霧の中の関ヶ原 その1(全4回)


ポンと昔。慶長5年、1600年の9月15日は、関ヶ原の戦いという大きな戦いがあった日なんだよ。日本の中を西と東とに分かれての大戦(おおいくさ)だったんだ。西側の西軍は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)軍でリーダーは石田三成(いしだみつなり)だったよ。そして東側の東軍は徳川家康(とくがわいえやす)だった。日本じゅうのお城のお殿さまたちは、どっちの味方になったらいいか、困っていたよ。勝つ方に味方しておきたいからね。負け組になってしまったら、土地は奪われてしまうし、多くの者たちが死んでしまうから皆必死に考えたよ。だからね、どっちが勝ってもなんとか残れるようにと親子や兄弟どおしで敵味方に分かれていく人たちもいたんだって。

じゃあ、なんで豊臣軍とその家来だった徳川家康との間で戦いをすることになっちゃったかって? それは、この時から2年前に豊臣秀吉が死んでしまって、その後を8歳の秀頼が秀吉の後を継ぐことになったんだ。そうさ、たったの8歳。今なら小学2年生だ。子供のお殿さまじゃあ心もとないよ。家康は60歳くらいで知恵も力もあったからね。今豊臣を倒せば、徳川の世の中にできると思ったんだね。なので、家康は豊臣軍と戦いがしたかったんだ。でも戦いがしたいからといっても、何か理由がなくちゃ!だよ。そこにいい口実ができた。秀吉の亡くなった後、前田利家(まえだとしいえ)も亡くなって、その後五大老の一人となった会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)がいたよ。景勝に秀頼どのにあいさつに来ないかと言ったらね、行かないよと断ってきたんだ。家康は、それ運が向いてきたと喜んだのさ。そして、作り話をしたよ。
「景勝、謀反(むほん)の心ありと見た。さぁ、秀頼どのをお守りするために、景勝を討ちに行くぞ!」

今日はここまで。
徳川家康の作戦は明日またね。
読んでくれて、ありがとう。ポン!

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