源頼朝とよもぎ餅 その1(全3回)


#よもぎ餅 源頼朝 蛭ケ小島 


昔、平安時代の終わりころのことです。
今から850年も前のことになります。1159年京都で平治の乱(へいじのらん)という源氏と平家の武士同士の戦いがありました。平家のリーダーは平清盛(たいらのきよもり)で源氏は源義朝(みなもとのよしとも)でした。
平家軍は西国者と言われ、多くは京都から西側に住んでいて、源氏軍の東国者は京都から東側の方に住んでいる者たちでした。平家軍は赤い旗を、源氏軍は白い旗を目印として戦っていました。源氏は春頃には500騎とも1000騎とも言われているほどの家来がありましたが、その年の暮れの負けた時には義朝たちは、たったの7騎になっていました。
雪の降る日だったそうです。激しい戦いでした。
「負けた源氏の者は一人残らず切ってしまえ」と平清盛は命令していましたので、源氏軍は東へと散り散りに逃げていきました。義朝には三人の息子がありました。義平、朝長、頼朝(よしひら、ともなが、よりとも)です。皆勇ましく戦いました。その時、三男の頼朝はまだ13歳でしたが、敵を3人も打ち取る素晴らしい働きをしたのでした。
頼朝はお父さんの義朝の後を継いで逃げていく途中、疲れていたのでしょう。馬の背中の上で眠ってしまい、皆から遅れてしまったのです。
美濃の国(今の岐阜県)関ヶ原で平家の者につかまってしまい、京都の六波羅へ引き立てられてしまいました。六波羅とは悪いことをした人、罪人たちを切る場所なのです。
頼朝は切られるところでしたが、平清盛の継母にあたる池禅尼(いけのぜんに)というやさしい尼さんがいて、その尼さんの計らいで、命は助けられ、その代わりに伊豆の国(今の静岡県)の蛭ケ小島(ひるがこじま)というところへ流されたのです。頼朝はそこで20年近くも過ごすことになるのでした。

今日はここまで。また明日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?