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特別攻撃隊を語る《座談会》(後編)

今回のテーマは特攻を語る。零戦など航空機での特攻はよく知られているが、余り世に知られていない「桜花」「回天」「震洋」「伏龍」についてである。「桜花」「回天」は他の二つに比べるとかなり知られてはいる。だが「震洋」「伏龍」は耳新しい。それぞれ三十四年以上前のことを思い起こして、当時を語っていただいた。二度と戻ってこない青春を、後生に正しく伝えてもらうために――(前編・後編の二回続きの後編)

 出席者=加藤輝人氏(特乙1期、桜花攻撃隊、旧姓木原)、河崎晴美氏(甲13期、回天攻撃隊)、村上信雄氏(乙19期、震洋攻撃隊)、的場順一氏(甲15期、伏龍攻撃隊)

(前編からの続き)

本誌 出撃する戦友との別れ之時はどんな心境でしたか?

加藤 (昭和二十年)二月末でした。第一陣が出て行きました。「あとに続くから思う存分やって来てくれ」といいましたね。その後私は、教員配置になって八月を過ぎ敗戦を迎えてしまったのです。

河崎 第一回の出撃は二十年一月でした。土浦の優等生(森、三枝)二人が出ました。一列縦隊で見送るのです。先任士官の先導で攻撃隊員がやってくるのですが、自分の知っている者がくると「オレの分も残しておけよ!」と声をかけるのです。すると「くやしかったら出撃してみろ!」とかえってくる。そんな心境でした。

上村 震洋はなにしろベニヤ板の合板で出来ているので、すぐに穴があく。海上を突き進んでいく時は物凄い白波が立つ。このため米軍からイカダを流され、これにぶつかって随分沈没したと聞いています。私たちは敵艦と合っていませんので、そういった特別な感情はあまり・・・

本誌 訓練中に犠牲者が出たということですが、そんな時の感じはいかがでしたか?

的場 毎日、二人から三人の犠牲者が出たようです。伏龍はなかでも特殊な攻撃方法だったので、海底では酸素ボンベ三本を背負って一時間二十分もたすのです。これを可性ソーダを使えば時間が三倍もつということでした。それには鼻から吸って口から吐かなければならない。ところがツイこの逆をやってしまうのです。そうすると一酸化炭素中毒で海底で眠ってします。こうして毎日犠牲者が出ていました。こんな死に方ではいけない、と寝るのも鼻から息をして口から吐く訓練をしました。今でも尊い訓練、厳しい死と隣り合わせた訓練を乗り越えて来たと思います。


伏龍 (靖國神社遊就館所蔵)

本誌 皆さん特殊な攻撃隊だったので、なかには実戦に参加されなかった方もいらしゃる。そこで、敗戦を迎えた時、正直いって、死んだ戦友、先輩などのことを考え、どんなお気持ちだったかを聞かせて下さい。

加藤 死んだ戦友に申し訳ない気持ちでした。と同時に、オレの生涯はまだ何年も続くのだなという思いとが入り混ざってしまって――。複雑な気持ちで一杯でした。

河崎 あの正午の放送は聞き取れなかったですね。雑音ばかりで。仕方がないから本部へ行こうといって出掛けた。すると士官連中が短波で聞いている。着いたら終わったところで何も分からない。そこで予備学生出身の士官に聞いた。「あとから司令の話があるだろうから、早まったことはしないように」というだけでした。そして司令から聞くと「どうも敗けたらしい」というのです。拳銃をパンパン撃ちまくっている奴もいた。午後三時か四時になって整列させられたのですが、命令は「敵が来たら迎え撃て」でした。「攻撃せよ」ではなかったことを覚えています。

上村 私どもは何もわからないまゝ「総員、水泳の用意をして集まれ」の命令がでました。船には爆薬を装備したままです。二キロほど離れた沖合いまでくるとハンマーで船底に穴をあけてブクブク震洋を沈めて処理しました。もちろん、そのあとは泳いで帰って来ました。
 魚雷艇一隻だけは、爆薬をはずして、近くから松葉を拾って来て焼いてしまった。そのあと隊長だった予備学生出身の近藤中尉が「諸君はまだ若い。これからの将来がある人達である。文は武にまさる。諸君は再び学窓に戻って一生懸命勉強してほしい」と敗戦を語ってくれました。今でも思い出す、すばらしい名演説でした。それを聞いてもまだ敗けたとは思わなかった。敗けた悲しみなんて一切なかったようです。アメリカへの憎しみもありませんでした。

河崎 「敵が来たら迎え撃て」という訓示があって数日たってから先任参謀が飛行機でやって来ました。陛下のお気持ちはあの通りだから、その意を体して引き上げてほしい、ということを言いにでした。二十日ごろでした。それから四、五日してはじめて第一陣が故郷へ帰りはじめたのです。敗けたという気持ちはしませんでしたね。

本誌 私も霞ヶ浦で敗戦を迎えた時、上官から「学窓に戻って、頭を入れかえてしっかり勉強し、民主主義を育ててくれ」という訓示を受けたことを覚えています。最年少だった的場さん、あなたの“その時”はいかがでしたか。

的場 あの日はすごく天気のよい日でした。朝から訓練がないので「どうしたのだろう」と皆で不思議がっていたのです。ですから通信隊へ出かけて行きました。すると陛下の玉音放送があるという。だとすると決戦を意味するのか、あるいは降伏を意味するのか、とういうことで言い合ったと思います。隊に帰ると清水分隊長が「敗けたのだ」と一時間にわたって説明がありました。
 泣き出したのは予科練生。一般水兵はホッとした表情でした。今でも当時の水兵の方とお付き合いしていますが、「あの時君達予科練生は泣き出したが。私達一般水兵は本当にホッとしたよ」といっていらっしゃいます。一般水兵の方は四十歳を出た方もいましたからね。
 それから一般水兵は除々に帰郷され、予科練生だけは残留を命じられて、知られたくない兵器、ゴム服、一般機銃などを埋める作業に使われました。焼くと煙が出るというので埋める作業です。膨大な量でした。見ている人も多勢ましたので、食料もあったことですし、掘り返されてしまったと思いますよ。

本誌 それぞれ厳しい訓練を少年ながら受けてこられ、また敗戦では自分と国の大きな転換期に逢われて、祖国再建に尽力されて来たわけですね。ご苦労さまでした。あれから三十四年二度とあのような苛酷な目を子供達に味あわすべきでないと考えていらっしゃることでしょう。これらの思いを後生に正く伝えて下さることと信じます。
 予科練顕彰会も財団法人・海原会の設立の決定をほぼみまして、共に亡き戦友の慰霊と遺徳をしのび、子弟のために正しく予科練を伝えて行きたいと思います。今後とも手をとり合って永遠の平和を日本にもたらすようにしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

(海原会機関誌「予科練」29号 昭和53年11月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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