言語化マシーンになっている私

昨日、ある人に私は言葉の中で生きていると言われた。自分から出てきた言葉に束縛され、人が放った言葉に干渉されていると。


自分がどうやって今この時を生きているなんて、考え出すとみぞおちあたりがグーグーと鳴ってくる。やめろ、これ以上答えのない問いに、自分のエナジーを使うではないぞ、という体のサインが発令される。

だけど私は言葉の中で生きていると言われて、それはもうそうなのかもしれないと思った。なんて言うか、毎日飽きもせずに書いて書いて、話して話して、編んで編んでするのが私の暮らしを作ってくれているのであって、言葉が無ければ体力もスタミナもない私は生き残っていけないからだ。


言葉とともに生きる人は強くて弱い。もっと五感に飛び込んできた刺激を刺激のままに味わって生きていければ、どんなに甘美なことだろうと思う。でも、溺れた際につかんだヨロヨロの藁が言葉であったので、私はいつもどんなピンチな瞬間でも、それを言葉にして結晶化してしまう他にないのだ。電気の速さくらいの、ものすごい速さで。



今朝なんてね。

夏も終わりかけようとしていて、涼しい風が朝の私の顔をなでる。体をころんと回転させて、ベッドの端から端まで移動する。転がった先のシーツがひんやりとして気持ちいい。空が明るくなってきて、やわらかい枕を両足の間に入れ、ぎゅっと絞る。この朝が訪れてくれて本当に良かったと思って、この今自分が感じたことなどを決して言語化などしてくれるな。と固く心に誓ってはみたのだけれど。

こうしてパソコンを開いてしまうと、機械のように情景を脳内に描き、それを抽出する「作業」をしてしまうのです。


言語化マシーンになっている私を見て、祖母はいつもモノゴトを深刻(深く刻む)に考えすぎだと言っていたな。きっと、それは正しいんだと思う。彼女は100歳に近いが(詳細な年齢はついに、教えてくれなくなった)、バカみたいに元気で健全だ。



痛いと言葉に変換してしまう前に、痛覚を刺激をもっともっともっと。なんていうか魂に刻みたいって。そんな生き方の練習を、やってみたいななんて思う。そうすればきっと、そばにいる人の痛みももっともっと共感できるようになれるのではないだろうか? 


ここまで書いてまた気づいた。

そうそう、私は昨晩ね

ある人に私は言葉の中で生きていると言われた。自分から出てきた言葉に束縛され、人が放った言葉に干渉されていると。

まんまと、まんまと干渉されていました。なんだかおかしくなって。生きているんだなとつくづく面白くなった。


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