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【小説】もともとくぼんでいます

 集落を三つ水底に沈めた坂本博士は、次に沈める集落を探していた。

 地学や民族学に詳しい先生をつぎつぎ呼びつけて、さっそくですが、どこの集落なら沈めていいですか? と真剣な表情で聞き、先生方を怒らせ、呆れさせた。その土地に根付いたものを無に返すのか、地形をわがままな理由で変えていいと思っているのか、という説教をずいぶん長い時間受けながらも、最終的にはここならよいであろうという候補地をいくつか聞き出したところはさすが坂本博士だ。

 坂本博士は非常に胡散臭い見た目をしている。髪の毛は真っ白でくるくるの天然パーマで、わたあめのようだ。同じく真っ白なひげと髪の毛はつながって、顔全体がまんまるのボールのようになっている。そこに革ジャンを着て、黒いサングラスをかけている。コメディアンのような外見で集落を沈めたいというものだから、みなはじめはまじめに話を聞こうとしない。しかしその知見と謎の論理と、なにより人なつこさであっという間に話をまとめてしまう。

 僕は大きな瓶に水と少量の薬品を入れた。ガラスの棒でかき混ぜて溶かす。地理も民族学も化学もなにも知らない僕は、ただ坂本博士の指示通りに作業をしているだけだ。薬棚から同じ大きさの瓶を持ってくる。瓶にはいま作ったものと同様の液体がいっぱいに入っていて非常に重い。液体の中にはチョコレート菓子が浮かんでいる。果物の形をしたチョコレートにプラスチックの棒がついたものが三本扇形に並べられ、パッケージングされている。紫色のチョコレートがかたどっている果物はあけびだ。熟したあけびは少しだけ割れていて、中身をちらりと見せている。種はぶつぶつ小さなくぼみをいくつもつけることで表現している。紫色のチョコレートの下の層は見慣れた茶色いチョコレート色だ。あけびの部分がどんな味がするのか、そもそもあけびを食べたことがない僕には見当がつかない。

 あけびチョコレート棒のパッケージはカラフルでかわいらしい。あけび、という文字が三本のチョコレート棒の後ろに丸い字体で大きく描かれている。ピクニック中らしいうさぎと亀がリュックを背負って山を元気に降りている。あけびチョコレート棒をぴったりとビニルで覆うのではなく、あけびチョコ菓子に直接触れないよう蓋のようにプラスチックが被せてある。あけびチョコ菓子を覆う部分以外のプラスチックは台紙に圧着されている。裏面にはびっしりとひらがなを多用した説明書きや成分表示が書かれており、読んでいるとなんだかわくわくしてくる。これはおいしいものである、ぜひ食べてほしい、という気持ちが詰まった文章である。成分表示の香料の名前ひとつまであけびチョコ菓子のよさを伝えたがっているようにすら思えてくる。

 僕は瓶に手を差し込み、あけびチョコ菓子のパッケージの端を指でつまんで、そっと持ち上げ、新しく作った液体の入っている瓶に移し替えた。瓶の蓋を閉じてほっと安心する。このあけびチョコ菓子は爆発する危険があるのだ。

 どのように爆発するかについてはいくつか説があるらしい。三本のあけびチョコレート棒がそれぞれ正面、右斜め前、左斜め前へとミサイルのように飛んでいき、着地したとたん大きな爆発を起こすというのが一つの説だ。パッケージに衝撃を与えたとたん一瞬にしてあけびチョコレート棒が激しい光を放ち、辺り二十キロメートルのものすべてを焼きつくすという説もある。まったくなにも起こっていないように見えて、常にあけびチョコレート棒から人間には感じられない香りが発せられており、その香りで鼻から体内に有害な物質が入り込みあらゆる病気を誘発するという可能性すらあるそうだ。

 それはすべて坂本博士の独自研究によるもので、正直に言うと僕はあまり信用していない。あけびではなくいちごのものならば、菓子売場でときどき見かけるし、昔食べたこともある。あけびとほとんど変わらないように見えるいちごのチョコレート棒はとてもおいしい。けして高級な味ではないが、ぺろぺろ舐めていき、舌が棒に達するとちょっとうれしくなる。チョコレートのある部分は棒がとがっておらず、丸くなっている。不思議な模様が書かれていて、それを舐めてざらざらと楽しむのが好きだった。

 あのいちごと、あけびがどう違うのかはわからない。

 あけびのチョコレート棒は、民家のお菓子入れやスーパーの在庫棚から突然発見される。すると坂本博士に電話が来る。電話を切ると、すぐにどの集落を沈めるかの検討が行われる。

