没個性


私は子供の頃、とても個性的な子供だった。
個性的と言うと才能的な何かを感じるが、そういう種類の個性ではなく変わった子供であった。

今現在であったなら、発達障がいを真っ先に疑うであろう子供であった。
とにかく空気を読まない。人に合わせる事をしない。発想が変わっている。趣味嗜好も一般的子供が好むようなモノに興味を持てなかった。

親もそれを咎める事も無く無自覚のまま思春期に突入した。思春期になると一気に生きづらくなっていった。周囲に馴染めない。
その理由もわからないので追い出されてしまう。

どこのコミュニティに行っても馴染めず生きづらい。

私は初めて自分を疑うようになる。
「私に問題がある!」

私は一般的な人の思考や行動とズレがあるのではないか?
という答えに行きつく。

それから私は私の数少ない友達、周囲の人達にこういう事についてどう思うか?など意見をしつこく聞くようになる。

ハッキリ言ってこの上ない大迷惑である。よく私の友人もそれに付き合ってくれたなと今では感謝でしかない。

映画、本、ニュースなどもレビューの一般的多数の感想を読みあさり自分と相違した部分を洗い出す作業を始めた。何をするにも他人がする行動を逐一観察。一般的に好まれる服装、メイクなど好みまで変えて行った。

じたばた苦労や挫折を繰り返していくうちに年月を重ね、だいたいこういう時はこうするのが正解ね。という行動を公の場ではできるようになった。

そうすると、どこのコミュニティでも私の席がなんとなく用意されるようになってきた。
受け入れてもらえた時の嬉しさは今でも思い出すと涙が出そうな程である。


嬉しかったのもつかの間、そんな事を何年も繰り返していたら、私自身がどう感じるかという事がわからなくなってしまっていた。そしてどうしようもない違和感が心を覆いつくす。いつも自分が自分では無いような違和感。苦しい。

ある時、同僚と観た映画の話しをしていた。同僚が感想を話した後に私は感想を言わずに一般的な口コミがこうだったという話しをした所、
「皆がどう思おうがどうでもいい。私が聞きたいのはあなたの感想だよ。」と言った。

私はハッとした。

私は他人に変わり者と言われない為に
私の大切な気持ちや好きな物を隠して無い物、あるいは見ないようにしていた。
だけど私はずっとずっと苦しかった。

行動や言動と心が乖離し過ぎると当然苦しくなっていく。
その苦しみは、私の心の奥底の本音が私に訴えている証拠。
人として一番大切なやつです。

私はつまらない人間になったものである。
他人を気遣い、不快にさせない事とてもは大切である。だけど、もっと大切なのは自分がどう感じるか。何が好きで何が嫌いか。

他人に同調せず、好きなモノは好きだと言っていた幼少期の私は
他人に認められ無くても心が豊かで満たされていた。

現在は絶賛リハビリ中。
自分がどう感じるか。それを自分で拾い出し大切にする作業の真っ最中である。

変わり者がなんだ。変わり者上等。私は私でいいじゃないか。と胸を張って言える日まで。


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