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王子野戦病院反対闘争 前史

はじめに

 2022年5月、「滝野川クロニクル」というグループ展が10日間に渡って開催された。王子・滝野川の自然、歴史、生活等をリサーチして制作した作品が設置され、貴重な資料展示もあり、いくつものパフォーマンスやイベントが行われた。
 私はおもに1968年の「王子野戦病院反対闘争」に焦点を絞った、それはまさにこの展示会場を攻撃目標として局地的に起こった激烈な反戦・社会運動だった。歴史上の出来事を可視化する試み、ある"時点"での個人と社会運動との関係を考察するための最初のアプローチだ。
 運動は地域で自然発生し、住民と過激派学生の緩やかな連帯から民衆へと広がって次第に制御不能になって行ったようにみえる。
民衆の蜂起をよそに野戦病院は一方的に業務を開始したが、様々な歴史的・社会的要因が重なり結果的に野戦病院は閉鎖、しばらくして公園や公共施設として解放された。
この出来事は、市民運動が成功した珍しい例だと言えなくもない。主催団体やリーダー不在であったため資料が少なく「忘れられた闘争」と言われる。ここではまず、王子・滝野川の地域的特性をその歴史から意味づけることを試みてみよう。

https://takinogawachronicle.org/review.pdf

https://www.youtube.com/watch?v=ZNXeU6tOhxI&t=13s

概要


 中央公園文化センターは、1930年(昭和5)に陸軍造兵廠火工廠本部事務所として造られた建物で、もとは小石川にあった東京砲兵工廠の銃砲製造所が、1905年(明治38)に十条台(当時の王子村)に移転したことに起因する施設だ。
 北区は、1872年(明治5)年に、「赤羽火薬庫」が設置されたことに始まり「東京鎮台武器庫」「赤羽工兵隊」「陸軍被服倉庫」、JR埼京線を挟んで隣接した「板橋火薬製造所」等、陸軍の施設が次々と転入または新設・拡大され「軍都」として栄えた土地であった。
 十条台の「銃砲製造所」は昭和15年の組織改編で「東京第一陸軍造兵廠」となり、軍関連の施設は区の面積の1割ほどを占めていた。多大な空襲被害を受けて1945年(昭和20)の終戦を迎えるが、軍需都市としての役目は終わらなかった。
 空襲を免れた「東京第一陸軍造兵廠」本部をアメリカ軍が接収、スクラッチタイルの外壁は白く塗り替えられて、東京兵器補給廠の司令部、のちに極東地図局となった。そしてベトナム戦争(1955〜1975年)をむかえる。
ベトナム戦争下の1968年(昭和41年)、傷病米兵「王子野戦病院」が市民や新左翼の反対運動激化の中で開設された。
まずは、軍都と呼ばれたこの地において、幕末から綿々と続いた軍需の歴史を詳しく見てゆこう。

前史

幕末の軍需工場

 黒船来航により、江戸湾防衛の必要性を認識した幕府は1853年(嘉永6)品川沖に台場を創って大砲を設置することになり、湯島 *注1 に製造所を建設。 のちに小銃も製造することとなり「湯島大小砲鋳立場」と称した。
しかしこの大砲は、従来の鉄砲鍛冶の鋳造法による青銅砲であったため品質が悪く、欧州の先進技術による新工場が求められた。型に熔解した銅を注いで棒状の砲身に鋳立ててから芯をくりぬいて筒状に仕上げる錐入れ方式を採用、螺旋状の溝を作る機械類はオランダ・フランスから輸入された。
1863年(文久3)錐鑚機の動力として水車を用いるため、水利の便が良かった関口水道町 *注2 で操業を開始。1864年(元治元年)には湯島を廃止して関口大砲製造所に統合された。ここで造られた大砲は青銅製であったが、欧州はすでに鉄製大砲の時代を迎えていた。今度は鉄を精錬するために反射炉を建設することが計画されたが、低湿地の関口は不適当で、滝野川村 *現在の醸造試験所跡地公園 に決定。武田斐三郎 *注3 が責任者となり工事が進められた。耐火煉瓦は伊豆梨本から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、1866年(慶応2)に完成した。

