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季節的センチメンタルと私の五感の関係

京都にいる家族から、最近朝晩がひんやりしてきたと今朝連絡があった。あぁ、もうそんな季節なんだなぁと思う。10月も過ぎて、帰りたくないと駄々をこねていた夏が、やっと我が季節を完全に諦めだす頃。



私は今ベトナムにいて、蒸し暑いお天気の中、体中をベタベタにしながら毎日を暮らしている。夏がいまだに終わらない。ギラギラの太陽と濃い影がぴったりと私をマークし続けている。


東南アジアに住んでいる人はみな言う。ここは日本に比べると季節の移ろいがないから、あれあの時はいつだったけ? となるそうだ。1年中が同じ気温で安定しているのはいいのだけれど、気温と記憶が結びつかないから、それがいつのできごとか分からなくなるのだそうだ。


最初にその話を聞いたときに、なんてさみしいことよ。と思った。寒い雪の日に、どうしても顔が見たいからと、鼻を真っ赤にして自転車をこいで待ち合わせの公園に走ったこと。露に濡れた紅葉を、ひとりポケットに忍ばせた夕暮れのこと。校庭の桜の花びらが舞い込んでくる教室、今年も同じクラスになれなかったと肩を落としたこと。

ひとつひとつの記憶が、季節の温度とそれが生み出す風景とリンクしている。切っても切っても切り離せなくて。だから私たちは毎年季節が巡ってくるたびに、その温度が連れてくる過去を振り返り、ちょっと物悲しい気分になる。


そんな季節的センチメンタルが熱帯の地に住むとなくなるらしい。

じゃあ。ここに長く住むと、感受が豊か過ぎる私はどうやって、記憶を呼び起こしていくんだろう。過去を振り返らなくなるのだろうか? それとも季節の気候のトリガーがなくなる分、それはもうしょっちゅうフラッシュバックが起こって、ひとり赤面したり涙ぐんだりするのだろうか。

もしくはもっと。気候以外の要素を深く、自分の中に残していくのだろうか。音や、形や、味や、肌触りや。

それならば、ここにしばらく居てみたいと思う。巡る季節で、過去の記憶を呼び起こすことができないのなら、この一瞬をもっと自分の感覚で捉えられるようになれるかもしれない。



さぁ、今日の一日をどう残していくの?

今朝も相変わらずのムシムシとした真夏の気候は、私に問いかけている。気がするのです。


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