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ああ 同期の桜

                 福 地 周 夫 (海軍大佐)

第三期甲飛予科練首席卒業
    海軍一等飛行兵曹 宮沢 武男君

 日米の風雲急をつげる昭和十六年十一月十七日、大分海軍航空隊で挙行された連合卒業式に於て、海軍二等飛行兵曹宮沢武男は、幾多優秀人材の揃った第三期甲種飛行予科練習生の首席優等卒業生として、御臨場の高松宮殿下より恩賜の銀時計を拝受した。身を軍職に奉ずる者の光栄これに過ぎたるはなく、この栄えの日に彼は一恵君恩に報ずるの覚悟を更に親らたにしたことと思う。

 宮沢兵曹は長野県諏訪郡富士見町の出身で、長野県立諏訪中学校(旧制)の五年生在学中に予科練を志願し美事合格して岩田清次郎、児玉清三等と共に海軍航空隊に入隊した。

 入隊後は勉学と訓練に励み、昭和十五年四月には航空奨励賞(時計)を授与せられ又心身の鍛錬に努め、昭和十六年二月には講道館柔道二段となった。

 目出度く卒業の時は年齢正に十九歳、戦闘機乗りらしい俊敏沈着の風格をそなえた眉目秀願の好青年であった。

 卒業と共に彊ちに航空母鳳雛鰍に乗組み零戦搭乗員として緒戦のハワイ海戦に初陣の功をたて印度洋セイロン島の攻整戦にも参加し、今珊瑚海々戦の決戦に臨んだのであった。

 私がここに述べんとするところは、この海戦に於て母艦の危急を救った彼の壮烈極まりない奮戦の状況に就いてである。昭和十七年五月八日、南太平洋珊瑚海の朝はようやく明け放れ、朝日にかがやく紺ぺきの海上を第五航空戦隊の瑞鶴、翔鶴の両航空母艦は敵米海軍のレキシントン及びヨークタウンの両航空母艦を目指して、波を蹴立てて全速力で突き進んでいた。開戦以来始めて敵機の大群と戦闘を交える翔鶴に於ては全乗員が決死の覚悟でそれぞれの戦闘配置に就いていた。

 同日未明に翔鶉より発進し、敵発見の大任を果して帰還中の索敵機菅野飛曹長戦の決死の反転誘導(前2号に掲載)にょって翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐の指揮する味方攻撃隊が敵陣に突入して攻撃を開始した頃、敵の両航空母艦より発進した飛行機の大群も亦、我が方に来襲してその機影が遙か南方の空に鳥の群れの如く現われた。

 折しも黒雲が突如として現われ、海上の一角を覆った。南洋特有のスコールの来襲である。このため旗艦瑞鶴はすっぽりとこのスコールの中にかくれてしまった。敵機はやむなくスコールの外を走る。

 二番艦翔鶴目がけてその総力をあげて殺到してきた。応急指揮官として指揮所内で敵機の攻撃を今か今かと待ち受けていた私の耳もとで艦内拡声機は鳴りひびいた。

 「敵機は全部本艦に向ってくる」愈々来るべきときが来たのである。敵の全攻撃機八十余機に取り囲まれては翔鶴の運命も危い。こうなっては敵の爆弾や魚雷が命申した場合はどんなに処置しようか、又どうあっても翔鶴を沈没さしてはならぬと私は一心にそれのみ考えていた。この時来襲敵機の前に立ちはだかってその攻撃を阻止せんと上空直衛の任に当っていた零戦の一隊、小町定・小平好直・宮沢武男兵曹達はその鍛えに鍛えた的確なる機銃砲火によって、忽ち敵の数機を叩き落とした。

 戦闘は開始された。敵機は翔鶴の上空に迫ってきた。翔鶴の両舷側に並んでいる十二、七糎二連装高角砲十六門、二十五粍三連装機銃三十六挺が一斉に射撃を開始した。とどろく砲声は耳をつんざき、巨艦の艦体も上下左右にゆれ動いた。上空直衛機の防禦網を縫って急降下してくる敵機の落す爆弾は翔鵜の前後左右に爆発して水煙をあげて林立する。群がる敵機に対して、乗員全部が必死の応戦をしているときに地震のような大震動が起って前甲板に爆弾が命中し、前甲板を大破し附近のガソリン庫に引火して大火災を起し、黒煙は空を覆った。続いて後甲板及び中部甲板に爆弾命中、多数の死傷者を生じ、火災は前、中、後部の三個所に起り翔鶴は煙に包まれながら全速力にてばく進する。応急員は必死となって火災の消火に奮闘する。

 このとき左前方海面を這うようにして迫る敵雷撃機隊の一隊、その胴下に抱くのは一発巨艦を屠る航空魚雷、翔鶴目がけて将にこれを発射せんとす。このとき母艦の危急を救わんと海鷲一機、上空より弓矢の如く飛び降り忽ち先頭の一機を撃墜し、後に続く二番機に対して機体もろ共体当りして共に海中に没した。この有様は翔鶴艦上より手に取る如く望見され、乗員注視の中に決行された壮烈極まりない奮戦であった。この零戦機上の勇士こそ、第三期予科練首席卒業、恩賜の時計を拝受した海軍一等飛行兵曹宮沢武男その人であった。彼は母艦護衛の大任を身をもって果し珊瑚海上に美事に散って天恩に報じたのである。

 翔鶴は敵機の発射した三十数本の魚雷を全部回避すると共に宮沢兵曹の決死の奮戦によって、一本の魚雷も命中せず火災もようやく鎮火することが出来て沈没を免れることが出来た。一方味方攻撃隊は敵の頼みとする世界最大の航空母艦レキシントンを撃沈しヨークタウンに損傷を与える戦果を収めた。

実父宮沢清次氏談

 「私は農業によって生活をしている農家です。家族は私共夫妻に長女の三人暮しです。長女は教員で中学校に教鞭をとっております。私達は既に七十歳を越した老人ですので、農事は人を雇い入れて作っております。」

 老父母は一人息子を国に捧げ子は老いやる父母を家に残して尽忠報国の大義に就く。

 私は且つて海軍兵学校の校庭で声高らかに歌った決死隊の軍歌を思い出す。

 「家には親も妻もあり、子もあり、といえ戦いに死する命を惜しまぬは、大和男の子のならいなり」かくて「帰らぬ索敵機」の窪田清次郎と同じ第三期予科練の同期の若桜は彼等が航空隊の蔭で歌った同期の桜「美事散ろうよ国の為め」の通り母艦の危急を救う大任を果して珊瑚海上の花と美事に散って行った。

海原会機関誌「予科練」3号(昭和43年4月26日)より



「予科練」とは、海軍予科練習生(昭和11年12月海軍飛行予科練習生へ改称)の略称です。

 予科練の制度は、優れた航空機搭乗員は英才の早期教育が必要との観点から、高等小学校卒業者で15歳以上17歳未満の若者をその教育の対象としたもので、第1期生79名(うち1名は途中除隊)は、全国5,807名の志願者の中から厳選され、昭和5年6月に横須賀海軍航空隊(追浜基地)に入隊しました。

 予科練の制度は、昭和20年6月に教育の凍結がなされるまでの、わずか15年間にすぎませんが、その間に約24万名が志願し、18,564名の卒業生が戦死され、そのうち1,557名は特攻隊の隊員として大海原にあるいは大空に散華されました。

 公益財団法人「海原会」は予科練出身戦没者の慰霊顕彰と遺書・遺品などを管理しています。詳しくはホームページ、ツイッターをご覧下さい。

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