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『若鷲の歌」歌碑建立

 作曲家の古関裕而先生へお手紙を差し上げた。内容は「-若くして国難に殉じた予科練出身戦没者の鎮魂のために『若鷲の歌』の歌碑を建立したいと思いますが、御意見を賜わりたい-」というものである。

 早速ご快諾の返事を頂き、去る二月十五日東急文化会館で私達(三瓶副会長・相原理事)三名でお目にかかった。温顔に終始笑みをたたえられ、とつとつとお話しになられる先生は真に親しみやすくもう何回もお目にかかっているような錯覚をおぼえるのである。そして先ずおっしゃった言葉は「あれ(若鷲の歌)は生徒さんたちが選んだものです」であった。練習生、というのは言いにくいためか先生は生徒さん、少年たち、といい、ときに子供たち、と表現するときもあった。一時間近くもの間往時を回想しとつとつと語られた内容はつぎのとおりである。


 先生が作曲された数多くの中で名曲として残る若鷲の歌を想うとき、あの練兵場に集まった少年たちの姿は、今もなお鮮明な映像として脳裡に残るのであった。あの少年たち。とは、あれはたしか昭和十八年の九月であったと思う。十名ほどの一団と共に、先生は土浦へ向うべく上野駅から汽車に乗り込んだ。一行には、詩人西条八十・歌い手の波平暁男・アコーディオン奏者と東宝映画の方々で目的はこうである。
 ひと月ほどまえ詩人西条八十先生から「若鷲の歌」と題した詩に曲付けを依頼された。それはいま激烈な戦争で、海の荒鷲たちの活躍が全国民の称賛を浴びているとき、これに続かんとして訓練に励む予科練習生たちの詩で、この歌は海軍省の要請で、東宝映画社が「決戦の大空へ」と題して製作している映画の主題歌であった。
 先生は直ちに作曲に取り組み、曲は少年たちが空への夢を追って勇躍巣立ちゆくのであるから明るいメロディが良いと考え作曲にかかった。期間は短かかった。それは急ぐ海軍省からの要請で、コロンビアは先生に完成をせきたてたからである。だが、訓練に励む少年兵たちを想い作業に力が入ったそして明るいメロディの曲が出来たところで、まず海軍側への報告が目的で十名ほどの一団が上野駅から汽車に乗り込んだという訳である。

 先生は座席の一隅に座ると暫く瞑想した。毎日のように報道される荒鷲たちの活躍ぶり、そして死闘をくりかえしているであろう大空、その先輩に続かんとしている少年兵たち、想いがここへきたとき、ふと、瞬間的に閃らめきを感じた。全く別の曲が脳裡の五線譜をうちならし奏でるのを覚えた。それは忘れもしない列車が日暮里駅を通るときであった。先生は直ちにそれを五線譜に書きつけていった。そして土浦の駅に着くまでに、前の曲とは違った新しい曲が出来たのである。
 一行の着くのを待ちかまえていた予科練教育部長の原田少佐に、前の曲と、車中で書きあげたものとを差し出した。「二曲のうちどちらかを選んで下さい」という先生の申し出に、海軍側数名の教官と、同行した人たちもみんな「前の曲の方が明るくて良い」といった。先生は、あの日暮里を過ぎるとき閃いたものを、まだ余韻として胸を打つものを感じ「少年たちに両方聞かせて好きな方に手を挙げさせてみることは出来ませんか」と少佐に尋ねた。「それは良い直ぐ号令台前の広場へ集めましょう」ということになった。このとき先生が、何名位集まるのですかとの問いに、三千名位です、という少佐の答えに一瞬とまどった。百名か二百名なら、どちらが多いか数えられようが、三千名ではどうにもなるまい、と。だが少佐の言に従った。
 練兵場の庁舎に近い号令台前の広場に集った少年たちは、どこかにあどけなさが残るまだ十五、六歳の子供達であった。だが、真白の作業服に、はちきれんばかりの若さを身につつみ、二、三千名もの大人数が整然と並んだ動作と態度はもう立派な軍人であった。そして熟この少年たちを前にして先生は一瞬躊躇した、「もし半々位のとき、この大人数では数えることも出来ず、どちらにしてよいか判らなくなりはしないか」と。だが、その杞憂も僅か十分の後に吹きとんだのであった。

練兵場に集合した予科練生(イメージ)

 まず先に、前の曲で続いて、いま車中で書き上げてきたばかりの曲で歌って聞かせた。そして少佐が「前の曲が良いと思う者、手を挙げ!」の令に、挙った手はごくわずかの人数であった。続いて「後の方が良いと思うもの!」の令に、こんどはほとんど全員と思えるばかりの少年たちの右手が一斉に上ったのである。「これで決った!」と、先生はそのときの感動を四十年後のいまもなお忘れない。
 直ちにこれが「決戦の大空へ」の主題歌となった。そして、その映画が封切られたときのことである。銀座近くの小学校の生徒が先生に引率され日劇へ見学にいった。そのときは子供たちだけに見せるため日劇の入り口には、一般の方ご遠慮下さい、の立て看板がたてられてあった。古関先生は、反響は?と、そこへ見に行った。そのときである。映画終了と同時に出てきた子供達が、今見ただけでもうみんなが口ずさむように唄いながら出てくるのを見て驚いた。めずらしいことである。歌というものは、どんなに流行るものでも、普通なら何遍か聞いて、そして覚えられてゆくものであるのに、今、はじめて映画を見、歌を聞いたばかりの子供たちが、劇場を出るときもうほとんど正しくその節を唱っているではないか。驚いた先生は「これは爆発的になる!」と直感したそして予感に間違いはなかった。「若い血潮の予科練の七つ釦は桜に錨・・・」と、またたく間に全国津々浦々に広まっていったのである。

 そして終戦――先生は胸に痛みを感じた。それは若鶯の歌が大流行している頃、郷里会津の親友が一人息子のことで、と相談を持ちかけられた。「古関君、うちの中三の伜がね、予科練へゆくんだ、といってきかないのだよ、どうやら君のつくった歌が原因しているらしいんだ」といわれたときのことを思い出していたのである。その少年は終戦の日近く、神風特攻隊員となって沖縄の空に散華したのであった。「あの歌は良かったのであろうか、悪かったのであろうか」と、自問自答することも度々であった。

 そして戦後も三十五年の日が流れたとき、財団法人海原会から歌碑建立計画についての手紙を受けとられたというわけである。
 「練兵場の少年たち」を思いうかべ、良いことである、と直ぐに賛成され、「あの曲は私の最も思い出に残るものです。それにあの歌は、少年たちが選んで決めた歌です。戦死された少年たちの鎮魂にもなるし、譜面を刻ざまれるときは私が書きましょう、間違えるといけませんから」と、心よく快諾されたのであった。


若鷲の歌

作詞・西条八十
作曲・古関裕而

一、若い血潮の予科練の
  七つ釦は桜に錨
  今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にや
  でっかい希望の雲が湧く

二、燃える元気な予科練の
  腕はくろがね心は火玉
  さっと巣立てば荒海越えて
  ゆくぞ敵陣なぐりこみ

三、あおぐ先輩予科練の
  手柄聞くたび血潮がうずく
  ぐんと練れ練れ攻撃精神
  大和魂にや敵はない

  (以下略)

(海原会機関誌「予科練」45号 昭和55年4月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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