樹璃と枝織は、ユリ熊嵐の夢をみるか?②
本編描写のリンクから「新作漫画の樹璃と枝織は実質ユリ熊嵐では?」という仮説が浮上した、というのが前回のあらすじです。
単なる"ユリ"繋がりとしても、何故あれほど似たような描写を入れられていたのか。その疑問に触れる前に、一度それぞれの物語 ── 少女革命ウテナでの二人に関する物語と、後に出たユリ熊嵐の物語を整理します。
②-1:二十一年前の世界で描かれた"ユリ"・有栖川樹璃と高槻枝織の関係
九十六年に漫画版が一足早く連載開始し、九十七年にTV版が放送、翌々年九十九年に劇場版が公開された少女革命ウテナ。「少女たちの関係」「人間のセクシュアリティ」「男女の社会的関係」「大人と子ども」これらを内包している作品のテーマは、同じ根幹を共有しつつも違う描き手と媒体によって多角的に描かれています。
その中で有栖川樹璃は、主人公天上ウテナに立ちはだかる生徒会メンバー唯一の女性ですが、先行したさいとうちほ先生の漫画版では戦う力を持ちながらも年相応に恋愛感情に突き動かされる「ウテナとは別のもう一人のヘテロ少女」として描かれた一方、幾原監督が中心であるTV版・劇場版では脚本段階での性指向変更によって、徹底的に「天上ウテナの鏡・対になる女性」として描かれる事となりました。
その変更によって片思い相手として設定されたのが高槻枝織であり、黒薔薇編にて「薔薇の天敵・樹璃の影」の側面を持つ少女として、樹璃が抱く恋慕に対し昔からの友情・自分を庇護する彼女への執着・同性への劣等感と憎悪が複雑に絡み合った内面が明かされるキャラです。
通称"樹璃回"では、主にこの二人に男性が追加された三角関係を中心にドラマが展開されます。
TV版から独自に設定されたこの樹璃と枝織の関係は、作中で唯一友情以上の女性同性愛を取り上げたものですが、かつてセーラームーンでアニメ界にウラネプという"百合"の一石を投じた幾原監督と榎戸洋司がその次に手がけた彼女たちの物語は、まだ女性同士の関係性の全肯定たる二次元ジャンルとしての"百合"が表面化する以前の黎明期を思わせる、生々しい厳しさを孕むものとなっています。
その一因となるのが、ウテナという作品に通底している「王子様とお姫様」古き良き男女関係・ジェンダー・社会的理想像のメタファーです。
そもそも何故二人は互いを意識しあっているにも関わらず、不幸なすれ違いを起こしてしまうのか。その理由は、本編七話での奇跡的敗北で暗に示され、二十九話で土谷瑠果によって明示され、最終話で魔女アンシーが樹璃の鏡たるウテナに囁く言葉に集約されています。
「でも、あなたは私の王子様にはなれない。女の子だから」
そう、有栖川樹璃は優れた女性であるがゆえにお姫様としか見られない。
男の子は王子様になり、女の子はお姫様になり、王子様とお姫様はいずれ結ばれるものである。ウテナの登場人物全員が縛られている前提です。
だから自分が枝織と結ばれるには、王子様にならなければいけない。お姫様ではなく、王子様を目指さなければならない。それは樹璃本人が自認している通り、当時の世間 ── 学園に通底する"常識"に反する奇跡であり夢物語ですが、黒薔薇編での枝織の告白から、長い間樹璃は枝織の"王子様"として彼女を守り、献身し手を差し伸べてきたであろう事は明白です。
しかし枝織にとって樹璃は自分の隣にいた同じ女の子でしかなく、あまつさえ自分よりも遥かに強く美しいお姫様でした。お姫様は王子様と結ばれるもの。なぜ優れたお姫様が、私を目にかけてくれるのだろう?その疑問が、内側で相反する「樹璃に対する信頼と憎悪」として長く枝織を苦しめる事になります。
まさか自分の王子様として彼女が振る舞っていたなど、あのロケットの中を見るまでは露とも思っていなかったのです。
このように、TV版ウテナでの樹璃と枝織とは
"正反対の性質を持つ二人でありながら、同じ王子様とお姫様の理想像に縛られた価値観で互いを見るがゆえに対等にならない"女性同士の関係なのですが、その結果「強者であると同時に傅く者」と「弱者であると同時に隷属させる者」という倒錯的な関係とも相成り、後年の劇場版ウテナではその側面がことさら強調されたキャラ造形で描かれています。
"形骸化した王子様像に支配された世界からの脱却"に焦点を絞った劇場版で簡略化された有栖川樹璃の役割は「王子様の代行者」という、よりシンプルで残酷な役回り。
これはTV版時点でも、二十八話で瑠果の復学により「フェンシング部部長代行」であった事が判明する展開で暗示されていましたが、劇場版では鳳学園の女子生徒に慕われる"王子様"として描写された後、すぐに枝織と王子の幻影・桐生冬芽の会話シーンで「かつて王子様に命を救われた幼馴染の女の子」である事と「王子様を失わせた代償に、一生王子様の身代わりをさせてやる」という枝織の恨み節が提示されるため、早くも"王子様システム"の被害者・王子様の代替として隷属させられる者として視聴者に説明されます。
