虹
「あー!ムズムズする!」
寝ていた俺は起き上がり左脚の指を力を込めて握り締める。
「クソッ!」
言葉を吐き捨て、薬局の袋から錠剤を取り出す。
冷蔵庫から半分水の入ったペットボトルを掴むと、何錠もの薬を体に流しこんだ。
時計は午前3時を告げている。
「勘弁してくれよ。また寝不足のまま仕事になるのか」
パソコンのキーボードの上に無造作に置いたタバコを取り、一本加えた。
火を付けようとした時、キミの声がした。
(啓介、タバコを止めようよ。貴方のレストレスレッグスに、タバコは良くないのよ)
ぼんやり宙を見ていたが俺は火をつけた。
窓を開ける。
冬の冷え切った空気が、待ってましたと部屋に入り込む。
余りの冷え込みにベランダに出る気持ちは失せた。
口から、うっすら紫がかった煙を吐き出す。
何か音がして、そっちを見たら新聞配達の人がポストに朝刊を入れていた。
「ごくろうさん」
そう、呟くと俺は窓を閉めた。
部屋は真冬になっていた。
「うう〜さみ〜」
タバコを消して、再びベットに入り込む。
(足が冷えてる。暖めてあげる)
風花はよくそう云って、俺の足を自分の足で器用にさすってくれた。
(暖かい?)
「ああ、暖かいよ。ありがとう」
嬉しそうに彼女は笑顔になった。
「……」
俺はスマホを取り、弄り始めた。
特別見たいものがあるわけじゃない。
ただ何となく指が動く。
そんなことをしていたら、いつの間にか眠っていた。
新しい一日の始まり。
ベットから起き上がると、洗面所に行く。
顔を洗い、歯を磨き、そして髭を剃る。
新しい一日。
やることは同じ。
インスタントのコーヒーを飲む。
(カフェインもよくないんですって。ノンカフェのを今度買って来るね)
「俺のは同じレストレスレッグスでも1型の原因不明の方だよ?他の病気も患ってたり、その薬の副作用でなってる【II型】の場合だろう?タバコやカフェインが良くないのは」
(それは知ってるけど、原因不明だからって何もしないよりいいと思うから。特にタバコはよくないでしょ)
支度を終えて、俺は部屋を出る。
鍵をかけると駅に向かう。
街中に仕事に向かう人々が無表情で足早に歩いている。
そして寿司詰めになって電車に乗り込む。
冬は皆んな着膨れをしてるから益々窮屈だ。
幾つもの頭の隙間から空が見える。
「ひと雨きそうだな」
そんな空の色、垂れ込む雲。
駅についたらポツポツと降って来た。
傘を持って来ない俺はダッシュで会社に向かう。
ビルに着いたと思ったら、スコールのような雨になった。
「ツイてるな俺」
仕事をしていると女子社員が声をあげた。
「虹よ!見て、キレイ!」
俺は思わず椅子から立ち上がり、窓に近づいた。
確かに虹がかかっていた。
雨上がりの虹が。
(啓介、わたし今日すごいのを見ちゃった)
「すごいもの?なに」
(虹!それも二重の、ダブルレインボー!)
「ふ〜ん」
(ダブルレインボーよ?きっと何かいいことがあるんだわ)
俺は黙ってテレビを付けた。
風花はそんな俺を見て、つまらなそうな顔になった。
(ねぇ啓介、啓介の夢は何)
「夢?そんなもの無いよ。ただただ定年まで働くのが人生だ、そこには夢なんて入る隙間は無い」
(なら、啓介の生き甲斐って何?)
「答えは“夢”と同じ」
風花はそれ以上、何も云わなかった。
いま思えば、生き甲斐だって、夢だって風花だよ、そう答えれば良かったのに。
「つくづく馬鹿だな俺は」
大学3年から同棲を始めた。
最初は古くて狭い部屋に住んだ。
二人共、就職してからは、このマンションに越して来た。
まだ給料も大したことは無いから、かなり築年数の経つここに決めたのだった。
最初は楽しく暮らしていた。
最初は……。
パンパンだった風船がしぼむ様。正に俺がそうだった。
仕事への最初の頃の意気込みは、日に日に失せていった。
こんなもんか、働くって。
まるで機械と同じゃないか。
こんなことの為に、勉強ばかりしてきたのか俺は。
一度、白けてしまった気持ちは元には戻らない。
俺とは真逆で風花は生き生きとしていた。
仕事に家事に。
そんな彼女を見ているのは辛かった。
小さい男だ、俺は。
何かにつけちゃ、風花につっかかった。
ダブルレインボーの話しの時もそうだった。
(何かいいことがあるかもしれない)
「へえ、二重の虹を見て、いいことがあった人を知ってるの?」
(……)
「どんないいことがあったのか、風花は知ってるの?それなら教えてよ」
(……ない)
「え?何て云ったのか聴こえないよ」
(知らないって云ったの!)
「だったら、ただのデマと一緒じゃん」
(ねぇ啓介、もしかしたらって思っちゃいけないの?ただの言い伝えだとしても、何か良いことがあるかもしれないって、そう思ったらいけない?)
「いけなくはないさ。ただ何もなかったらキミが気の毒だなって思っただけの話しだよ」
風花は背中を向けて、自分の部屋に行ってしまった。
俺は馬鹿みたいにムキになって、風花の気持ちを否定したんだ。
仕事への期待を裏切られた気持ちの自分は、それを風花に八つ当たりした最低な奴だよ。
そんな毎日を送っていたら、とうとう風花は自分が住むところを見つけて引っ越してしまった。
当然だと思う。
いま自分は、会社の窓から雨上がりの虹を見ている。
きれいだと思った。
何かいいことあるかもしれないと、そんなことも思っていた。
荒んだ気持ちだった俺に、虹は……奇跡ってあるのかも。そう思わせていた。
風花の気持ちが、やっと分かった気がする。
俺は隅に行き、風花に電話をした。
明日の土曜日、会いに行っても構わないか。
そう訊いた。
風花は「うん」と、返事をしてくれた。
会ったら風花に伝えよう。
俺の生き甲斐は風花だと。
俺の夢はキミと一緒に生きていくことだと。
そして、俺にとっての“虹”は、風花、キミだと気付いたことを。
(完)
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