続・懐かない猫
美帆は部屋に入ると、ソファーに座り、俺の入れた紅茶を、ゆっくりと飲んでいる。
俺からは何も話さず、黙っていた。
すると美帆は、紅茶を飲み切り、カップをテーブルに置いた。
「あ〜美味しかった!ミルクティ大好き!誠は作るの上手だね」
くったくのない笑顔を見せて、そう云った。
「そうかぁ?普通に作っただけだよ。でも旨いって云われると嬉しいよ、ありがとう」
美帆は「また作ってね」と云った。
そして立ち上がると、窓のところに行き、
「誠、バルコニーに出てもいい?」と訊いた。
「いいけど寒くないかな」
「ワタシは寒さには強いから平気。路地で寝てたくらいだから」
そう云って笑うと、窓を開けてバルコニーへ出た。
俺も久しぶりに出てみた。
普段は寝に帰るだけなので、バルコニーにはあまり出ない。
家々の灯りと、順序よく並んでいる街灯。
真夜中でも、起きてる人が結構いるんだなぁと思う。
美帆は、広めのバルコニーの先端まで行き、遠くを見ていた。
🔸🔹🔸
八階なので風が少し強めに吹いて、彼女の髪が、波のようにたなびいている。
「あ!キリンだ!」
美帆は嬉しそうに、そう云った。
俺が何のことだか分からずにいると、美帆は遠くを指差して、
「アレがキリンだよ」と云った。
美帆が指差す方には、工場がある。
そこには、確かにキリンの様に見える何機もの重機があった。
「本当だ。キリンだ」
俺の言葉に美帆は嬉しそうだった。
そして空を見上げ、
「八階だと、星も近いんだ」
独り言のように美帆は云った。
「そろそろ部屋に入ろう。冷えてきた」
俺がそう云うと、美帆は名残り惜しそうな顔を見せたが、素直に部屋に入った。
「家は何時頃に出てきたの?」
「十時半くらい」
「腹が減ってるんじゃない?余り物で悪いけど、チャーハンがあるんだ。それを食べて、寝よう」
「チャーハン、食べたい!」
「分かった、いま温めて持ってくる。パラパラのチャーハンを期待しないで欲しい。俺の手作りだ。べちゃべちゃだからな」
美帆は、“べちゃべちゃ”と云う表現がツボだったらしい。
一人でケラケラ笑い続けた。
レンジでチンしたチャーハンを美帆の前に置いた。
「味は悪くないと思うんだが。どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
美帆は一口食べて、俺の顔を見た。
「どうした、不味かった?」
「違う違う、美味しいからびっくりしたの」
「それは良かった、俺もホッとした」
🔸🔹🔸
「手作りの食事なんて、いつ食べたか覚えてないよ、あっ」
美帆は慌てた様子でチャーハンを食べて始めた。
「ねぇ、この間、キミは『食事はお母さんと食べる』、そう云ってたよな」
美帆は返事をしない。
「お母さんとは、どういった食事をしてるんだ?手作りじゃないのか?」
チャーハンを食べ終えて、美帆は
「ごちそうさまでした。歯を磨きたいんだけど歯ブラシはある?」
「ちゃんと質問に答えて欲しい」
俺の真剣な顔を見て、美帆は下を向いて、ため息をついた。
「お弁当。コンビニとかで買った」
「まさか、毎日それなのか?」
美帆は頷いた。
俺は、驚いて言葉がなかった。
「お母さんは料理をしないの。お酒があればいい、食べる物はいならいって」
「自分の分だけ作るわけにはいかないの?」
俺がそう云うと、美帆は首を横に振った。
「たった一人分を作るなんて、ガス代がもったいないから作るなって」
「……」
🔸🔹🔸
重い沈黙が、部屋を取り巻いた。
「お昼もそうなんだな」
「うん、お昼と夕食で、一日千円貰ってる。
お昼は、食べたり食べなかったり」
「お昼を抜くこともあるのか?」
「ワタシは、お小遣いをもらってないから、そうしないと自由なお金が出来ない」
「ひょっとして……だから『パパ』から金をもらうことにしたのか?」
美帆は、耳まで赤くして、頷いた。
もはや、俺は何を云ったらいいのか、分からなくなっていた。
ただ、この部屋に来た時くらいは、手作りの食事をさせてあげたいと思った。
「……歯を磨いて寝るか。洗面台の鏡の下に、新品の歯ブラシが、幾つか置いてあるから、それを使っていいから」
美帆は頷き、洗面所へ向かおうとした。
だが、立ち止まり、
「パパは……」