公式に「樹璃の影」と言われる高槻枝織は、必然樹璃の立ち位置が変われば彼女もまた立ち位置を変えるもので、劇場版では作中で既に失われた王子である冬芽にペディキュアを塗らせる・幼少期の冬芽が養父から性的虐待を受ける回想シーンの前後で蛹から蝶へ羽化し、大人の養父・虐げられる王子冬芽の周囲に大量に飛び回る蝶のひとつとして描写されるなど、TV版が「薔薇物語」という伝承でアンシーに匂わせていた王子様システムが生む姫の暗黒面「王子様を囚える魔女」と同時に、その王子様すらも自身の勝利のための道具として冬芽や樹璃を操ろうとする、女性の負の感情と支配欲の象徴・隷属させる者の側面が全面に出たキャラへ変貌しているのです。
②-2:有栖川樹璃は"戦士"である
ここまでTV版・劇場版の二人の関係性と要素について述べてきましたが、新作漫画での樹璃と枝織は、互いの家柄が逆転している・枝織のキャラクターが魔女寄りではなく初期設定の清純な姫に近くなっているなど、これまでの媒体とはまた違う独自のアプローチが加わっています。
ここでおさらいしておきたいのは、後の幾原監督作品のキャラにも引き継がれている、有栖川樹璃というキャラが持つ「属性」です。
幾原監督のアニメを観ていく中で、好きなキャラの系統が似るという現象は度々耳にします。それは往々にして、ウテナ時代(はたまたセーラームーンR)の時点で描かれていたキャラが持つ属性の一部を、別作品のキャラが引き継いでいる場合が多いと私は考えています。(個人的に"○○概念"と呼んでいます)
樹璃が「王子様になれないお姫様」である事は①の項で前述しましたが、それ以外に彼女が担うキャラ属性として「社会的強者の女性」「理想を否定する現実の女性」「過去からの恋(愛)を持ち続ける」「忌み嫌う社会の束縛に同化し隷属する」があり、これらの彼女の"概念"はピンドラで一見しても分かる夏芽真砂子と時籠ゆりに分裂し、ユリ熊嵐ではユリーカが系譜を担当していると考えられていましたが、新作漫画の登場により、ここに百合城銀子が加わるのが今回の私の仮説です。
しかしながら、最初に言った「王子様になれないお姫様」という属性は、別の言い方が出来ます。
樹璃は女性であり、本来お姫様である。しかし本人は王子様を志向し、剣を取って王子様に守られる事を拒否する。自力で戦う意志を持つ彼女はただのお姫様ではないが、その気高さゆえに誰かを呪う魔女でもない。だが、女性の彼女は王子様として捉えられない。ゆえに王子様ではない。
有栖川樹璃の持つ属性の根本、それは姫にあらず王子にあらず、守られる存在ではないが相手を守らせてもらえない、ただ抗いきれぬまま戦い続ける「戦士」の属性です。
意外にもこれはアニメ版の情報量が多い描写よりも、土谷瑠果が逆輸入された漫画版ウテナの番外編「深き瑠璃色の影」にて、さいとうちほ先生が言わせたこちらの台詞が非常に分かりやすく伝えてくれています。
樹璃「みそこなった」
「君を尊敬していたんだ ずっと…」
「戦うしか能のないばかな私を
君があざ笑っているとも知らずになっ…」
アニメ版ではより秘密主義に描かれていた分、ここまではっきり自分自身に対する言及 ──『戦うしか能のないばかな私を』── をする場面は、世界線が違うと言えど衝撃的です。
漫画版は低年齢層の少女がターゲットのちゃおで連載されていた事もあり、なるべく読み手の少女たちが理解できるように設定が構成されているため挑戦的なTV版の考察に漫画版を伴わない方が多いかもしれませんが、幾原監督と最低限の設定の共有がなされている事・番外編の形でアニメ版が逆輸入され再構成されている事を考えると、このようにさいとう先生なりの表現で明確に言語化してくれる場合もあるため、完全に無益ではないと考えております。
②-3:樹璃が見ていた"本当の王子"土谷瑠果の姿
さて、ここまできていよいよ新作漫画にも登場した「有栖川樹璃の王子様」役、土谷瑠果について考察する事が出来ます。視聴者にとってどういう存在かではなく、有栖川樹璃にとってどういう存在であるかです。
最初に樹璃を「ウテナの鏡」と言った通り、ウテナ・アンシー・ディオス/暁夫の関係性は、そのまま樹璃・枝織・瑠果へと置き換えられますが、ウテナが革命を自力で起こせる反面、樹璃が自力で革命を起こせないキャラなのと同じように、瑠果もまた同ポジションの暁夫と相反しています。
それは世界の果てと化して王子様ごっこの棺から出られなくなった暁夫と、最後の命を賭してヒール役を買ってでも"奇跡"の呪縛から解き放とうとした瑠果という「王子様役」としての鏡なのですが、何を行ったかだけではなく「どのように見られていたか」という点においても鏡であります。
ウテナにとっての王子様は、かつて自分に永遠のものを見せた気高さの素養である理想の救世主・ディオスであり、同時に彼女に初めて恋を教え女へと成長させた現実の大人の男・鳳暁夫でした。
ディオスの記憶は、棺に閉じこもった幼少期のウテナに救世主としての王子様を教え、同時に彼にも救えない永遠がある事を教えて"気高さ"として彼女の精神に刻まれますが、鳳暁夫は作中でルシファーの説明があった通り、理想の反転である現実・王子様の反転である魔王としてウテナを自分の魅力で籠絡し、無垢な少女から現実社会の女性へ成長させて自分に依存させる「棺に閉じ込めようとする」存在へと変貌しています。
では、いくら鏡といえど樹璃に対する王子様が大人ではなく、同年代の男子である瑠果が設定されたのか?
