「長江」という駅

 西武線は池袋に向かう登り線路の脇、江古田と東長崎の間に昭和三十年代小さなプラットホームがあった。わたしは朝夕の通学時に電車に揺られながらただぼんやりとそのぺんぺん草の生えたプラットホームを眺めていた。あるときぽつりと母が言った。「あれはウチの会社の駅だった」と。
 昨今の鉄道ブームのせいか、その「長江駅」についてはグーグルでもかなりの記事がヒットする。何を隠そう「長江」(長崎と江古田から二字をとって並べただけのなんとしょうもない名前!)は西武線がかつて「西武黄金鉄道」として屎尿を運搬していた時の積み下し駅である。母が言った「ウチの会社」とは、その西武黄金部門を堤孝次郎からまかされていた母の叔母の夫であり、父の叔父でもある、Aが経営していた会社を指す。Aは小学校もろくに出ずに信州から上京し、ある時「お稲荷さん」にお参りしてくじを引いたら、その屎尿処理の権利を引き当てた、と言われていた。その理由で、Aの邸宅内にもわたしの家の敷地内にも立派な「お稲荷さん」があり、初午祭りは一年のうちの一番大事な行事だった。その日は会社は仕事をしない。従業員の子どもたちも呼ばれて、くじ引きやおやつやいなり寿司が出る。大量の榊の葉に尾頭付きの鯛をのせて供える。そこに霙がぱらぱらとふりかかる。それは寒い寒い頃の行事だ。
 Aは文盲だった。Aの甥にあたる父は一族で唯一人の「大学出」だったから、契約書の読めないAのお供をし、経理の全てを任され「かわいがられた」。Aの暮らしぶりは文字通りの「黄金成金」。当時幼女だったわたしにも様々な記憶が焼き付いている。A大叔父の口癖は「人間、戦争があろうが爆弾が落ちようが出すモノは出す」だった。戦時中から戦後の一時期、Aはその屎尿運搬で巨大な富を築く。自分の縁者、妻の縁者のために次々に系列会社を作る。キャデラックにお抱え運転手。旧軽井沢六本辻には広大な別荘。じいやとばあやが住み込んでいて、子供たちはそこで夏中を過ごす。長女の結婚式はまるで日活のスタアのそれのよう。帝国ホテルに並ぶのは第一夫人、その隣に第二夫人。彼女の生んだAそっくりの男の子が紋付き袴姿でロビイを走り回っていた。何から何まで「堤流」と周囲はさずがにあきれはてた。
 わたしは一族が「清掃の仕事」をしていると聞かされて育ったので「ゴミでも運んでいるのだ」と漠然と考えていた。その黄金の運搬物について、確と聞いたのは成人してからである。親の側に何ほどかの配慮があったのだろうか。
 さて、時代は高度成長期に向かう。もう屎尿を運んでいる場合ではない。系列会社の大半はゼネコンの建築資材を運ぶ運送会社に変わっていった。それでもあいかわらず「清掃の仕事」を続けているものは親戚中から「才覚のない輩」と見なされた。しかし、日本の高度成長期が永遠に続いたわけではないことはご存知の通りである。石油ショック、バブル崩壊、そのたびに一族の会社は淘汰されていった。その頃だ、妻を亡くし再婚にも失敗し、すっかり弱っていた父は言った。「あのまま清掃をやっていれば今頃、、、なあ」そこまで言うか、と心底わたしはびっくりした。
 現在その「清掃の権利」を手放そうと考えるものはいないらしい。下水処理が発達した今でさえ高額で売買される「おいしい利権」なのだと古くからの税理士から聞いた。「長江駅」のプラットフォームは遙か昔に撤去されている。一族のうち、清掃を手放さなかった人たちのみが、かつての栄華を今に伝えて安泰である。

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