「……今はやめたよ。誠に怒られたから……もう、してない」
それだけ云って、歯を磨きに行った。
俺はやはり、美帆の母親に話しをしたいと、強く思った。
🔸🔹🔸
美帆には、合鍵と暗証番号を教えて、俺の帰りが遅くても、部屋に入れるようにした。
彼女は週に三回から四回のペースで部屋に来るようになった。
母親が、その頻度で男を連れて来るのだろう。
俺はなるべく早く帰るようにした。
食事を作りたいからだ。
たいした料理は作れないが、俺も大学時代から一人暮らしをして来た。
簡単な物なら、作れる。
お陰で、会社の仲間たちからは、付き合いが悪くなったと非難される羽目になった。
だが、物事には優先順位がある。
今は飲みに行くより、美帆のことを一番にしたい。
美帆がこの部屋に来るようになって、数ヶ月が経つ。
彼女は俺に気を使って、掃除や洗濯をすると云ってきたが、俺は洗濯は、自分の物だけやるようにと云った。
さすがに俺の下着を洗わせるわけにはいかない。
第一、俺が恥ずかしい。
掃除も何がどこにあるのかが、分からなくなるから、しなくていいと云った。
🔸🔹🔸
ある日、俺は美帆に、お母さんと会いたいと云ってみた。
予想通り、美帆は複雑な表情を、見せた。
「家には行かない。どこか外でもいい。お茶でも飲みながら話せれば、それでいいんだ」
美帆は、考えているようだった。
だが、「分かった。お母さんに訊いてみる」そう云った。
俺は半ば、諦めていた。美帆から訊いてる限り、そう簡単には会ってはもらえないだろう、そう思ったからだ。
翌日、俺が帰宅すると、美帆が来ていた。
「お帰りなさい」
「ただいま。どうかしたのか?今日はやけに早いけど」
「今日はお母さんは、旅行に行ったから。
本当は、此処に来なくても良かったんだけど、来ちゃった」
「別にいいんだけどね。来たい時に来れるように、鍵も渡したんだから。驚いただけだよ」
「驚くことがまだあるよ。早く上がって」
俺は首を傾げながら、部屋に入った。
すると、何かいい匂いがする。
「なんの匂いだろう。食べ物だよな」
美帆がキッチンから俺を見ている。
行ってみると、美帆が鍋の蓋を開けた。
中身はシチューだった。
「これ、美帆が作ったの?」
照れ臭そうに、美帆は頷いた。
「すごいな、よく出来てる。美味そうだ」
🔸🔹🔸
「それとね、お母さんのことなんだけど、会ってもいいって」
「本当に?意外だな。へえ」
「今度の土曜日でいいかな、お母さんが、その日なら空いてるから、会えるんだけど」
「大丈夫。何時にしようか。各自昼メシを食べてからがいいだろうな。
二時に渋谷は、どうかな」
「うん、それでいいと思う。場所はハチ公の近くの交番でいい?」
「交番ね、ハチ公前よりは、混んでなさそうだし、そこにしよう。お母さんに伝えといてくれる?さて着替えてくる。美味そうなシチューを早く食べたいからな」
美帆の作った、クリームシチューは、かなりの旨さだった。
おかわりもしたくらいだ。
「ごちそうさま。美味しかったよ。料理が出来るんだね、美帆さんは」
「お父さんがいた時は、お母さんも働いてたし、ワタシが夕食を作ってたから」
「なるほど、だからか。美帆さんが夕食を作ってくれたから、俺は休めるよ。ありがとう」
「また作るね」
「無理しない程度にね」
その晩は、ゆっくりと、録画した番組を観ることが出来た。
疲れが出たのか、俺はいつの間にか、ソファーで寝てしまっていた。
真夜中、トイレで目が覚めた。
「スウェットに着替えて、ベッドで寝よう」
🔸🔹🔸
トイレから戻ると、美帆のことが気になり、もうひとつの寝室を、そっと覗いてみた。
しかし、そこには美帆の姿は無かった。
「居ない、何でだ」
俺は急に不安になり、家の中の電気を着けて廻った。
しかし、どこにも美帆は居ない。
「こんな時間に、どこへ行ったんだ?」
俺は美帆から訊いていた携帯に、かけてみる事にした。
その時、外に人の動く気配を感じた。
俺は窓からバルコニーを見た。
そこには、美帆が居て、この前のように、一番奥から景色を眺めている。
俺はホッとして、バルコニーに出た。
美帆は俺には気づかず、夜風に吹かれている。
「心配したぞ」俺の声に、美帆の後ろ姿が、ビクッとしたのが分かった。
