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特別攻撃隊を語る《座談会》(前編)

 今回のテーマは特攻を語る。零戦など航空機での特攻はよく知られているが、余り世に知られていない「桜花」「回天」「震洋」「伏龍」についてである。「桜花」「回天」は他の二つに比べるとかなり知られてはいる。だが「震洋」「伏龍」は耳新しい。それぞれ三十四年以上前のことを思い起こして、当時を語っていただいた。二度と戻ってこない青春を、後生に正しく伝えてもらうために――(前編・後編の二回続きの前編)

 出席者=加藤輝人氏(特乙1期、桜花攻撃隊、旧姓木原)、河崎晴美氏(甲13期、回天攻撃隊)、村上信雄氏(乙19期、震洋攻撃隊)、的場順一氏(甲15期、伏龍攻撃隊)

本誌 月間予科練は十月号から座談会のページを作りましたが、十一月号は予科練出身の方四人にお集まりいただき「特攻を語る」でお話しいただきたいと思います。四人はそれぞれに異なる特攻編成であり、攻撃方法も異なっていますが、まずそのことなどからどうぞ。

加藤 私が雷神部隊に編成になったのは昭和二十年一月三日でした。兵器は俗に親子飛行機といわれたもの。一式陸攻の腹に魚雷のように吊されて放され、ロケットで目的物までとんで行くものでした。訓練は零戦で二千メートルぐらいの高さから急降下していました。ある程度その訓練が進んだら、実際に一式陸攻に吊されて、合図と共に急降下して行くというものでした。俗にこれを「桜花」といっていました。しかしわれわれは「K1」と呼んでいました。なんだか人間が生きたまま棺桶にはいるようで、寂しい思いでした。操縦桿にヒモがついていて引き上げられないようになっていました。降下地点に近附くとブザーが鳴るのです。その瞬間は胃があがるような気持でした。
 こんなことがありました。降下の時、防塵メガネにゴミがはいった。見えない。早く降下地点を探さないといけない。高度計を見るともう八〇〇メートル。かろうじて飛行場を見つけて滑り込みました。この訓練で殉職した者も多いと聞いています。現在では、二度と繰り返したくないと思っています。

靖國神社遊就館の「桜花一一型」

本誌 つぎは回天攻撃隊の河崎さんどうでしょう。

河崎 予科練から直接、呉へ行ったのです。その時点では回天とか蛟龍という名はついていなかったようです。十九年九月の中ごろすぎに、土浦から行った百人の予科練生が大津島に着いたら、もう回天という名がついていました。はじめ訓練する場所がなく二十年二月に訓練開始でした。

本誌 人間魚雷「回天」の特徴といへば何でしょう?

河崎 潜って行く。一人乗りでぶつかっていく。爆薬は十六トン。水中速力は三十ノット。ぶつかる角度が六〇度以上の場合は十万トンの艦船でも轟沈できるというものでした。

本誌 「震洋」攻撃隊員だった村上さん、どうぞ。

村上 乙十九期は昭和十七年十二月に土浦と三重に入隊しました。十八期が卒業して行くのに我々は卒業させてくれない。予科練訓練をまるまる受けさせてくれたようなものでした。二十年のこと、高茶屋という駅から黒煙を垂らせた列車に乗せられ、着いたところが長崎県の川棚でした。ここには乙十九期、二十期、甲の方々もいました。回天台は寸前まであったということでしたが、もう当時はありません。
 震洋の訓練ですが。大村湾を利用してやりました。魚雷艇のようなもので、一型と五型がありました。一型は一人乗りで、われわれの行ったころはもう使われておりません。五型は二人乗り。トヨタの四気筒エンジン二基を搭載。一基は七十五馬力でした。ハンドルはバックギアがなく前進だけ。三〇ミリの合板製でざっと五・五メートルほどの艇身です。二百五〇キロの爆薬を乗せるようになっていました。それと射程距離七百メートルのロケット砲二門、一・三センチの機銃も。対空機銃だったのですが、何しろ波が荒らく甲板が波で洗われ、機銃が波につかって使いものになりませんでした。爆雷も搭載していました。

本誌 伏龍攻撃隊の的場さん、どうぞ。

的場 水中特攻は、鮫龍、海龍、回天、伏龍の四種類がありました。鮫龍、海龍、回天は機械の特攻でしたが、私の伏龍はフロッグマン・スタイルの人に知られていない特攻。棒機雷を持ち、水中に伏せていて上陸用舟艇や戦車を積んだ舟艇が来たら、その棒機雷を突き出して爆破する攻撃法です。いわゆる水際作戦です。官名では71嵐部隊と呼ばれていましたが、一般には水際(さい)特別攻撃隊といわれていました。

本誌 加藤さん、雷神部隊の編成はいつだったのですか。

加藤 十九年の暮れだったと聞いています。私は二期生でした。基地は茨城県の鴻池という池のあるところ。まわりは砂地で、それが滑走に都合がよりとかでした。降りるのは車輪でなくてソリでスキーのように・・・

本誌 雷神部隊桜花隊というのですね。

加藤 そうです。

本誌 回天はいつからですか?

