懐かない猫
同僚に、無理矢理マージャンに誘われて、気がつけば終電を逃してしまった俺は、仕方なくタクシー乗り場へ向かっていた。
「真夜中の路地裏を歩くのは気分のいいものじゃないな。タクシー乗り場までの近道だから、仕方なく通るが」
しかし、どうしてこうも殺伐としてるんだろうか。
昼の顔と夜中の顔が全然違うのが、容易に想像がつくのが路地裏なんだろう。
カタ……
ん?いま何か音がしたよな。
俺は脚を止めて、振り返った。
誰もいない。
まぁいい、早くタクシーに乗って帰ろう。
俺はまた歩き始めた。
カタン……カタ……
俺は、もう一度脚を止めて、こう云った。
「幽霊、今はお前を相手にする暇などない。またにしてくれ」
歩き出そうとした時、俺は何気なく下に視線を落とした。
🔸🔹🔸
壁に立て掛けてある自転車、その陰に何かの気配がする。
暗くてよく見えない。
仕方なくゆっくり近づいてみた。
人だ。それもたぶん女性だろう、長い髪をしている。
自転車に隠れるように、小さくなって、しゃがみ込んでいた。
「おい、大丈夫か?酔って寝てるんじゃないだろうな」
「……」
「マジかよ。こんな場所で寝たりしたら危険だぞ。チンピラに絡まれたら、どうするんだ。起きろ」
その時だ。
ガッシャーン!
その女はいきなり自転車を蹴った!
「いてて!オイ!何をする、人が親切に」
女は俺の話しを無視して走って行く。
「オイ!まて!」
俺はカッとなり、女の後を追い掛けた。
🔸🔹🔸
女は、長く黒い髪を左右に振り乱し、かなりのスピードで走って行く。
「は、速い、30にもなると、このスピードはキツい。しかし負けてたまるか!」
ドッターン!
女は、滑ったらしく地面に転がった。
「よっしゃ!チャンス」
ようやく俺は、女に追い付いた。
寝転んでる女に俺は話しかけた。
「キミさぁ、何を考えてんだ。あんなところに独りでいたら、危ないことぐらい分かるだろう?」
女は無言だ。
「聞いてる?家が近いんならいいけど、電車は始発まで待たなきゃならない。タクシーに乗る金は持ってるの?」
「……い」
「え?なんて云ったの?」
「うるさいんだよ!オヤジ!」
🔸🔹🔸
「うるさいって、なんだよ。それに俺はまだ30になったばかりだぞ、オヤジ呼ばわりされるのは心外だ」
「うるさいって云ってるんだよ、ほっとけよ、他人のことなんか!」
「……キミ、ちょっと顔を見せてくれる?」
女は、わざと下を向いた。
「見せられない理由でもあるのかな?」
それを訊いた女は、上を向き俺を睨みつけた。
「やっぱり。まだ10代だよね、何歳?」
「1 8!文句ある?」
俺は、顔を覆っている女の髪に手をやり、額が見えるようにした。
「やめろ!なに触ってんだよ!大声出すよ」
「1 8なんて嘘だな。せいぜい15だ。大声出したきゃ出せばいい。困るのはキミの方だ。こんな時間に独りで外にいて、タバコの匂いもするんだから」
彼女は悔しそうにしている。
「キミの、その額のアザはどうした。いま転んで出来たわけじゃないだろう」
「ぶつけた」
「ぶつけた?どこに、いつ」
「あー!ほんっとに、ウザいオヤジだな。
早く帰れば?」
「悪かったな。お節介な性格なんでね。ホントに今晩、どうするんだ」
🔸🔹🔸
「大丈夫、ホテル代くらい出してくれる人はいるから」
「……まさか『パパ』とか云わないだろうな」
彼女は薄ら笑いを浮かべた。
「ダメだぞ!絶対!」
「なんで?せっかく女に産まれたんだから、利用しないと損じゃない」
「バカ云うな!分かった。俺がタクシー代を出すから、キミの家まで送る」
「絶対ヤダ!今は帰らないから!」
「親とケンカでもしたのか?」
「とにかくイヤなの!パパに電話する」
「やめろと云ったはずだ。しょうがない、俺の家に来い、一晩くらい泊めてやるから」
「オヤジの家に?」
「買ったばかりの新築マンションだぞ。たんまりローンが残ってるがな。それから何度でも云うが、オヤジではない」
彼女はクスクス笑った。
その顔は、まだ幼さが残る少女だ。
タクシーに30分乗り、マンションに到着した。
高層マンションとまではいかないが、高さは、それなりにある。
ハッキリ云って、俺は極度の高所恐怖症だ。
高層マンションなど住めるわけはない。
エレベーターに乗り八階で降りる。
暗証番号を入れ、ドアを開ける。
このシステムは最新式らしい。よくは知らないが。
俺のあとを着いてきた彼女は、半分寝ながら歩いている。
「ほら、着いたぞ。立ったまま寝るな」
玄関に入る。
すると彼女は靴のまま上がろうとしていた!