俺は美帆の隣りに並んで立った。
「どうした、眠れないのか?」
「ううん、眠れてた。でも、いつもの時間に目が覚めちゃった」
そう云って美帆は微笑んだ。
「あぁ、そうか。いつもここへ来る時間だな。やっぱり習慣かな」
顔を見合わせて、俺たちは笑った。
「美帆、少し答えにくい事を訊いてもいいかな」
「うん、いいよ」
「美帆は、お父さんが、どうして家を出て行ったのか理由は知ってるの?」
「……知ってる」
「云いたくなければ、云わなくていいよ」
「誠には、何でも話すって決めたから。
お父さんが出て行った原因は、浮気してたから」
「浮気?、お母さんが?それともお父さんのほう?」
「両方とも」
「えっ……」
「そう、二人共浮気していたみたい。不倫っていうのよね」
そう云って美帆は、また遠くの工場夜景を見た。
「ずっと仲が悪かったの。毎日ケンカしてたし、だからワタシは驚かなかった」
「でも、お父さんが出て行ってから、直ぐに、お母さんはフラれちゃったみたい」
「もしかしたら、そこからお母さんは、お酒にいくようになったのか?」
美帆は、頷いた。景色を見つめたままで。
「そうか……」
俺の口からは、これくらいしか言葉が出なかった。情けない話しだ。
🔸🔹🔸
「寒くなっちゃたから、部屋に入るね。シチューの残りがあるから、食べようかな」
「そうするといい。あ、俺の分もある?」
美帆は振り返ると、指でOKをした。
土曜日になった。
美帆の母親に会う日だ。
俺は待ち合わせ時間の10分前に、交番の近くに来ている。
渋谷は、いつ来ても、人混みが凄いが、土曜日の今日は、更に人が溢れている。
俺は事前にカフェを予約しておいた。
表通りから外れた場所にある。
落ち着いた、居心地の良い店なので、たまに一人で行くこともある。
「二時だ」
俺は目を凝らして、駅から雪崩れのように出て来る人混みを見つめた。
「来たようだ」
美帆が一緒なので、直ぐに分かった。
「お待たせしました」
美帆がそう挨拶をした。
「母の、原田路子です。こちらがワタシがお世話になっている野田さん」
「お忙しい中、来て頂いて、ありがとうございます、野田と申します」
美帆の母親の、原田路子さんは、俺を見て、ニヤッと笑った。
「そう、あなたが。ヘェ〜」
好奇心でいっぱいの表情だ。
「早速ですが、店を予約してあります。そちらに行きましょう」
🔸🔹🔸
路子は、いかにも面倒くさそうに、歩き始めた。
美帆は、俺と母親の両方に、気を配っているのが分かった。
10分ほどで、店に着いた。
入って直ぐに、俺の名前を店のスタッフに伝えると、
「あちらのテーブルになります」
と、教えてくれた。
[予約席] そう書かれた札が置いてある。
俺たちは、その席に座った。
スタッフが、メニューを持ってきたので、俺は、母親の路子さんに渡した。
気怠そうにメニューに目をやり、母親は、
「ねえ、お酒は置いてないの?」
不満げに、そう云ったので、俺は、
「すいません、お酒は扱っていないんです。大事な話しをしたいので、しらふでお願いします」
母親は、わざとらしく大きなタメ息をつくと、仕方なしに、
「だったら、アイスコーヒーにするわ」
と、云った。
「美帆さんは、何にする」
「ワタシはミルクティにします」
俺はスタッフを呼び、アイスコーヒー、ミルクティ、そして自分はカプチーノを注文した。
「それで、話しって何?」路子が云った。
「美帆さんのことです」
「美帆が、どうしたっていうのよ」
いかにも、早く帰りたいといった態度だ。
「失礼ですが、貴女は美帆さんの母親ですよね」
「当たり前でしょ」
「それなら美帆さんのことを、もう少し考えてあげて欲しいんです」
「考えるって何をよ」
俺は、心の中で自分に「落ち着け」と云い続けた。
「美帆さんは、まだ15歳です。毎日の食事の面や……」
「それと、あとは何か?」
「……お母様の男性との交際を、もう少し控えてもらえませんか」
それを訊いた母親は、急に声を荒げた。
「そんなのアタシの勝手でしょう?他人のアンタに云われる筋合いは無い!」
その声に、店中の人たちが、一斉にこっちを見た。
可哀想に、美帆は小さくなっている。
「落ち着いて話しましょう。他にもお客さんはいるのですから」
