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手を離さないでね
海が近い街に住みたい。
そう云ったのは私の方だ。
家から海は見えないが、ほんのりと潮の香りがする。
家は小高いところにある。
坂が急なので、私は下の街、もっと海の近くがいい。
そう云った。が、夫の洋に大反対された。
「水穂は『塩害』の怖さを分かってないから、そんな呑気なことを云えるんだよ」
「知ってるわよ。潮で物が錆びやすいんでしょう?だから、そこまで近くなくてもいいよ」
「なら、どれくらい距離?」
「距離?え〜と、海から1kmくらい、かな」
洋はため息をついた。
「やっぱり分かってないよ水穂は」
「1㎞でもダメなの?」
「俺はちゃんと調べたの。高い買い物なんだから。そしたら2㎞離れた家でも洗濯物は早めに取り込むそうだ。潮でベタベタになるんだって」
「それって風向きによるんじゃない?」
「じゃあ水穂は一日中、風向きを観測してるつもり?考えたら分かるだろ?」
「う〜ん」
「う〜んじゃなくて、無理だろう?その点、高台の方がいいと訊いたから、あの場所にしたの。坂なら電動自転車を買えばいいよ」
「……」
「なに急に黙って。もしかして怒ってるの?」
「ううん、その逆よ。海の近くは反対してたのに私の願いを訊いてくれて、この街に住むことに、洋は決めてくれたんだものね」
「う、うんまぁね。お互いもう若くない齢で結婚したからさ、家なんて何回も買える物じゃないし、だから水穂が海の近くに住みたいなら、叶えてあげたかったんだ」
私は洋に抱きついた。
「わがまま云ってごめんなさい。ありがとう洋」
「分かってくれて、良かったよ」
洋は力を入れてぎゅっと抱きしめてくれた。
「それでさ、腹が減ったんだけど」
時計を見たら、もう8時を廻っていた。
「ごめん、お腹空くわよね。この時間じゃ」
「それで今から作るのも大変だし、ラーメン食べに行かないか」
「この辺にラーメン屋さん有るの?」
「それはしっかりチェックしておいた。昔からやってそうな店だったよ」
「流石だね、食べ物に関することは、抜かりはないね」
「まあな、じゃあ直ぐ出掛けよう」
私たちはコートを羽織ると外に出た。
冷たい風が吹いている。
ほのかに潮の匂いがした。
海は見えないが、灯台の灯りが少しだけわかる。
それを見ていたら、なんだか切なくなった。
「おーい水穂、早く来いよ」
「はーい」
私は急いで洋のところまで走った。
10分歩かない内にラーメン屋さんに着いた。
確かに昔から地元の人たちに愛されてきた感じのお店だった。
「いらっしゃい」
笑顔で初老の男性が迎えてくれた。
たぶん店主だろう。
「いらっしゃいませ」
おっとりとした女性が水の入ったコップをテーブルに置いた。
「うちはメニューがないの。壁に貼ってあるから、それから決めてくださいな」
そう云って、店主の奥さんらしい女性は、レジのところに行った。
「たくさんあるね」
「俺はもう決めたよ」
「えっ何にするの?」
「チャーシュー麺の大盛りにライスに餃子」
「食べ過ぎじゃない?私たち、もう40半ばだよ。健康には気を配らないと」
「いいじゃないの。たまの外食の時くらいは。すいませ〜ん、注文お願いします」
「なに、私はまだ、え〜と」
先程の、おっとりした女性がやって来た。
洋はサッサと自分の分を注文した。
「水穂は?」
「では、ワンタン麺をお願いします」
女性はにっこりして、店主のところへ行った。
「ワンタン麺かぁ。懐かしい感じがするよ。
お袋がたまにワンタンスープを作ってくれてたからね」
「あ、家も同じ。最近ではラーメン屋さんにも無いところがあるね。たまに食べたくなるのにな」
洋は「ちょっとごめん」
そう云って、スマホを弄り始めた。
私は何故か遠い記憶を思い出していた。
母の実家は海が割合近い街にあった。
その家には、母の兄、つまり私の叔父と、祖父祖母、叔父の奥さん、従姉妹が男女一人ずつが暮らしていた。
祖父は高血圧なのに大酒飲みで、半身不随になり、いつも寝ていた記憶しかない。
祖母は優しい人で、常に笑顔の人だった。
叔父は口下手だが人のいい性格だったと思う。
お嫁さんのことは、正直あまり記憶に無い。
従姉妹の二人はまだ幼い私とよく遊んでくれた覚えがある。
それくらい、昔の記憶だった。
ある日の早朝、寝ている私を呼ぶ声がした。
「水穂ちゃん、水穂ちゃん」
寝ぼけまなこで見ると、それは祖母だった。
「今からお婆ちゃんと二人で海を見に行かないかい」
「でもみんな寝てるよ」
「大丈夫。こっそり行って直ぐに帰るから」
「うん、行く」
祖母に連れられて、私は朝早くに表に出て、海へと歩いた。
季節はいつだったろう。
寒いとか暑いとかの記憶が残っていない。