「まてまてまて!靴、クツ、履きっ放しで入らないでくれ、一応新築なんだから」
ボーっとしたまま靴を脱いだ彼女だったが、部屋に入るなり、
「ひろ〜い!ピカピカだ!」と、ハイテンションになった。
🔸🔹🔸
そのままリビングまで走り、カーテンを開けた。
「夜景もキレイだね、オヤジの家」
「だからオヤジでは……!!」
「ちょっと見せてみ」
俺は彼女の着ている薄手のトレーナーの袖をまくった。
「何するのよ、勝手にワタシに触らないで」
「これは火傷だよな」
「だったら何なの?火傷ぐらいすることもあるよ」
「普通の火傷じゃない、これはタバコだ。額のアザといい、お前、おかしいぞ」
「別に、おかしくないけど?」
「こんな夜中に独りで路地裏に座り込んでたのも変だし、何かあるのか?」
「なにもない!もう寝る」
「話せないわけでもあるの?」
彼女はソファーに黙って座っている。
「そう言えば、名前を訊いてなかったな」
「ネコ」
「ネコ?それは名前じゃないだろう。あだ名ではなくて本名はなんていうんだ」
「だからネコだってば。パパたちはワタシをそう呼ぶ。まるで懐かないネコみたいだって」
「……俺はパパじゃない」
🔸🔹🔸
彼女は驚いたような顔で、俺を見た。
「男が皆んなパパだと思ってるのか?だったら、それは大間違いだ。キミをちゃんとした一人の人間として見ている男達がほとんどだ。俺もな」
「……美帆」
彼女は呟くように云った。
「美帆さんか、可愛い名前じゃないか」
「何か飲み物でも持ってくるけど、美帆さんは何がいい?」
「冷えてる水がいいな」
「分かった、ミネラルウォーターが冷えてる。ちょっと待ってて」
俺も同じ物を冷蔵庫から出して、一本を彼女に渡した。
彼女は、すぐさまキャップを開けて、ゴクゴクと飲んだ。
よほど喉が渇いていたのだろう。
「落ち着いた?」
彼女は、うなずいた。
「話して欲しい。美帆さんは何かに苦しんでるように見えるんだよ。もしかしたら俺にも何か出来ることがあるかもしれない」
ペットボトルを両手で持ち、彼女は考えているようだった。
しばらくして、覚悟を決めたのか、彼女は話しを始めた。
「お母さん……アザも火傷も」
「美帆さんの、お母さんがやったのか?」
彼女は、うつむいた。
「そんな……自分の娘になんてことを」
「お父さんは知ってるの?このことを」
「お父さんはいない。何年か前に出て行ったきりだから」
「じゃあ、美帆さんは、お母さんと二人で暮らしてるんだね?」
「そうだけど、お母さんが、しょっちゅう男の人を連れて来る。いつも違う人。直ぐに振られて、それでワタシを叩いたり、タバコの火を手に押し付ける」
🔸🔹🔸
俺は彼女に、何て云ってあげれば……。
「お父さんが家を出て行ってから、お母さんは変わった。朝からお酒を飲んでばかりいる。夜になると外出して、男と帰って来る」
「……」
「ワタシは家にいたくなくて、だから……」
「だから美帆さんは、真夜中なのに、あんなところに居たのか」
「誰にも居場所を知られたくなかった。
隠れたかった」
そう云って彼女は泣いた。
俺は、彼女の好きなだけ、泣かせてあげたかった。
俺に出来ることは、それくらいしかなかった。悔しいが……。
一時間が経過する頃、彼女は泣きやんだ。
「美帆さん、生計は、生活はどうしてるの?お母さんが朝からお酒を飲んでいるのなら、仕事はしてないだろうし」
「お母さんの実家が、お金を振り込んでくれるみたい、ちゃんと話してもらえないけど」
「そうか。……俺は思うんだけど、美帆さんは、お母さんの実家で暮らすのは無理なのかな。お母さんは、アルコール依存症になっているみたいだから、専門の病院に入院した方がいいと思うんだけど」
「お母さん、入院したことがあるの。二回。でも退院すると、直ぐお酒を飲んでた。だから治らないと思う」
「そうか、あるのか……どうすれば一番いいのかなぁ」
すると彼女は云った。
「今のままでいいよ」
「だけど、このままだと美帆さんは、ずっと苦しむことになってしまうよ。いい案が見つかるといいんだが」
「本当に今のままでいいんだ」
「どうして?知らない男が家に来るなんて、美帆さんも嫌だろう?その……お母さんの暴力だって」
「ワタシが我慢すればいいだけだから」
俺は……言葉を失った。
こんな酷い目にあってもなお、彼女は母親の傍に居たいのか……。
どこのスケベジジイだ、彼女を『懐かない猫』などと呼んだのは。
彼女は懸命に、大人たちに近づき、寄り添おうとしているじゃないか!
