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私の戦記から 「シドニー偵察と特殊潜航艇」

 潜水艦に飛行機を搭載して局地偵察、或は艦隊決戦の際に敵の意表をついて効果を揚げる構想は如何にも帝国海軍らしい発想であった。今考えてみるといぢらしいような涙ぐましい構想に思えてならない。敵地に近ずくと、丸く長い格納塔からバラバラの部品を次々に引出し、胴体と翼、エンジンとプロペラ、脚とフロートの順序よい組立てが手ぎわよくおこなわれる。

 その間に艦長よりの飛行命令を受けた搭乗員は、完了と共にカタパルトから発射出発する。

 この潜水艦搭載専用の二式小型水上偵察機(編注: 以下の説明や各種文献等から「二式小型水上偵察機」ではなく、正しくは「零式小型水上機(または「零式小型水上偵察機」)」と思われる。)は、星型空冷300馬力、低翼単葉復座式双フロートで巡航80ノット、航続5時間、旋回機銃7.7ミリ1挺であり、中練と変らないものであった。これで敵地深く潜入し穏密で軍港や飛行場の偵察をするのである。

 海戦以来、これがハワイや米西岸のオレゴン州爆撃に、マダカスカル島のデゴスワレスに、また南は豪州方面までの作戦に貢献したことは余り知られていないであらう。

 これを搭載するのは二千200トンの大型潜水艦で百10米の巨体に24ノットで一万4千浬の航続、3カ月の行動能力に乗員100名に飛行機一機を搭載し大平洋往復可能の性能であった。53センチ魚雷発射管8門、14センチ砲一門、20ミリ機銃の二連装一基も備えてあり、これの搭乗機飛行作業には艦務員一体となって当り、整備員のみならず主計兵に至るまでこの訓練に協力し、私が配属された昭和16年9月から2カ月間に全員ベテラン揃いとなる猛訓練が行われた。潜水艦浮上より飛行機発射まで約7分、着水より艦上揚収し分解格納し、全没潜航まで5分か6分であったという。

 平時でも大平洋の真中で昼夜の区別なく私と同乗の岩崎兵曹の飛行に対する協力態勢が揃っていた。当山先任将校(沖縄出身)に、『お願いできますか』と一言いえば、艦長に上申され、松村中佐(岩国出身)の『よかろうやり給え』の応答で、主語はなくともすべての意が通じ、航海長の指図で全艦あげての行動であった。

 昭和16年9月館山空から伊21号でハワイ攻撃に参加し、引き次いで米本国西岸に転戦し、横須賀に帰港後再度呉港に回航し、17年4月15日出港トラックより27日ニューカレドニヤを経てフイジー島のスバ港偵察の命を受けた。

 5月18日早朝射出、低雲のため苦労しながら、スバ港の珊瑚礁を見つけ、高度500で港の中央に突入、早朝のため敵兵が歯ブラシを使い洗面中の姿が見える程であった。
「飛行長、機銃掃射しますか?」
「冗談いうな、穏密偵察だぞ、それより手を振ってやったらどうだい」
 笑いながら後席から手を振る岩崎兵曹に、敵さんも味方機と思ったらしく盛んに手を振っていた。胴体も翼も日の丸を消して緑色の迷彩色のため国籍不明のため、何の心配もなくゆうゆう帰着した。

 発進直後にオークランド偵察中止、シドニー偵察の命令が出たとの事で、計画中のウェリントン偵察も中止し荒天の中をシドニーに向う。シドニーには敵戦艦ウオースパイトがいる筈であった(5月8日の珊瑚海々戦で損傷した同艦が退避していた)。開戦後半年しても、この辺りはいまだ戦禍に見舞われていないらしく、輸送船は灯火をつけて航行し、漁船も出ているらしい。一週間にわたり、シドニー港の地形、湾内の形状、侵入退避の方法、暗号の作成を計画し、後は天候を祈るのみであった。

 5月29日、月没と日の出の間が2時間しかない偵察である。風の強い中を進航する艦はピッチングが大きく、カタパルトは無理な状況であった。しかし延期は許されない重大任務である。発艦は何とか技術的に可能としても着水時は90%転覆するだろうと考え、その用意を艦長にたのみ発艦した。

 高度500メーターでシドニーに接近、美しい街の夜景を見ながら、港湾を偵察開始、――

 戦艦は見えず、駆遂艦2〜3隻に、軽巡らしき一隻が見えるのみであった。コッケイト島よりの探照灯に捕捉され雲中に避退し、再度偵察開始、――

 明晩この港内に攻撃突入する特潜の成功をさせるには、何としも敵艦の存在をキャッチする必要がある大任であった。ガーデン島附近に接近すると、大型艦2隻を発見、三脚マストのアメリカ戦艦と確認、もう一隻を重巡と判断し、任務完了。帰路につくことにした。

