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私は今日も美しい。

太陽から守るために、このジャケットを着て。

真夏のハノイでバイクタクシーを呼んだ。運転手の後席に座ろうとしたとき、彼は私に自らが着ていたジャケットを渡そうとしてきた。ベトナム語ができない私は「???」と、ジャケットを渡そうとする彼の手を押し戻す。彼はスマホを取り出し、翻訳アプリでベトナム語から翻訳された英文を見せてきた。

「肌が焼けてしまいます。太陽から守るために、このジャケットを着て」

出かける前に軽く日焼け止めを塗った。それにもともと色白の私は、小麦肌にほのかな憧れを持っていて、南国生活の中で自然に焼けた肌の色なら、それは誇らしいものと思っていた。だから私は大丈夫、暑いからノースリーブのシャツのままで良いと伝えた。

運転手の驚く顔が今でも忘れられない。私が笑顔でありがとう、結構です。と返しても、まだ本当にいいの? それで後悔しないのか? という表情をして私を見つめてくる。


ベトナムはバイク社会だ。みんなひとり一台バイクを持っていて、歩いていけるような距離でも、バイクで行く。ベトナムの女性が外に出るときは、バイクに乗るときだ。

女忍者くのいちだなぁ、彼女たちがバイクを乗る姿を見て思う。顔がすっぽりと隠れるほどの大きなマスクをして、全盛期の浜崎あゆみかよみたいなサングラスをかけ、長袖をきて、スカートの上にUVブランケットみたいなのを巻き、手袋をしてバイクに乗る。暑そうだ。30度を超えているのに、真冬並みの重装備で彼女たちはさっそうとバイクに乗る。

その忍耐力たるや、まさに「くのいち」と呼ぶにふさわしい。


これまで、東南アジアの国々では色白=室内にずっといられる=お金持ちの証なんだよと聞いてきた。欧米の小麦肌=たっぷり外で遊べる時間とお金がある=お金持ちの考え方とは真逆だ。なるほど、みんな社会的ステイタスを得るために白い肌を求めているのかなと理解していた。



先日、知り合いのベトナム人女性とランチに行く機会があった。その時も相変わらず私は長袖も着ないし、マスクもしないから「それで本当にいいの?」って聞かれた。

ベトナムで何度も何度も繰り返されたこのやり取り。私は聞いてみた。

「なんでそこまで、肌が焼けるのが怖いの?」って。

すると、彼女は大きな声で言う。

「茶色くなるって、なんか汚れるみたいじゃん!」


おおおお。なんかそのひとことを聞いて私は妙に納得してしまった。社会的なステイタスを示すアクセサリー的な意味もあるんだろうけど、彼女にとって白い肌は清潔さを示すものでもあるのだ。


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世界のいろんな場所に行き、いろんな人に会うと「美しさ」は一筋縄ではないなと感じる。単なる外見上の美だけではなく、社会的なステイタスとか、その人の生活態度を示すものでもあるのだ。

ただひとつの基準のみにこだわってしまうと、それは「美」に苦しめられてしまう。せまりくる美の重圧と自分の現在の姿を重ねて、情けなくなること間違いなしだ。

だからこそ、海の外で、現地で暮らす人達の多様な「美」を知って、私はまだ自分を認めることができるのかもしれない。

たとえ鼻の頭に大きな吹き出物ができたとしても、運動不足でお腹が出ちゃっても。今私が使っている「ものさし」は、星の数ほどある「美」の基準のひとつでしかないのだから。世界中にある美の中の、豆粒みたいな基準に振り回されてるだけで。

もっと言えば場所が変われば「美しいとされる存在」が全く変わってしまうのであれば、人によってその基準が変わるのも当たり前なのだ。


まだ目が覚めない自分の顔を鏡に映す。おまじないのように唱えてみる。

私は今日も美しい。


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