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三好長逸雑観 1

近年、三好長慶への再評価が高まったことで、三好長慶を取り巻く人物らの再訂、再評価などがある。

また、歴史を題材にした小説やゲームなどでもその人物像の反映がなされている。
筆者が描いている稚拙な三好氏を題材にした漫画でも、解析が進んでいく評価を取り入れながら漫画にしている。

しかし、そんな再評価が進む中でも、とりわけ再評価、再認識をされず、いまだに「三好三人衆」という三つで一つみたいな書き方をされるのが、三好長逸という武将である。

三好長逸とは三好宗家の重臣で長慶の副将として活動していた武将である。

そんな中、松永久秀の再評や悪事の否定が進むたびに三好三人衆が悪のように書かれる。むしろ、長逸がどういうことしていていたか?ということが曖昧なまま、久秀だけ良く書かれるのも、非常に偲びないので、私の漫画で長逸はどういうプランニングをしたかを書こうかと思う。
これは個人的な雑観なため「ふーん」くらいで済ませてほしい。

三好長逸の人物像

三好長逸をざっくり説明すると、通称孫四郎、最初が長縁という。
家系については

①三好之長の子、長光の子
②長則の子
③三好政康(政康は宗渭の誤謬として伝わる名前)の兄弟

①から③までの中で、今のところ一番信憑性がありそうなのは、「三好長光画像模本」に長光が描かれて、長逸の賛文が記されていることに、言及された①の可能性が高い。③ではそうなると、宗渭の年齢によっては宗三(三好政長)側になるだろうと思われるが、宗三が宗渭のみでは不安とした場合に養子として受け入れた可能性もあるが、そうなると、やはり宗三は晴元側の重臣だったため、元長側に送り込まれたような形になってしまう。
だが、宗三の息子として、長光や長則側に養子へ行ったと仮定すれば、③の可能性が完全に否定には至らない。戸籍謄本や抄本があるわけではない上にデータベース化されていない上に、言及すれば遺伝子検査も行っているわけもないので、著者の漫画内では信憑性が高そうな①を利用した。

最近になり「兼右卿記」の翻刻が進み、天文年間の記載事項に長逸の年齢に関する情報が含まれていたことが判明した。そのため、長年、長逸は何歳くらいか?を判別する材料が乏しかったのと、年齢に関する記述がなかったために、信憑性のある情報として天文二十年(一五五一年)十一月二十日で「三日(三好日向守長逸)当年卅六才也」という記述があり、生まれた年数は一五一五年または一五一六年になる。あくまで計算上であり、暦の上での換算などは省いたものとなる。つまり壮年期に該当する。
長慶よりも七歳ほど年上となる。ライフステージ上で言えば、安定期とともに減退期に差し迫る頃だが、戦国時代の寿命が低かった、「人間五十年」という事を鑑みれば、あと十四年と考えてしまうかも知れないが、長逸の置かれている状況は他者よりも、栄養状態や傷病に関しての罹患率は低かった可能性がある。

天文二十二年(一五五三年)十一月ごろの細川氏綱、三好長慶家臣団の連署状として、長逸の代理が何通かあるが(戦国遺文三好氏編第一巻三七六号など)該当年に東山霊山城の戦い時が八月にあるが、長逸が参加していたかどうかは不明瞭である。この代理が長逸のどの部分で構成されていたかは不明であるが、ともかく二十二年には長逸の記述につながるヒントが乏しい。
考えうるとすれば、東山霊山城の戦いで怪我を負ったか、何か病気に罹患したかなど考えることはできるが、天文二十三年(一五五四年)には播磨への出兵をしているため、おそらく政務に代理人を立てて、戦いの準備をしていたなども考えられる。
三好長逸が次に文書で確認できるのが天文二十三年五月。
よほどひどい怪我ではなく「ゆっくり休養していってね。長逸おじさん」だった可能性もある。
長逸は主に三好宗家の中でも、松永久秀とならび三好長慶を形成してきた宿老格で概ね間違いはないとみている。
また、長慶が天文二十二年二月二十八日に従四位下昇叙されるが長逸は永禄三年(一五六〇年)九月十五日で、長慶の嫡男である義興が永禄四年(一五六一年)一月、また比べられることが多い松永久秀が同年の二月なので長逸はこの中では二番目に早いことになる。義興に家督継承が行われた時に長慶が修理大夫に転任している事を鑑みれば、永禄三年ではすでに、長慶と同格に並んでいたのではないかと思う。

地位としては、この時点では久秀と比べて高い、長慶に次ぐ地位を持っていたとされ、久秀は御相伴衆に任ぜられて、長逸が任ぜられていないというのは、個人的な意見としては、久秀を一大名として、実休と同じように格式として与えたものだとすれば、長慶の地位を継ぐのは義興で、その義興を支えるのが長逸だったのではないかと考えた。

「松永氏は三好氏の暖簾分けされた独立格の会社」と考えると、長逸は本社勤務で、久秀が独立したと考えれば、特段として違和感はあまりない

が、久秀への栄典は、おそらく長慶が提案をして推薦したか、義輝が奉公衆として談義したか、どのような経緯で独立格へ進んだのかは不明だが、長逸と久秀の明確な違いはここにある。

理由としては、家臣団の少なさである。久秀側の家臣団は数と出自が判明する者が多いように感じるが、長逸は出自が不明なのと、数がかなり少ない。そのため、長逸と久秀の明確な違いとしては、長逸自身が特定の地域支配に関わらなかった事が予想される。また阿波三好、実休側との接点が長慶存命時にはほとんど見えず、これは久秀にも言えることである。

なので、最初から長逸は久秀と対立したわけでもないし、嫌悪感もいだていているわけではない。久秀と対立をすることになったというのは、長慶死後であり、かつ永禄の変後である。
久秀が久通に家督を譲ったのは永禄六年、義興が亡くなったのが同年のため、久秀が久通に家督を譲った状態で、義継の後見人として長逸が立てられた状況は、義晴期の政所筆頭の伊勢貞孝が義輝期に後見として立てられる構造を見ると、久秀はあくまで独立格で、長逸とは違った境遇になっていると仮定した。

もっとも、最初から三好宗家を掌握したいとするなら、久秀を排他するような片鱗が長慶期からすでにあったのではないかと予想。あるからと言って、行動するとも考えにくいが、長逸に独立性が認められるかは、今後の研究が進んでからと願っている。

実休には康長がついた(仮)

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