引き潮
部活を終えて帰ろうと、美波は靴を履き替え、外に出た。
ポン、ポン、ポン、ポン
その音の正体は分かっている。
楓が壁を蹴る音だ。
美波は、その様子を黙って観ている。
少し離れたところにある壁を、今日も楓は蹴っていた。
感情が昂ぶると、楓は壁を蹴る。
また何か有ったのだろう。
美波は少しずつ近づいて行く。
ショートヘアーの似合う楓は、悔しそうに唇を噛みながら、何度も何度も蹴り続けていた。
「脚の指が可哀想だよ、楓」
美波は、そう声をかけた。
白い上履きの先端が、赤く染まっている。
「ダメだった」
楓はポツリと云った。
「そっか」
💜
楓はバレー部だ。
今日は県大会に出るメンバーの発表があったはずだ。
楓は人一倍、練習をしてきた。
だから、悔しいと思う。
「ねえ、美波」
「ん、なに」
「なんで、曽根が選ばれて、わたしはダメなの?おかしいと思わない?」
「あぁ……」
曽根という生徒がいる。
彼女は、教頭先生の娘だ。
「楓、分かってるんでしょう?」美波は静かに云った。
「教頭の娘だから、だよね?」怒った口調で楓は答えた。
「たぶんね」
「そんなのって、ありなわけ?実力じゃないの?」
「楓の悔しさ、よく分かるよ。でも仕方がないのよ、こういうのって有るんだよ」
楓は、また壁を蹴り始めた。
小さな声で、
「くやしい、くやしい、くやしい!」
そう言いながら。
ポン!ポン!ポン!ポン!
「楓やめて!本当に指を痛めるよ」
楓はやめない。
「ズルイ、ズルイ、ズルイ!」
泣きながら蹴っていた。
私はもう止められないことを悟った。
💜
夕焼けが、校舎の窓を真っ赤に染めている。
その太陽が、小高い山に沈むまで、楓の蹴りは続いた。
2人で校門を出た時、楓が私に云った。
「付き合ってくれて、ありがとう美波」
私は「うん」と云って、楓の背中を軽く叩いた。
「家では泣けないから。家族が心配するからね」
「ただ、県大会に出られないって知ったら、ガッカリするんだろうなぁ」
楓は悲しそうに、云った。
「頑張れ、楓!」
「うん、そうだよね。『ダメだった、テヘペロ』、でいっか」
「テヘペロは、ちょっと古くない?」
「えっ、古いかな」
私は笑いながら、楓を見て云った。
「でも、いいよ。テヘペロで」
「そうだよね、テヘペロにしよう」
「あっ、キレイ」
楓が地面を見てそう声をあげた。
「こんなに寒くても、咲いてるんだね」
「そうだね。頑張ってるよね」
「それじゃ、また明日」
「うん!またね、バイバイ」
「バイバイ、美波、テヘペロ」
楓は、そう云って笑いながら、走って行った。
《世の中、理不尽すぎる》
💜
私は思った。
皆んなは楓のことを、男の子みたいな人。
なんにも気にしない人。
そう思っている。
けれど、実際の楓は、繊細で家族想いの優しい子だ。
「私は知ってるからね、楓」
「あ〜、お腹空いた。急いで帰ろう」
カレーだといいなぁ。私はそう思いながら、横断歩道を渡った。
翌日、美波が登校すると、教室に沙也加が一人で席に座っている。
顔を見ると、ふくれっ面だ。
「沙也加、おはよう、どうかした?」
「あ〜美波〜、聞いてよ」
私は隣の席に座った。
「わたし、もうヤダ!」
「何か有ったの?」
「大有りよ。今朝来たら担任の鎌田が居てね、今日から図書室の担当をして欲しい、ですって!」
「図書室の担当?何それ」
「図書委員の部長をやれって云われたのよ」
「だって沙也加は、水泳部じゃない」
「でしょう?水泳部を辞めて欲しいって、読書部の部長だって、わたしが」
「そんな……」
よく聞くと、読書部の部長を務めていた人が、スキーで脚を骨折したらしく、部長を辞めたい、と顧問でもある鎌田先生に伝えたらしい。
沙也加は読書が嫌いなのに。
気の毒な話しだと思う。
💜
「なんで、わたしなんですか?」って聞いたの。
「うん、そしたら鎌田先生は何だって?」
「『キミは成績もいいから、読書が好きだと思うから』だって!」
どうして、イメージで人を決め付けるかなぁ。
「美波、お願い、手伝ってくれる?わたしは本を読まないから不安で」
「いいよ。どうせ“ダム部”は暇だし」
「暇なんだ、ダム部」
「暇よ〜、部費がろくに出ないから、近場のダムしか行けないし。近場だったら皆んなとっくに行ってるもん」
「ダム部には悪いけど、すごく安心した。美波が一緒なら助かる。それにしても、ダム部って、聞いた事がないよ。よく学校が許可したよね」
「だって校長先生がダムマニアだからね」
「あ、な〜るほど」
その日から、私はダム部に少しだけ顔を出したら、図書室に行き、沙也加を手伝うことにした。
本を読むのは好きだから、嫌ではない。
それより沙也加がオロオロしている方が気になる。
