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モン・サン・ミッシェルを描く

ポール・シニャック(1863-1935年)

モン・サン・ミッシェルの眺め         1897年(当時画家は34歳)           オルセー美術館所蔵であるが保管はルーヴル美術館(現在は非公開)

上のイメージは何の景色だと思いますか?山の上に建物が乗っかっていますよね。全体が点で構成されているのがオリジナルな、また不思議な感じを演出しています。では下のイメージはと言うと迷いもなくモン・サン・ミッシェルですよね。実は上もモン・サン・ミッシェルなんです。作者のポール・シニャックはフランス人のアーティストで、点描主義を代表する画家のうちの一人と言いきってしまって間違いない存在。印象派、とくにクロード・モネの影響をかなり受けていますが、特に海が好きで海の絵を多く描いています。

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19世紀終盤以降今日に至るまで、モン・サン・ミッシェルは特に多くの写真家(プロ、アマチュアを問わず)を魅了して止まない。では、絵画はどうかと言うと、意外と少ない。私は若い時毎日の様にモン・サン・ミッシェル往復をしたが(フランス公認のガイドとして)、写真撮影をしている人々に比べて現地でスケッチしている人はそれ程見かけなかった。1979年には<モン・サン・ミッシェルとその湾>としてユネスコ世界遺産に登録されているが、それ以前の1874年に既に国の歴史的建造物に指定されている。と言うと、シニャックが作品を完成させるよりかなり前の事になる。そのあたりと言うと特にモネ、セザンヌ、ルノワール等の印象派と呼ばれた芸術運動が繰り広げられた訳であるが意外とこの魅力的な建造物に魅せられて描きあげた者はいない。

モン・サン・ミッシェルの岩山自体は紀元前から存在していると言われており、その名の通り<聖ミカエルの山>という意味である。その伝説の興味深さや歴史、特に巡礼で多くの人々が訪れているか、同時に不思議ではあるがその外観の尊さに惹かれて訪れる者も数多い。

フランス革命時に牢獄となって以来、再び修道院となったのは1865年以降、オムレツで有名になったホテルレストランのラ・メール・ブラールは1888年に創業開始した。そのレストランのホームページによるとクロード・モネ、パブロ・ピカソ、ベルナール・ビュフェ、藤田嗣治、ジャン・コクトーなどが(モネ以外は印象派ではないが)訪れたそうだ。藤田画伯のサインとイラスト入りノートが建物の階段の壁に飾られているのはあまり知られていないが、1958年8月12日の日付けが入ったものが確かに今でもふと目に止まる。

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それにしても、モネは同じノルマンディー地方でもやはりその形が不思議な事で有名なエトルタの海岸(ギュスターヴ・クールベのも素晴らしいと思う)等は描いているのにモン・サン・ミッシェルは見たことが無いし、また、モネに多大なる影響を与えたウジェーン・ブーダンは、オン・フルール出身なのにやはりモン・サン・ミッシェルの絵画は皆無である。

文豪の中で一番モン・サン・ミッシェルと縁が深いのは何と言ってもヴィクトル・ユーゴであろう。34歳の時に恋人と共に訪れたモン・サン・ミッシェルが牢獄にされているのを知り、ナポレオン三世に掛け合い、牢獄廃止令を出させた程であるから、その繋がりは半端ではない。<陸では8里、海では15里先からでも目に入るモン・サン・ミッシェルは中世の彫刻をあしらった巨岩に乗る気高く驚異的なピラミッドの様だ。その巨大な塊はある時はケオプスの砂漠、そしてある時はテネリフェの海となる。>という言葉で絶賛している。

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実はそのヴィクトル・ユーゴによるデッサンを見つけた。よく見ないと何だかわからないが…、(よく見ると下の方にモン・サン・ミッシェルが見える)1847年頃のものである。最初に訪れて以来、特に牢獄廃止になるまで、モン・サン・ミッシェルの文化価値を訴え、その保護の必要性を説得するのは容易くなかったであろうと察する。

何故そこまでしてヴィクトル・ユーゴはモン・サン・ミッシェルを守りたかったのか?考えられる大きな理由の一つとして、フランス北西部には他に巡礼の地が無かった事、希少価値、そしてやはり言葉で言い表し難いがその場に行かないとわからない何かオーラの様なものを発しているところではないか。さらに考えられるのはユーゴが名作<レ・ミゼラブル>を書き上げた少し後にモン・サン・ミッシェルは牢獄廃止となっている。牢獄としてのモン・サン・ミッシェルの姿は作家にインスピレーションを与え続けたのかもしれない。そう考えると牢獄の話しは別にしてもモネやブーダンにも絵画作品として取り組んで欲しかった。どんなに素晴らしく印象深いものになったかなと思うと…。しかしながら印象派にはあまり好かれなかったようた。

ポール・シニャックは新印象派とみなされている。勿論モネの事を尊敬していたが印象派グループの中にはいなかった。さてそれではポール・シニャックの点描画とモン・サン・ミッシェルとの関わりはいかなるものか?点描とはテクニック的に簡単に言ってしまうと線の代わりに点の集合で表現する技法である。点は細かい程構成に複雑味をもたらす事も可能である。その複雑味を調整する事で空気感やボリューム、自然の豊かさ等が表しやすくなる。下のイメージもシニャックによるものでマルセイユを描いたものである。タイトルは<ノートルダム・ド・ラ・ガルド>(ラ・ボンヌ・メール)、1905-1906年。メトロポリタン美術館、ニューヨーク所蔵。手前の一連の船を除くとモン・サン・ミッシェルと似通っている。シニャックは自分でヨットを操縦するくらい海好きだったのでこういった雰囲気はまさに彼らしいと言えるのではないか。

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また、モネの暖かい色彩の表現を好んでいたので、点描テクニックを利用して自然の優しい、そして明るい一面を出したかったのであろう。このノートルダム・ド・ラ・ガルドにも、モン・サン・ミッシェルにも一切人物が登場していないが、それぞれ船や柱がその役割を果たして構成に活気を与えている。全体的に点描が光を追求し、まさに空気感を出しているが、これはひとえにアーティストのタッチへのこだわりから生まれたものであろう。

最後に、これはあくまでも余談だけど、シニャックの絵をみると個人的にとある化粧品ブランドのとある製品をおもいだす。カラフルな粒つぶのファンデーションであるが、丁寧にミックスして使用すると肌に透明感をもたらし、鮮やかな明るい色が出来上がると言う効果は否めない。(私も数年来愛用しているので効果は保証出来る。まさに研究の成果だ。)現代のモン・サン・ミッシェルには伝説の、歴史の、ましてや牢獄時代のイメージなどは見ただけでは浮かんでこない。シニャックが何処までモン・サン・ミッシェルのストーリーに興味を持っていたのかは知らないが、1894年頃と言う時代にしてはある意味スタイル的に斬新だったのではないか。点描画でも人物を描いている例がいくらでもあるが、自然の表現に活用するのにも、このテクニックは最適であると提案したかったのではとも思える。

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