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名曲喫茶

暑い。

陽射しと、アスファルトの照り返しで、焼け死ぬんじゃないかとすら思う。

それに脚にも限界が来ている。

散々、歩き回った脚の指は、靴の中で吊っており、指と指が捻れて重なっていた。

「とにかく涼みたい。ゆっくり座って水分補給をしないと。冷たければ何でも構わないから」

けれど、どの店も満席で、私の入れるカフェが見つからない。
一旦、涼しい店内に入れた人々は、
もはや灼熱の元には出たくないだろう。



「まずい、クラクラする。熱中症になりそう。というか既になってる」

路の真ん中で、倒れるわけにはいかない。

ふらついた脚で、私は休める場所を探していた。


「あの店は、どうだろう」

真正面に、古そうな店がある。

近づいてみると、重そうで厚みのある、立派で歴史がありそうな木造りの扉。

【名曲喫茶 ラヴェル】


名曲喫茶には入ったことが無いけれど、命がかかっている今は、お店を選んでる場合など、あるはずは無い。

中の様子が、まるで見えない。

少し不安になりながら、私は木の扉を開けた。

瞬間、スゥ〜ッと心地よい冷気が、
顔を撫でた。

席は、空席はあるのだろうか。

その時、女性が小さな声で、
「いらっしゃいませ」
と云うと、手のひらで空席を示してくれた。

私は軽く会釈をすると、女性が案内してくれた空席に、半ば崩れるように腰を下ろした。

天国だ。
天国だけど死なずに済んだ。


薄暗い店内に、静かにクラッシックが流れている。

とにかく何か飲まなければ。
テーブルに、小さなメニュー表があったので、私は手に取った。
数種類の飲み物と軽食だけが記されている。

その時、テーブルに、水の入ったコップが置かれた。

「お決まりになりましたか?」
さっきの女性だ。

「アイスコーヒーを」

「かしこまりました」

入った時、私の視界は霞がかかったようにぼやけていた。

迎えてくれた女性は、かなり御高齢だったことに、いま気が付いた。
とても品のある女性。

私は置かれたコップを持ち、一気に水を飲み干し、あっという間にコップは空になった。

徐々に精気を取り戻した私は、店内を見渡してみた。
すると、他には誰もいない。

「お客は私だけ?」

「僕も居ますよ」

驚いたことに、私の隣りの席には男性が座っていた。
全く気づかなかった。
かなり若そうな人だ。

青年と呼んだ方が相応しい年齢に見えた。

けれど髪型は、若い青年にしては、
坊主頭であり、服装も現代の物とは、かけ離れている。
なんて言うか、全体的に古めかしい。

でも今は自由な時代なのだから、自分のしたい様にしていいのだ。


「お待たせ致しました」

女性はアイスコーヒーを置くと

「ごゆっくりさなってくださいね」
そう云うと、離れた席に座った。

アイスコーヒーは深みはもちろん、苦味のある、酸味の少ない、私好みの味がした。


「気に入ってもらえましたか」
隣の青年に、そう訊かれたので
「はい、とても」
と、私は答えた。

見ると青年のテーブルには、何も置かれていない。
水の入ったコップさえ。
あの女性の知り合いなのかもしれない。


私の脚の疲労と痛みも、少し楽になっていた。

今は休んではいられない状況にいた。

読書好きの父が、若い頃に開いたのは本屋である。
けれど今の時代、紙の本の売上は、ご存じの通り、かなり激減している。

電子書籍の良さは私にも判る。
けれど、紙の本で育った私は無くならないで欲しい。


閉店に追い込まれた本屋は、想像以上に多いのが現状だった。

父の本屋も経営が困難になり、母が働いても借金は増える一方だ。

私自身も読書が好きなこともあり、
父の本屋を守ることは、大袈裟なようだが、自分の使命のように感じた。

20年近く勤めた会社を退職した私は、家業の本屋を立て直すことに、必死に取り組んでいた。


かなり難しいことは想像がついていた。
けれど諦めたくはなかった。


店内には有名な絵画の複製が飾られ、レトロな照明に照らされている。


流れている曲が、心地よかった。
聴いたことはあるけれど、曲名は知らない。


「『亡き王女のためのパヴァーヌ』です。作曲はラヴェル。フランスの作曲家です」


「ラヴェル。バレエ音楽の『ボレロ』の作曲家ですか?」

「そうです。『ボレロ』もいい曲ですね」


私は声に出してはいない。
なのに何故、青年は私の思ったことが判るのだろう。

こんな時、怖さを覚えるはずだ。
けれど、不思議なことに私は普通に会話が出来ていた。


御高齢の女性は、幾つか飾られている絵画の1つだけを、ずっと見つめている。

それは、西洋の絵画で、可愛らしい少女を描いた作品であった。


「彼女の娘は6歳の時に亡くなりました」

私は青年を見て、そして尋ねた。

「『彼女』とは、あそこに座っている
御高齢の女性のことでしょうか」


青年は、静かに頷いた。
気のせいか、その目は潤んでいるように見える。

一体この青年は、何者なのだろう。


「あの絵画は、スペインの画家である、ディエゴ・ベラスケスが描いた作品で、『マルガリータ王女の肖像画』です。
ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』のモデルになった絵画とも云われています」

博識な青年は、そう教えてくれた。


「6歳の時に亡くなった娘の面影を、彼女はあの絵画に見たのでしょう。それ以来、彼女はラヴェルの曲と、あの絵画の虜になりました。
そして彼女は、40歳を過ぎた時に、この店を開いた……」