「アンタが余計なことを云うからでしょ」
「……美帆さんのこと、虐待してますよね」
母親は、ギョッとした顔を一瞬、見せた。
しかし、直ぐにふてぶてしい顔に戻った。
「どこへでも告げ口するといいわ、アタシは平気だから」
「何故、平気なんですか?」
「この子はいい子なの。誰が来てもアタシのことは、話さないの。全部、自分でやりましたって答えるのよ。ねえ、美帆」
俺は、俺は、これ以上の我慢は出来なかった。
「美帆さんはね、アンタみたいな母親でも、好きなんだよ。だから庇うんだろうが。母親なのに、美帆さんの気持ちを少しは考えたことは、あるのか」
美帆は、震えていた。
🔸🔹🔸
「ふん、アンタさぁ、そんなに美帆のことが気に入ったんなら、あげるわ」
「あげる?自分の娘だろう。よくそんなことが云えるな、呆れたよ」
「だって〜、邪魔なんだもん。この子のせいで、男が逃げちゃうのよ。だからあげる」
「もういい……やめて……」
振り絞るように、美帆は云った。
この母親は親じゃない、鬼畜だ。
「分かりました。僕が責任を持って、美帆さんを、もっと元気で明るい、元の美帆さんにしてみせます。美帆さん、行こう」
テーブルに、金を置いて、俺と美帆さんが席を立った。
「ちょっと、アンタ、人の娘をタダで持ってくつもり?冗談じゃない」
「金ですか、人身売買になりますが」
「なに堅苦しいこと云ってんの?世の中カネでしょうが」
俺は内ポケットから、あるものを出して母親に見せた。
「何よそれ」
「知りたいですか?ではスイッチオン」
『誰が来ても、この子は私のことは云わないの』
『邪魔なのよ』
『人の娘をタダで持ってくつもり?』
母親は青ざめた顔をしている。
「貴女のような方と、お会いする時には、ボイスレコーダーは、欠かせない。では」
俺と美帆は外に出た。
「美帆さん、ごめんな」
「なんで、誠が謝るの?」
「俺、勝手なことをしたかな。美帆さんは、お母さんのことが好きなのに」
「……ワタシね、お母さんの気持ちが分かったから、それでいいことにするんだ」
美帆は続けた。
「親は、子どものことが好きなのが、当たり前だと思ってたの。子どもも、親のことが好きなのが、当然だって、そう思ってきたの。でも、違う親もいるんだって、今はそう思ってる」
「……そうかも知れないな」
「ワタシも、きっと、どこかで無理してたかも知れないな、親なんだから、子どものワタシは、お母さんのことを、好きでいなと、いけないんだって」
「今日、分かったの。親でも、自分の子どもを、好きじゃない人もいるんだな。そう思った」
「俺は、思うんだ、美帆さんのお母さんは、自分のことも、愛していない、愛しかたを知らない人なんだと、そう思った。だから、酒浸りになり、よく知らない男性を連れて来るんだなと。自分のことを大切だと思える人は、そんなことはしないからね」
「うん、そうかも」
「ところで、美帆さんの気持ちも訊かずに、俺のところへ来るはめになってしまったことも、謝らないと」
美帆は、笑っていた。
「誠は、短気なところがあるね」
「そうなんだ、すまん」
「誠さんは、本当にワタシがいってもいいの?」
「いいさ。ただこれからが大変だと思う。手続きや、美帆さんのお爺さんや、お婆さんが、反対する可能性もあるし、親類の人たちもね。なんせ俺は他人だし、美帆さんは未成年だ。かなりの時間が必要だろう」
「もしも、ワタシがおじいちゃんや、おばあちゃんと、暮らすことになったとしても、三年の辛抱だもの」
「三年の?……なんで?」
美帆は、俺の顔を見つめ、
「三年後にワタシは高校を卒業するから、そしたら誠の家に行く」
「もしかして、それって、まさかな」
「ワタシは誠さんの、お嫁さんになるからでしょ」
「えっ、えーー!ちょっと待って、心の準備というものが、あってだな」
「駅の傍にあるお店で、パンケーキが食べたいです、よろしくです」
「パンケーキ、はい。いや待て、その前にさっきの話しを」
美帆は、どんどん歩いて行く。
俺は、必死で追いかけて行く。
「やっぱり、30は、オヤジなのかも知れない」
(完)
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