作家の名前も、ほとんど知らないから、どこの棚に並べればいいのかが分からないらしい。
「これは慣れるまで時間がかかりそうだわ」
私はそう思った。
💜
ある日、私は楓と沙也加と3人で、ハンバーガーを食べていた。
その時、ある事を提案した。
「ねえ、旅行しない?」
2人は急な話しに、目をパチクリさせている。
「来年は受験も控えてるし、今の内に3人で行きたいんだけど」
「旅行ねぇ、行きたいな」楓が云うと、
「わたしも行きたい。で、どこに行くの?」
沙也加も乗り気になっている。
「私が、この高校に転校する前に住んでたところ。いいよ〜、海が近くだし」
「海の近くなら、行く。大好きだから」と、沙也加が答えた。
楓は、なにやら怪訝そうな顔をしている。
「海が近いのは、いいけど、まさかダム見学じゃないよね?」
「しないわよ、そんな事。それにね、行きたい場所があるの」
「行きたい場所?どこ?」
「海岸なんだけど、すごく思い出があるのよ、だからお願い、付き合って」
私が手を合わせると、2人は笑顔でOKしてくれた。
💜
そして私たちは、今、その海岸にいる。
沙也加が「綺麗ねえ」と云い、楓は、
「美波がいた場所なんだね」と私を見た。
「そうなんだ。この海岸には、しょっちゅう来てた。あそこに島があるでしょう?」
「あの島は無人島なんだけど、あそこまで泳ぐ練習をしてたのよ」
2人は驚いた表情をした。
「泳ぐって、美波、泳ぎはあまり……」
「そう、泳げないのよ私は。だけど引っ越して来た時に、うっかりスイミングクラブに通ってました、って云っちゃったから、クラスの子達は私のこと、凄く泳げる子って思うようになってしまったのね」
「あちゃーー」楓が額を押さえる。
「美波がスイミングクラブに通ってたのは、金づちを克服するためだったんだよね?」
「うん。だけど、もう云えなくなっちゃったのよ。恥ずかしくて」
「それで練習してたの?」
「そう、毎日」
「毎日!!すごい!!」楓と沙也加は同時に叫んだ。
「それで泳げるようになった?」
「全然ダメだった。バレる前に父の転勤で、また引っ越したから良かったけど」
「でも、あの島はキレイだね。行ってみたいよ」楓が云うと、沙也加も頷いている。
「行けるわよ。それも簡単に」
「そうなの?船か何かで?」
「ううん、歩いて行けるの」
「歩いて行けるの?でも海に囲まれてるのに」
「引き潮の時に、陸が出てくるの。そこを歩いて行けばいいだけなの」
💜
「もうすぐよ、引き潮になるから、見てて」
私たちは、その時を固唾を飲んで、待った。
次第に海の水が引いていくのが分かる。
およそ、I時間で、島までの道ができた。
「すごい!ホントに道だわ」
「もちろん美波は歩いたんでしょう?」
「1度も無いのよ」
「えっどうして?」
「泳いで渡らないと、いけないって思って」
「そんな事、ないのに〜」楓が呆れた顔で、そう云った。
沙也加も、「わたしもそう思う。でも美波らしいよ」
「そうなの、『私らしい』の。いつも何故か、難しい方を選んでしまう。
引き潮を待っていれば、簡単に渡れるのに……」
「皆んなの、『私は泳げる人』っていうイメージに、応えなきゃ。そうも思ってた。
だから簡単に島まで行っては、いけないと思って……」
「『応えなきゃ』なの?『応えたい』ではなくて?」
沙也加が聞いた。
美波は自然に涙が流れた。
「うん。自分からしたいわけじゃなくて、強迫観念みたいな感じで……」
「そんな観念、直ぐ捨てちゃいな、美波」
楓が云った。
「いらないよ、そんな観念。美波が苦しくなるだけだよ。期待に応える必要なんてない」
「そうだよ、美波は美波でいいのよ。周りなんて無責任なんだから」
美波は泣きながら頷いた。
「イメージって恐いね」沙也加が呟く。
「確かに」楓が云う。
「イメージ なんて他人が勝手に思っているだけなのよ、美波」
「そうよ、だから振り回されてなくていいの」
沙也加と楓が、優しく美波に話しかけた。
「それと……わざわざ無理しないといけない方を選ばなくていいのよ」
「楽な方を選んだら、ゆっくり周りの景色も見渡せるんだから」
沙也加の言葉に、美波は涙が止まらなかった。
「美波、分かった?沙也加のいう通りだと思うよ」
「うん、もう……無理しない」
楓と沙也加は、笑顔になった。
「じゃあ、行こう!島まで歩こう!」
「いいよね、美波」
「もちろん行くよ」美波は泣き笑いの顔で返事をした。
3人は、島までの道を歩き出した。
その姿を海は、穏やかに見守っていた。
🐟🐬🐠
了
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