 月は没して真の闇夜になっていた。日没までに未だ一時間半もある。ノースヘッドから30度宜候、どれだけ飛んだか忘れたが、予定到着時間になっても潜水艦が発見出来ないのである。

 過去の経験からもこの状態では潜水艦はおろか大型巡洋艦でも発見困難である。予定時刻より更に5分間飛行するも発見不能であった。岩崎兵曹から声がかかった。
『飛行長どうしますか、もう少し飛びますか?』
『いやもう大分飛んだ様だが、この視界ではみえないよ、もう一度シドニーの灯台から航法をやり直そう、例の暗号持っているか?』
『大丈夫です。いつでも打てます』『反転シドニーに向うが、その前に暗号(照明灯を発光)の発信してみろ』

 出発前に決めた暗号を送信すると、前方より小型探照灯による返信が見えた。高度を100メーターに下げ、闇夜の海上にすかしてみえる墨絵のような潜水艦と一面の白波を確認、着水に入る。
 出発前の予感通りの大波上の着水である。このまゝではフロートか足の折れることは避けられないと思い、その用意に入る。バンドをはずし、風防開き、両手足を前方に突張って、転覆覚悟の備えである。
 近ずく海面の大きな波頭が接した時は大ジャンプする。当然エンジンをふかせる所だが、脚が折れたらしいので、スティックを一杯に引いて着水を待った・・・。

 ものすごいショックと共に、気がついた時はフロートを上に胴体は水の中にした愛機の中で水中にいる私であった。座席を蹴り、一度下にもぐって浮び上らねばならない体型にあった機体からの脱出であった。浮上したとたんに私は岩崎兵曹を探していた。真暗な海面で風の音だけ聞える中を大声で呼んでみた。「岩崎!!岩崎!!」・・・。壊れた愛機に摑って必死で叫んでみたが、岩崎兵曹の姿は見えなかった。機体の反対側を探すつもりになって、手を離したとたんに荒波のため2米も離れ、どんどん流される愛機に比べ、私の体は沈んだまゝで動かないのだった。浮きつ沈みつしながら海水を飲み込みグロッキーになりかけた時一本のロープを摑んだのである。猫吊りの形で艦上に吊し上げられた時、やっと自分が助ったことを感じ、真先に岩崎兵曹の安否を尋ねたら、5分程前に救助されていると知らされ、安心と共に全身の力がぬけるほど嬉しかった。

 大切な飛行機を壊した事を艦長にお詑びしてから後、偵察任務の報告を終え考えてみた。“泳ぎに自信のある私が何故浮べなかったのか?ライフジャケットもつけているのに・・・。濡れた飛行服を脱ぎながら気がついたのだった。10倍の双眼鏡を首にかけ、ポケットに14式拳銃と弾8発、予備弾倉2個を入れ、まるで錘をつけたような自分であったのだ。次第に明るくなる海面に壊れた愛機が流されてゆく。大ハンマーで孔をあけ沈めた後、大急ぎで潜航しながら冷酒で乾杯、それも小さなグラスで二杯づつであった。この習慣は毎度のことながら理由不明である。

 いよいよ31日夜である。特殊潜航艇のシドニー攻撃が始まった。午後7時から、7時半にかけて多数の探照灯が港内を乱照射している。吾々には攻撃の成否は不明であったが、望見する立場の身であってもこれを実施可能に導いた偵察任務者として、その成功を心から祈りつつ同航の五隻の大型潜水艦と6月2日夜まで収容地点で彼等を待った。その3日間は大暴風雨で山のような波に撲れながらの毎日であったが、遂にその特潜は3隻共帰って来なかった。

 此の日アフリカの東岸にあるマダガスカル島南端のデゴスワレス港でも特潜3隻による英国戦艦を攻撃し成功した通知が届いたが、彼等も遂いに一人も帰って来なかったとの事である。真珠湾の特殊潜航艇を知らない人は少ないが、シドニーとデゴスワレスの特殊潜航艇攻撃を知っている人は数少いのではないだろうか。

 此の時のシドニー攻撃に参加された特潜の勇者は、伊22潜から、松尾敬字大尉、都竹正雄二等兵曹。伊24潜から、伴勝久中尉、芦辺守一等兵曹。伊27潜から中島兼四大尉、大森猛一等兵曹、の方々である。謹んで六勇士の御冥福を祈ります。

(海原会機関誌「予科練」37号 昭和54年7月1日より)

(編注: 日本海軍特殊潜航艇によるシドニー攻撃の際、英国海軍から派遣されていたシドニー地区司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド提督は、戦死した特殊潜航艇の乗組員のために海軍葬を行い、戦死した兵士の遺骨はシドニーに拘禁中だった日本公使河相達夫に手渡され、昭和17年(1942年)10月に日英交換船で河相公使とともに日本に戻っている。)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」


昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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