「そうだったのですか……お辛かったですね。きっと今も。

ご主人も、クラッシックが好きな方なのでしょうね」


「……彼女の夫は、娘が一歳にも、満たない時に遠くに行くことになったのです。そして二度と妻と娘の元には帰れなかった」

私は何も云えなかったーー。


「傍に、いたかった……」


青年が、何故そう呟いたのか。
私には判らない。
けれど彼の傷の痛みは、私にも届いて来た。


そろそろ店を出よう。
そう思った時、テーブルの隅に小さな卓上カレンダーが置いてあることに気付いた。


(昭和20年 8月15日)


かなり古い。このままにしておく理由でもあるのだろうか。
この日付。
何かがあったような。

私が席を立ち、帰ろうとした時、

「貴女も大変でしょうけれど、頑張ってください」

青年が私の目を見ながら、真剣な顔をして、そう云った。

続けて今度は静かに微笑みながら

「無責任に訊こえるかもしれませんが、貴女なら大丈夫だと僕はそう信じています」


そう言葉をかけられた私は、泣きそうになった。

「ありがとうございます。頑張ります」

青年にお辞儀をし、私はレジに向かった。

大きな柱時計が時刻を告げる。

見ると針は、正午を指していた。

そんなはずはない。

私がこの店に来た時には、3時近かったはずだ。

古そうだし、壊れているのかも知れない。


レジに行くと、既に女性が立っていた。

「お会計をお願いします。あ、それからアイスコーヒー、とても美味しかったです」

女性はにっこりと、優しい表情を見せた。

「ありがとうございました」

女性の声と、チーンという懐かしいレジの音が背後から訊こえた。


覚悟はしていたが、扉の外では、
亜熱帯になった日本の夏が、容赦なく待ち構えていた。


居心地の良いお店を発見できて、私の気持ちは満ち足りていた。

「それにしても、不思議なお店だったな。まるでタイムスリップしたような感じで。あの青年からは最後まで、気配みたいなものを全く感じなかった」

その時、一つのアイデアが浮かんだ。
「帰ったら電話してみよう」

茹だるような夕陽を、避けるようにしながら、私は駅に向かって歩いた。


夜になり、私は友達に電話をかけた。
彼女は小説家志望で、何回か大賞候補にも上がったことがある。

しかしまだ小説家になれずにいる。

私は彼女の書く小説が好きで、応援している。

書店が生き残るには、その店でしか購入することが出来ないといった、何らかの付加価値が重要だと訊いていた。


私が『名曲喫茶  ラヴェル』でのことを話したら、彼女は興味を持ったようだ。


ネットで調べてみたが、お店の情報は、どこにも見つからなかった。

「吉祥寺でしょう?それならよく行くから、見つけられると思う。さっそく取材に行ってみるね」


自費出版になるので、資金が必要だが、二人で折半することにした。

『ラヴェル』の彼女が、取材に応じてくれるといいのだけど。
無理強いは絶対にしたくは無い。

(ひっそりと店を開いていたい)
もしも、それが彼女の願いなら、その気持ちを尊重することが、何より大切だと思うから。

そのことは、友達にも伝えた。
彼女も十分、理解していた。


2日後。
友達から連絡があった。

場所の見当は着いていたので、行ってみたが、そのような店はどこにも無かった。

メールを読んだ私は、電話をかけた。


「残念だけど、本当になかったのよ。私も行きたかったな、その店に」

信じられない私は、翌日お店のある場所に行った。


「どうして」

お店は、『名曲喫茶  ラヴェル』は、
姿を消してしまった。

更地になり、売りに出されていた。

お店のあった、形跡も残ってはいない。
私は暫くの間、その場所から離れられなかった。

辺りが薄暗くなり、仕方なく帰ることにした。
力なく歩いていると、書店を見つけたが、そこは貸しビデオとCDも扱っている。

この書店も、生き残りを賭けて決断したのかも知れない。
そう思った。

私は中に入ってみた。

本の並べ方もお洒落で、探しやすく配置してある。

その中に、他の本たちとは違う、異彩を放った写真集が目に止まり、私は手に取った。


戦前・戦後の日本の様子を収めた写真の数々。

ゆっくりとページをめくっていた私の手が止まった。

それは、これから戦地へ向かう若い青年たちの姿が映っている写真であり、『ラヴェル』に居た彼の姿もあったのだ。


まだ、二十歳くらいの青年の写真は、確かに『ラヴェル』の彼に間違いなかった。


あっ! 8月15日。その日は
終戦記念日ーー。


「そうだったんですね……」

あの高齢の女性は、青年の妻だったのだろう。


   傍にいたかった


青年の、あの言葉は自分の妻と娘への想いだったことを私は今、知った。


私はその写真集を買うと、すっかり夜になった街を歩いた。

私があの店に呼ばれたのは、どうしてだろう。

憶測でしか無いが、もしかしたら、護りたいものへの気持ちが、青年と繋がったのかもしれない。


それが人であっても、物であっても。
護りたい何かがあることは、きっと同じなのだ。

そう思えた。
だから青年は「頑張ってください」
そう云って励ましてくれたのだと。

私の勝手な解釈でも構わない。

   護りたい何かが
   ある。
   そこに、偽りなど
   微塵も無いのだから。


      了


* 「亡き王女のためのパヴァーヌ」
 のモデルとなったらしい絵画の
 マルゲリータ王女は、当時亡く
 なってはいません。
 ラヴェルは、この肖像画を観て
 可愛らしく踊っている様子を
 思い浮かべて作曲したそうです
 

 パヴァーヌとは、この時代に
 流行っていた、ゆっくりとした
 ダンスとのことでした。





 

        


































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