言語化と感情の間でぷかぷか漂う
私は時折、自分の考えや感じたことを言葉にして、それを文章という形に消化させ、お金をいただくことがある。
ここnoteに書いた思いつきや、SNSで発した独り言を見て、様々なメディアの編集者の方から「その考えが面白い」と言ってもらい、それをもう少し長い読み物として、再生産してもらえないか? と依頼される。
ある時は、友人や知人から東洋子は感じたことを言語化するのがうまいな〜。その秘訣はなんだい? と聞かれる。
私はただ、毎日生きている中でふと感じたことを、素早くメモに取って、時間がたっぷりとある時にそのメモを見て考えていくだけ。
なんで? どうして? 私はこう思ったんだろう。社会はこうなんだろう。人はこう考えるのだろう。
もやもやと広がる思考の絡まりを、紙に書き出したり、キーボードを叩きながら解いていく。その過程で言葉が出てくる。今までの人生で得てきた、私の中にあるボキャブラリー倉庫の中から、選出されて。
長らくそうやって、悩んでは言葉にして…を繰り返してきた。また雲合霧集に集まり、とらえどころがない「不安や寂しさ」に立ち向かうために、言葉という見えるかたちにしてしまうのが一番だと思ってきた。
だけど近頃は、言葉にしても言葉にしても、なんだかスッキリとしない日が続いている。もしかすると思考の道筋が違っているのかもしれないし、選ぶ言葉が間違っているのかもしれない。または、言語化のタイミングがマズイのかな…。
とにかくこれまでのように、言語化が自分にとって有用なツールではなくなったのだ。
なんでだろう。
(音楽を奏でたり、絵が描けたらなぁ〜。インターネットで、私が何かを発信しようとしたいときは、言語の力を借りるしかない。というパラドックスを抱えて、このまま書き進めます。)
ボーッと頭のネジを緩めて考えてみるに、世界がギュッとネットの力でつながってしまったから、多様性の喜びと苦しみが視覚化されたから、それに触れることで、毎日のように自分の信念や感覚はゆらいでしまう。一度言語化をしてみたところで、また時が変わり「世界」と触れることで、その言葉たちがやけに嘘くさく聞こえてしまうからなのではないか? と思った。
だからこそ、自分にとって必要なことって、「掴もうとするな」ってことなのかなと思う。言語化をすることで安心をしようとするのなら、それはこの世に生まれた美しいグラデーションに名前をつけてしまうことになる。自分の範疇にひっぱりこむことで、私の経験上の範囲でしか判断ができなくなる。
もう、名前も色付けも必要ないことで、今の世は満ちている。だからこそ、もやもやと霧のような違和感を、ただ感じる時間をしっかりとりたい。五感に意識を向ける。私の身体をスキャンしていく。そして思考に頼らない、コントロールできない感覚を、味わうだけの時間。
あぁ、それが。
もう何百年前からすでにある「座禅」や「瞑想」なのだな〜と。気づいた。すごい。きっと私も昔の高僧と同じ思考回路を得たんだろう。
そう思って、今から5分間目を閉じて漂うことにします。
また、明日。
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