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共感は、はみ出しものを救うのか

学生時代、私はうまくクラスの中に溶け込めなかった。私のひねくれくさった性格とか、クラスメイトのノリとか。いろんな原因があったと思う。振り返ってみるとね。

でも一番大きな原因は、「共感で繋がれなかった」ことだと思う。中学生や高校生の頃はジャニーズのアイドルやモーニング娘が人気で、キムタクのドラマを見て、Popteenをみな読んでいた。ただ私はみんなが「いいよね〜!」と盛り上がっていたものが、盛り上がれるほど好きではなかった。

他にも。どうやって好きな男子と仲良くなろうか、ワイワイと盛り上がるクラスメイトたち。私はいつも思っていた「仲良くなりたいんなら、話かけたらええやん」。少女マンガ的な展開を期待する彼女たちに、共感できなかった。

とまぁ、このようにクラスメイトたちは

「それ、それ、そうなんよ!」

と共感でつながっている。私はその輪に入れなかった。共感を示さなければ、輪の中にいなければ、発言するチャンスも得られない。そして共感の輪の中にいる人たちは私を見てこう思う「なんか、近寄りがたい人」だと。




そんな学生時代を経て、今。

共感マーケティング、共感力という言葉が怖くてしょうがない。それはみんなをつなぐ魔法のことばのように見えて、「形の見えないエモーショナルな何か」に共感できない人を弾いてしまうように感じるから。

大きなバズを見るたび、寂しさを感じる。たとえ、それが自分が生み出したものであったとしても。



もう一度学生時代に話を戻そう。

共感の輪の中に入れなかった私はどうしたのか。まずは私の中にある「好き」をとことん愛でた。周りに「それな!」と言ってくれる人はいない。

そしてリアルな場では見つけられなかった共感者をネットで探すようになった。年齢も、国籍も違う世界の誰かと「共感」でつながっていった。

その結果、リアルな世界にいるクラスメイトの間に壁を作ってしまった。




あぁ、共感って本当にやっかいだ。つながりたい、誰かに分かって欲しい人間が持つ本能的な欲求。でもそれが時として寂しさを生む。人を繋いだり、弾いたりする。

人間関係をどう作ればいいの。今、私はうんうんと唸っている。



ただ、ひとつ。

さっき空港のカウンターで並んでいるとき、ニュージランドの旅人と出会った。ただお互いの旅の話をして、天気について話し合うのがとても気楽に感じたのだ。

はぁ! 共感がいらない! 何も目指さない。文字とおり言葉のキャッチボールをするのみ。フィジカルなコミュニケーションとでも言おうか。


そんな意味もない、むすびつきも求めない会話をもっともっとしてみたい。その先にはどんな人間関係があるのだろう。共感の輪に入れなかった学生時代の私のために、のぞき見してみたい。うまく行くか行かないかは、置いといて。



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