それなのに、大人はどうだ?
誰か一人でも、彼女を受け入れたのか?
『懐かない猫』なんかじゃない。
『懐かせてもらえない猫』なんだ、この美帆という子は。
「どうしたの?泣いてるの?なんでオヤジが泣くの?」
「泣きたいから泣いてるんだ。それに俺はオヤジでは……」
「だってオヤジの名前、知らないもの」
🔸🔹🔸
「あ、そうか。教えてなかったな。俺の名前は、野田誠。教えたんだから、もうオヤジは無しな」
「分かった、誠」
「いきなりの呼び捨てかよ」
「ねぇ、一つ訊いてもいい?」
「なんでもどうぞ」
「誠は、一人暮らしなのに、なんでこんなに広いマンションを買ったの?」
「結婚するはずだったからさ」
「そうなんだ、でも結婚はしなくなったの?」
「ハッキリ云ってそう。相手の方がね。ドタキャンってやつ。マンションまで買ったのに」
「もったいないね、こんなに広いのに、誠、一人なんて」
「もったいだろ?俺もそう思うんだ、あっ」
「そうだ、美帆さん、ここで暮らす?」
「ここで、ワタシが?だけどお母さんが一人になっちゃう」
「お母さんが、男を連れてきた日にだよ。
あんな危ない場所ではなくて、真っ直ぐここへ来たらどうかな?」
「……いいの?」
「その方がいい。後で合鍵を作って渡すから」
美帆は、急に立ち上がった。
そして、俺に頭を下げた。
「ありがとう、誠さん」
「いいから、座って。あと、無理して『さん』を付けなくていいから」
それを訊いて、彼女は笑った。
それは初めて観る彼女の笑顔だった。
🔸🔹🔸
その晩は、ほとんど徹夜のまま俺は出勤した。
美帆は俺と一緒にマンションを出て、その足で学校に行った。
美帆が俺のマンションに泊まることで、現実が変わるわけじゃない。
何も解決していないのだ。
俺は、近々、美帆の母親と会ってみるつもりでいる。
それから三日後に俺は彼女と待ち合わせをした。
合鍵を渡すためだ。
新宿にある、フルーツパーラーの店の前で、俺は彼女を待った。
午後七時ぴったりに、彼女はやって来た。
制服姿の美帆さんは、いかにも15歳らしく見える。
しかし俺は、周りから、どんな風に見えるんだろう。
「パパ、お待たせ」
彼女がそう云った途端に近くにいる人達が、一斉に白い目で俺を見た。
「ちょっと、なに云ってんだ。俺はパパなんかじゃないだろう」
🔸🔹🔸
彼女は笑いながら、
「ごめんなさい、野田さん」と、云いペコリとお辞儀をした。
「ホントに勘弁してくれよ。お腹は空いてる?この上にレストランがあるから、ご馳走するよ」
「ううん、大丈夫。家でお母さんと食べるから」
「そうか、じゃあ鍵を渡すね、それから美帆さんの家の住所を教えて欲しい」
俺が住所を訊いたとたんに、彼女の顔から笑顔が消えた。
「どうして?」彼女は、顔を硬らせている。
「その内に、美帆さんのお母さんと、話しをしたいと思ってね」
「ワタシ、帰ります。鍵はいりません」
「えっ?だって……」
「お世話になりました。色々ありがとう野田さん」
それだけ云うと、彼女は俺に背を向けて、走り去った。
俺は、渡すはずだった鍵を持って、その場に立ち尽くしていた。
俺は……バカだ……。
彼女がどれだけ、母親のことが好きかを知ってるはずだったのに。
伝えるタイミングを過ってしまったんだ。
時折、俺は、あの路地裏を歩いてみる。
けれど美帆を見かけたことはなかった。
🔸🔹🔸
でも忘れたことはない。
こんな場所に、居ない方がいいに決まってる。
彼女には、苦しみから、解放されて、幸せになって欲しい。
マンションの場所は、覚えているよな?
辛くなったら、いつでも来ていいから。
元気で、無事で居て欲しい。
数週間後に春一番が吹いたとニュースを見て知った。
ピーン ポーン
「誰だよ、こんな時間に。夜中だぞ!!あ!」
まさか!そうなのか?
俺はベッドから出て、インターホンに近付いて行った。
カメラの画面を見ると
そこに写っていたのは
確かに……美帆だった。
《続編に続く》
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