それはひとえに、枝織への恋心から王子様を目指しているお姫様にとって何よりも、生まれついて王子様の資格を持った同じ年頃の男子という存在が、最も彼女にとって眩しい"王子様"だからです。
樹璃にとって理想となるのは「自分を導いてくれる王子/大人」ではありません。最初から苦悩なく、王子と姫の世界で王子様として認められる「男性性」のポジションです。同じ年頃の男子とは、優れていればいるほど性指向的にもジェンダー的にも、そこにいるだけで女性である彼女をマウントする存在に他ならないのです。
TV版と新作漫画はもちろん、両思い展開へと進む漫画版ですら、彼は樹璃の恋愛事情をかき回す役割を担っています。
それは彼女を戦いへ赴かせるための行為ですが、理想として追いかけ剣を取るウテナの鏡である樹璃は、敵わない"理想(ディオス)=奇跡"に肉薄するために剣を取ります。
瑠果はメタ的に見ればこそ、あらゆるステータスが明確に"樹璃と釣り合う・上回る男"として設定された正しく「王子様役」のキャラなのですが、当の本人にとってはそれどころではありません。
そもそも樹璃には"王子様"が"救世主"として見えないのです。枝織が樹璃を"誰かのお姫様"としか認識しないのと同じく、樹璃もまた瑠果を"誰かの王子様"としか認識しないのです。
彼女が王子様とお姫様の物語に囚われているからこそ、TV版でも新作漫画でも等しく、瑠果という王子は「樹璃をお姫様に留める者」「最初から敵わないねじ伏せる者」として樹璃の前に立ちはだかり、死ぬ事で「呪縛を解く救世主=棺から解放する者」の側面がようやく顕になる、暁夫の鏡となっています。
TV版二十九話「空より淡き瑠璃色の」での土谷瑠果による救済は、橋本カツヨの椅子演出も相まって、樹璃が結果的にどの程度救われたのか様々な憶測が語られています。
その中で、あの救いは樹璃を縛る全てを終わらせたものであるという考えがありますが、個人的には彼が樹璃にもたらした救いとは、ウテナにとっての幼少期に出会ったディオスと同じものだと考えています。
ウテナがアンシーを救う王子様を志向するきっかけとなったのは、ディオスとの出逢いでした。ウテナは最初から世界の果てに選ばれた存在ではありますが、ディオスと出逢う前の彼女は自分から棺に閉じこもり死を願う少女でしかなく、彼女が最終的にアンシーの棺を開けられたのは、自分が王子様に棺を開けてもらった存在だからです。
②-1の項から、私はずっと有栖川樹璃を「王子様になれないお姫様」と言ってきましたが、彼女もまた変えられない現実に打ちのめされ、しかし奇跡の可能性を求めて同化を選ぶ「棺に閉じこもる少女」であり、ゆえに救う者ではなく救われる者として描かれたと考えています。
三十七話でのバドミントンシーンを見るに、彼なりのエゴではあるものの、樹璃の"奇跡への未練"の棺に最初に手をかけた瑠果は、間違いなくその蓋を開ける事に成功しました。
棺を開けられたウテナが王子様となり、アンシーが学園から外へ歩き出したように、樹璃もまたあれから変化を遂げて棺を開ける側の可能性を拓かれたものだと、私は考えています。
以上が少女革命ウテナでの樹璃と枝織、そして瑠果についてになります。
次回はいよいよユリ熊嵐で描かれた十八年後の「ともだち」についてです。
読む気がある人は次回も私の妄言に付き合ってもらう。
ここまでお疲れ様でした。
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