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家庭での療育的な取り組み スタート

こんにちは(^^

今日は、長男 T が3才ころ、医師の診断を受けた年代で、思い出したことをまとめて綴りたいと思います。2003~4年です。

療育 とは障害のある子どもの発達を促し、自立して生活できるように援助することをいいます。

まず私が家庭で、落ち着いて T の様子を、客観的に観察したとき。

日常生活は、沢山のルーティンで成立しており「会話」がなくても、それなりに過ごせていた現実を、私自身、受け止める必要がありました。

母子手帳で3才のページには「クレヨンなどで○を書きますか」「自分の名前を言えますか」の質問に「いいえ」と答えています。

T は「鳥」のようでした。食べたい 飲みたい要求は、母の手をそちらの方向へ持っていく...というクレーン動作(現象)が頻繁にあります。以前よりも、視線は合いませんでした。

「声でコミュニケーション」という方法に、気付いていない感じです。ずっと欲しいものの方を向いて、母の「手」のみ を、クレーンのように必要な品物のほうへ促すことは、何回もするけれども、顔の方は向かず(顔に気付いていない?)必要が満たされるまで、ただ待つのです。

ABA(応用行動分析)の手法を知ったあと、私は T が何か「声」を発するまで、辛抱強く待ち続けました。T が声を発したタイミングで「反応」することを繰り返し、顔を近づけて、意図的に「声のコミュニケーションがある」ことを、改めて教え込んでいきました。

暴れたり、不快で癖になりそうな行動には、こちらが反応せず「消去」の対応を意識しました。

T は検査で、知能指数が低く出ていましたが、義両親や夫など「障害があるように見えない」と言っていました。なぜかというと、道順などの記憶、自分の興味あることへの集中力...が突出し良く出来ていたからです。

義両親は愛情を込めて「頭が良い」と、繰り返し褒めてくれていました。

産婦人科で一緒だった友達親子とは、その後も、イベントごとに誘ってくれて、時々、合流しています。大半が異性だったことも幸いし、発達の違いに、みんな寛容でした。

最初のころは、私が泣いて打ち明けて...。そのうちに、質問されることも出てきました。

個性の範囲なのか、障害なのか...。私は隠し切れないので(汗)オープンに今の状況や、支援を受けていることを話していました。すると個人的に、子育ての悩みや発達の心配を、打ち明けてくる友達なども現れました。

多動は、以前と同じ程度が続いていました。遠方の実父が、単身で手伝いに来てくれたこともあります。義両親は、同居の曽祖母の、痴呆と徘徊が始まっており、手いっぱいの頃です。

私も、対応策を考えます。市の社会福祉協議会が主催する「子育てサポート」制度を利用。毎週1回 午前中、同じ方に来てもらい、お出かけ支援の契約をしています。T は動きが速いので、1人が荷物持ち1人が道路に飛び出さないよう目を離さないように、大人2人体制です。その曜日は、本当にホッとしました。

この頃、親のレスパイト(小休止)で、保育園の「一時預かり保育」を数回、利用しています。しかし偏食が進み、味噌汁を何杯もお代わりするのに、一般的な食事をほとんど残すため、保育園側から「午前中だけでお願いします」と言われています💦。それでも、預けられて贅沢でした...。

魔のエスカレーター通い(汗)は続いていましたが、週2回は「療育サロン」と「子育てサポート」で埋まります。それ以外の曜日も、私が車で遠方の、広い公園へ連れて行くことを覚えました。

更に、帰宅のため、TEACCHプログラムから「視覚支援」を活用しています。親も、T は視覚優位だな...と、だんだんと理解していきました。そこで、最初に学習させたのは、これ。↓

家に上手に帰れたなら、家の写真の上に「にっこりマーク」の付箋シールをT に貼らせます。5回出来たら「トミカ」だよ✨と伝え続け、帰宅を「お楽しみ」にすることで、理解を促しました。↓

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トミカ大好きで、視覚からの理解は良かったので、徐々にこちらの意図が通じ、スムーズに帰るよう変化していきました(ホッ)。慣れてきたら、徐々にご褒美までの回数を増やしました。

次のトラップは、祖父母家のお菓子(毎日繰り返す)💦...そんな感じの3才代でした。

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そのお気持ちが、もう嬉しいです♡ お互い幸せに、栄えていきましょうね(^^