春か秋だったのかもしれない。
少し歩くと、波の音が聴こえてくる。
砂浜だ。
海にも浜にも誰もいない。
祖母と私の二人だけだった。
この頃はまだ、早朝サーファーも居ない時代だ。
祖母と手を繋いで、砂浜を歩いた。
ただ黙って二人で歩いた。
今でも思う。何故、祖母は私と早朝の海に行ったのだろう。
ただの散歩だったのだろうか。
どれくらいの時間、砂浜に居たのか、帰宅しても、まだ誰も起きていなかった。
祖母は、いたずらっ子のような笑顔で、そっと、布団に入った。
私もそうした。
それから何年かして祖母は入院した。
病名は悪性腫瘍が胃に出来たと訊いた。
病室から出ると、母は怒ったような顔で、目に涙を浮かべている。
何を怒っているのだろう。
私は不思議だった。
かなり経ってから、その時のことを母に訊いてみた。
お嫁さんと祖母は、上手くいっていなかったらしい。
ベットに寝た切りになっている祖母に、お嫁さんは、さんざん不満を祖母にぶつけたのだった。
「あの時、アナタに酷いことを、云われたわ」
「わたしはアナタに傷つけられた」等……
身体も弱って寝ているだけの祖母は、ひたすら、手を合わせてお嫁さんに謝り続けたそうだ。
母はそのことを祖母から訊いたのだった。
「何も余命僅かな人に、無抵抗な母に、そんなことを云わなくてもいいじゃない。自分だって、母をいじめてたくせに」
私に話しをしながら、母は涙を流していた。
訊かないほうが、良かったのかもしれない。
私は後悔した。
それとも、お母さんは、このことを誰かに訊いて欲しかったのだろうか、今までずっと。
嫁姑の問題は、永遠に続くの?
叔母さんにも、云いたいことがあるだろう。
こればかりは私には口を挟めないと思った。
その時、私は早朝の祖母との海への散歩を何故だか思い出した。
祖母にも、誰にも云えない想いというものが、心の奥に閉まっている何が、あったのかもしれない。
まだ、誰もいない海で、その想いを心の中で波に託していたのだろう。
「はい、チャーシュー麺の大盛りとライスに餃子。そしてお姉さんにはワンタン麺。
ごゆっくり」
運んで来たのは店主さんだった。
重いものね。優しいな。
「水穂、割り箸取って」
「あ、ごめん。はい」
「サンキュー。では頂きまーす」
勢いよく麺をすすり、チャーシューを食べて洋は、
「旨い!」
「ちょっと声が大きいよ」
見ると厨房から出ていた店主さんと、奥さんがニコニコしている。
「ホント、旨いから水穂も早く食べなよ」
「うん、頂きます」
スープを一口飲んだ。
「な?旨いだろう?」
「ちょっと待って。まだ食べてないよ」
大好きなワンタンを食べる。
これ……母が作るワンタンに似ている味だ!
麺をすする。
「どう?」
「旨い!」
「だろう?店構えからして、旨いのが分かるよな」
20分後。私たちは満腹になっていた。
私はいいけど洋が苦しそうだ。
「やっぱ、食い過ぎたわ、ズボンがキツイ」
私は思わず笑ってしまった。
「笑うけど、本気で苦しいんだからな」
「だから注文し過ぎなのよ。云ったでしょう?もう中年になったのよ、私も洋も」
帰り道、お腹が苦しい洋と二人で家に向かってゆっくり歩いた。
「すっかり寒くなったな」
「そうね。来月は師走だものね」
「そうかぁ師走かぁ。早いな一年が」
「そうだね。あっという間にお爺ちゃん、お婆ちゃんになりそう」
「それは勘弁して欲しいな。40過ぎて、ようやく結婚出来たんだ。もし少しゆっくり齢を取りたいよ」
「同じく」
夜の住宅街は静かだ。
一人で歩くのは、怖かったかもしれない。
「なぁ、水穂」
「なに?」
「墓参りに行こうか」
「え……」
「水穂の家の墓は、ここからは結構な距離があるから、なかなか行けなかったけど、行きたいだろう?水穂も」
「でも、お金がかかるよ。日帰りだと無理だから宿泊しないと。交通費だってかかるし」
「それくらい俺が出すさ。義母さん方のほうも行こうな」
「でも家を買ったからローンも……」
「行くと云ったら行く。任せなさい、貴女の旦那さんに」
「あれ?水穂?」
私は道にしゃがみこんでいた。
「大丈夫?水穂ってば」
「大丈夫だよ。嬉しくて、つい」
洋は泣いてる私の肩を抱いた。
「ありがとう、洋。嬉しい」
「いやぁ。ウッ」
「洋、どうしたの、ねえ洋」
「さっき食い過ぎたから、ト、トイレ!
先に行くわ、ごめん!」
そう云って洋は走って行く。
私は一人で泣き笑い顔だ。
あ、海の匂いが風に乗ってきた。
懐かしい潮の、あの匂いが。
今度、朝早くに海に行ってみよう、洋も誘って、二人で。
もちろん手を繋いで。
これからもずっと、手を繋いで生きて行くのだから。
了
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