河崎 十九年九月一日です。

上村 震洋もそのころです。

的場 伏龍は二十年五月編成で私は七月に参加しました。

本誌 回天の正式部隊名は何というのでしたか

河崎 第一特別基地隊というもので、第一部隊は呉、第二部隊は徳山の大津島というように分かれていました。

本誌 震洋は?

上村 第32突撃隊。最初沖縄に本部があったのですが、水際作戦のあとは鹿児島に移りました。

的場 伏龍は第71嵐部隊。訓練基地は久里浜です。編成はユニークで、一般水兵から二飛曹までいました。

本誌 特攻に参加した時の心境はどうでしたか。恐らく全員熱望という形だったのでしょうけれど――

加藤 人生は生ある限り生きたい。命令でもって生を断つことは寂しい、辛いという何ともいえない心境でした。一応、志願制度だったのでしょうが、甲13期、特乙4期は全員が特攻。志願ではなく――

河崎 部屋に集められて、特殊兵器を扱う部隊にはいることに熱望する者は二重マル、希望する者は一重マル、希望しない者は印をつけないというやり方だったですね。

上村 震洋の場合は十九年九月に部隊が編成されたあと、各班から二人ずつ志願した。これがフィリピンで突撃して戦死した。二百四十人が死亡しています。二回目は各分隊で半分ずつ。私たちの場合は全員でした。二十年にはいってからです。

的場 伏龍の場合はちょっと変わっていました。土浦には十個分隊三千人がいました。うち二個分隊だけが普通訓練を続けていて、他の八個分隊は作業部隊のようなものでした。六月二十日ごろでした。朝集合しろという命令で集まったら、「ただ今から特殊訓練部隊要員を募る」という。まず「一人息子、長男は列外に出ろ」の命令。私は長男だったのですが、早く訓練に入りたいと思っていたので列外に出なかった。全員、目をつぶったままです。 残った三百人のうち五十人だけが名前を呼ばれ、伏龍の攻撃隊員となりました。部隊外にあった適正検査所へ行き、肺活量、プールでの潜水時間、水泳ができるかなどを調べられ、六月末に決まりましたね。

本誌 おかしい適正検査なぁと思いませんでしたか?

的場 おかしいと思いましたね。そういう検査のほか、鼻をみる人がいる。易者のような人が人相、手相をみる。そんなのが加わって五十人の隊員は四十人に減ってしましました。これは私たちの分隊の場合です。

本誌 特攻部隊がきまって、その後の死を覚悟した訓練はどうだったですか?

河崎 死を考えたことはなかったですね。二日目、三日目に研究会があり、体験を発表するのです。質疑応答がある。事故の対応策などです。それに満足に答えられなかった場合は訓練からはずされる。何しろ魚雷は十二、三本しかないのに、乗り手は四、五百人もいるのですから。また出撃候補が決まると、その者を優先的に訓練するので、なかなか一般訓練は出来ない状態でした。
 同じメシを食っていて、先に行く奴はどんどん出て行く。だから一生懸命に努力した。当時満足に温いメシを食べたことはなかったです。自分と自分の戦いでした。

本誌 自分との戦いに勝ってから、特別攻撃隊として出撃して行ったのですね。

上村 死というものの恐怖はありませんでした。若かったせいでしょうか。早く敵の船にぶつかってみたいなぁという気持で一杯でした。食糧も豊かで落ち着いたものでした。

的場 私も死への恐怖はなかったと思います。新しいものへの興味といいますか、そんなもので胸が一杯で――。訓練も、船に六人が乗り込み、ヘルメットをかぶり、ゴム服を着用、鉛の靴をはき、ナットを締める。そこまでは緊張していた。しかし、ハシゴをつたって船を降り海底を歩くのですが、二回、三回とやっているうちサボルことを覚えてしまう。まあ、一人前の兵隊として扱われているなあという感じの方が強く、うれしかったことを覚えています。

加藤 親、兄弟に汚名を着せたくないという共通の感情が、われわれの中にあったように思います。

(後編に続く)

(海原会機関誌「予科練」29号 昭和53年11月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

 昭和四十一年五月二十七日
 海軍飛行予科練習生出身生存者一同
 撰文    海軍教授 倉町歌次


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