウトとなっているレストランやカフェはキッチンの仕事はあるものの、ホールの仕事が激減しているらしい。ホールの仕事が仮にあったのだとしても、そもそも舞台に立ちたいからニューヨークにいるのであって、その機会がないならば、法外に高い家賃を払わざるをえないニューヨークで暮らす理由はないと西海岸のポートランドに早々に引っ越していったのだそうだ。

というような理由により、今、俳優やミュージシャンなどライブ活動を生業にする人たちは、どんどんブルックリンからより郊外へ、そして州外へ引越しをしているという話をよく聞くのだという。

数日前にSNSで回ってきた写真に衝撃を受ける。GINZA SIXの中にある飲食店が、軒並み臨時休業、どころか閉店されている。思えば、家の近所の店たちもそうなっている。

仕事以外の理由で、東京にいる意味って何だっけ? つまりは、「東京ー仕事=?」という問いだ。

私はそう考えた時、これまでは「いろいろなカルチャーへの接触機会の多さ」だと考えていた。展覧会や観劇やコンサート、落語などのライブ体験などが主である。「ここでしか食べられないものに出会える」という意味での外食もこれに当たるだろう。

ライブはオンラインにとって変わった。若い頃のように外食をすることにモチベーションが上がらなくなっていたところに、自炊生活をすることとなった近頃、食事の場面では曖昧だったハレとケの境界線が鮮明になった。ハレの食事は特別なタイミングだけで十分だと明らかに考えるようになっている自分がいる。

この要素がほぼ削がれている東京に残っているものは、私の場合、それは知人・友人ということになる。

でも、よくよく考えれば、私はそもそも一人遊びが好きで、限られた知人・友人とたまに会うだけで満たされていた。これまでだってしょっちゅう会ってきたわけではないし、たまに会ったとしてもブランクを感じることはない。東京で会わないけれど、旅は一緒に行く。そういう友人もいる。

あれ? 東京にいる意味って?

こんな話をすると、東北出身の別の知人は、「今までも地方にイベントで出向くことが多いんだけど、始めは田舎っていいわーって思うけれど、3日くらいすると、やっぱり無理かもと思うんだよね。地元に戻ることも、東京が日常からなくなることも考えられない」と言う。

東京には、おもしろい人に出会える確率が高いという特性もある。編集者という職業である限り、やはりリアルに人とコミュニケーションがとれる機会を減らすべきではないとも思う。つまりは、どんなに仕事以外の理由を考えても、やはり東京にいる理由は仕事のため、ということに帰結してしまう。けれど、この半年、その機会はすっぽりと奪われている。そして、これから半年もきっとそうだろうと思う。さて、それ以降は?

うーむ。

そもそも昔から私は「ここではないどこかへ」を切望してしまうところがある。「移動できない」という制約があるからこそ、私は移動のある暮らし、そして、今、目の前にない日常にただ憧れているだけなのだろうか? 

========



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?