 元治元年7月、小栗上野介忠順、川勝丹波守広運、竹内下野守保徳、立田主水正正直の4名連名で、反射炉・錐台建設についての上申書「滝野川村地内反射炉錐台(すいだい)御取建之義に付申上候書付」が提出された。海舟全集第6巻「陸軍歴史上」(原文は漢文)、現代語文にしたものが「北区史」に載っていました。
              *
「大砲製造の義につき、追々仰せ出され候趣もこれあり候ところ、反射炉御建築の義、永久鋳造所に然かるべき地所見立て、錐台(すいだい)その外とも一所に取纏め候見込みにて申し上ぐべき旨、御書き取りの趣、その意を得奉り、御府内近郊の内、地勢水利の便否それぞれ取り調べさせ候ところ、滝野川村地内において反射炉・錐台等御建築相成(なり)候わば、水利の便利は勿論、永久然かるべき地所と相見込み候につき、先達て(せんだって)御勘定方支配向差し遣し、実地見分致し、分間測量など致させ候ところ、同村耕地堀割千川の水引入れ、水車仕掛けに致し候えば、便宜の御場所と相成るべき趣、(中略)御膝元近きの御場所において滝野川村地内の外、相応の場所これなく候間、いずれにも同所へ御決定下され、引続き千川堀割長九百間余の処、早々御普請の積り相心得、前文云々の始末から篤(とく)と御熟考の上、厳しく御作事奉行へ御内論の御沙汰成下さるべく候、これより此段申上侯」
              *
滝野川が候補となったのは、千川上水の水車の利用が可能なこと、隅田川に通じている石神井川を利用すれば、原材料や大砲の運搬が容易であることが理由でした。

注釈
(1)現在、 東京医科歯科大学が建っている場所
(2)「関口水道町」は、現在の江戸川橋の南一帯の旧町名 交番のあるビル付近に関口大砲製造所があった。
(3)武田 斐三郎(たけだあやさぶろう)は、日本の武士、科学者、教育者、陸軍軍人。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年3月、陸軍大佐。 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長。

明治期の近代兵器工場(板橋火薬製造所と十条兵器製造所)

1868年(明治元年)新政府は旧幕府の関口製造所・滝野川反射炉を管轄。
1871年(明治4)小石川の旧水戸藩邸跡 *注4 に火工所(小銃実包の製造)
翌年には銃工所(小銃改造・修理)大砲修理所を置き、操業を開始した。
1876年(明治9)滝野川反射炉から約2キロ上流の加賀藩江戸下屋敷の広大な跡地に、石神井川の水力を利用した火薬工場(砲兵本廠板橋属廠)を設置、明治政府が初めて設置した火薬製造所である。1882年(明治15)に「陸軍板橋火薬製造所」と改称。
1894〜1895年(明治27〜28)日清戦争
1904〜1905年(明治37〜38)日露戦争
1911年(明治44)火具製造所(銃砲製造所)を、小石川から十条台(当時の王子村)に移転、陸軍造兵廠の火工廠となる。

1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害を受けた小石川の「東京砲兵工廠」の機能を小倉工廠に移転させる。王子の火具製造所と銃砲製造所とが合併し、陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所となる。

注釈
(4)小石川後楽園、東京ドーム、礫川公園、シビックセンターあたり一帯

太平洋戦争(東京第一陸軍造兵廠、東京第二陸軍造兵廠)

1930年(昭和5)陸軍造兵廠火工廠本部事務所として(現)北区中央公園文化センター建造。
1937年(昭和12) 日中戦争開始。
1940年(昭和15) 十条台は東京第一陸軍造兵廠、板橋は東京第二陸軍造兵廠に改編された。*注5
第一造兵廠と第二造兵廠、板橋製造所王子工場(現)国立印刷局王子工場、堀船倉庫を結ぶ鉄道が敷設された。*注6

注釈
(5)その他の施設として川越第三製造所(埼玉県ふじみ野市)小杉製造所(富山県射水市)大宮製造所(埼玉県さいたま市)
(6)

戦後(王子キャンプ、米国極東陸軍地図局、王子野戦病院)

1945年(昭和20) 終戦
1947年(昭和22) 第一陸軍造兵廠はアメリカ軍に接収され「東京兵器補給廠第4地区(TOD :Tokyo Ordnance Depot)」となる。
1950〜1953年(昭和25〜28年)朝鮮戦争
1953年(昭和28)米国極東陸軍地図局( U.S.  Army Map Servise、Far East)第64工兵技術大隊が伊勢丹から移転してくる。
56年、第29工兵技術大隊を母体として再編成され、同時にGHQが日本の地理調査所に全国の基準点・地名調査を行うよう指令を出して集めた報告と空中写真と照らし合わせながら地図制作を行なった。新たに作成されたものは、5色刷りで等深線等の海図情報も含まれていた。59年には日米地位協定の下で双方が使用できる5万分の1地図が作成された。この間に写真測量で作成された地図は日本と東南アジア各地に及ぶ。
1955年(昭和30) ベトナム戦争始まる。
1958年(昭和33) 東京兵器補給廠地区の一部が自衛隊十条駐屯地、残りは引き続き米軍が王子キャンプとして利用するようになる。本部の建物は伊勢丹から移ってきた米国極東地図局が使用していた。
1966年(昭和41) 米軍極東地図局はハワイへ移転。
移転後は区への返還が決まっており児童公園の計画が進んでいたところに米軍による野戦病院開設が発表された。この野戦病院設置には、北区反戦連絡会議(社会党・共産党・地元住民)が反対を表明。
1967年末、米国はベトナム戦争激化に伴って増える傷病米兵に対応するため、入間市ジョンソン基地の野戦病院を、東京・北区の米陸軍王子キャンプ内へ増設することを決定した。







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