 あけびチョコ菓子を瓶に入れて液体に漬けておくのはあくまで一時的な処置だ。もっともっとたくさんの液体の中に浸しておかないと、爆発やら、有害物質を発生させるやら、とにかく危険なことがたくさん待っている。ほどよい集落から人払いをして、薬品を加えた水を集落に大量に流し込み、そこにあけびチョコレート棒をパッケージごとそっと沈める。そうすれば安心なのだと坂本博士は言う。すでに三つの集落が水に沈められた。いま話し合っている集落の件がまとまれば、四つの集落が水底で静かな時間を送ることになる。

 研究室のドアがわずかに開いた。それほど重い扉ではないのだが、うまく開けられず苦戦している様子だった。僕は入口に駆け寄ってドアを開ける。大きなコップが目の前にあった。

「すいません、ありがとうございます」

 コップには目と鼻と口が黒いペンで書いてあった。丸い目はときどき瞬きをして、口はコップが喋ったとおりに動いた。鼻はよくわからないがきっと息をしているのだろう。

 コップは僕の背丈ほどの高さで、横幅は三倍も四倍もある。短い手足がついていた。コップの底にオレンジジュースが少しだけ入っている。コップの体積を考えると一リットルくらいはあるだろう。コップのふちの上には濃い緑色の雲のような形をしたかたまりがいくつも乗せられていた。

「あの、坂本博士は」

 コップは言う。

「失礼ですが、お約束はしておられますか」

「いえ、しておりません」

「そうですか、本日は難しいかもしれません」

「なぜですか?」コップは言って、はっと気がついたように自分のふちの上に乗っているものを指さした。「これはめかぶです」

「はあ」

「とろとろの、擦られたものしかご覧になったことがないかもしれませんが、もともとめかぶとはこういうものなのです。ぼくはこのありのままのめかぶであることを非常に誇りに思っています」

「そうですか」

「で、坂本博士は?」

 めかぶコップは少し偉そうに言った。

「あいにく手が離せませんので」

「あなたはどういった方ですか?」

「博士の甥です」

 僕は言う。

「甥」

「はい」

「坂本博士は甘いものの大家でいらっしゃるとか」

「まあ、いやちょっと違いますけど」

 僕が答えるのを聞かずにめかぶコップは、

「このオレンジジュースがなくなりそうなんです、なんとかなりませんか」

 と言った。

「買ってきたらどうですか」

「市販品じゃ! だめなんです!」めかぶコップは叫んだ。「あらゆるものを試しました。どんなメーカーのオレンジジュースを足しても、ほんの一滴垂らしただけで非常に気持ち悪くなってしまうんです。だからぼくに合うオレンジジュースを教えてください」

「いや、そういうのはちょっと」

「お願いです!」

「たぶん、専門じゃないので・・・・・・」

 あまりの勢いのめかぶコップにうろたえていると、研究室の奥から、マサ、と僕を呼ぶ声がした。今行きます、と返事をして、めかぶコップを外に押し出しドアを閉めようとした。

「あっ坂本博士ですか! 今の方が!」

 めかぶコップは研究室の中をのぞき込もうとするが、いかんせんコップに描かれている顔のパーツの位置が低いので、僕の体に遮られて全く見ることができないようだった。

「じゃあ、この辺で、閉めますね」

「坂本博士、オレンジジュースを! 坂本博士!」

 めかぶコップは手足が短いのでドアを押し返す力がなく、僕は簡単にドアを閉めることができた。

 パソコンに向かっている坂本博士のところへ行く。坂本博士はオフィスチェアに座ったまま振り返り、僕に、決まったぞ、と言った。

「車で二十分ほどのところだ、急いで向かおう」

「近いですね」

「うん、近いところにした」

「適当ですね」

 僕は薄手の上着を着て、あちこちの戸締まりを確認し、壁に掛かっている車のキーをとって坂本博士に渡した。僕は運転免許を持っていない。

 坂本博士の黒いごつごつした車で、次に水底へ沈む予定の集落へ向かった。もちろん住民たちは自分たちの集落があけびチョコ菓子のために水に沈むことをまだ知らない。

街の外れにある研究所から、山の方へ進んでいく。道路の舗装がところどころはげていて、イノシシだか鹿だかなんだかの動物注意という標識があちこちに出ている。丘のような小さな山を越えると窪地が現れる。窪みというよりはすり鉢形だ。街の中心部が極端に深くて、車はすり鉢の中をぐるぐると螺旋状に下っていくことになる。ところどころガードレールのない箇所があり、僕は肝を冷やした。

 すり鉢の底には学校と団地と役場があった。ちょうど小学校の授業が終わった時間らしく、子どもたちが道路を走り回っていた。五、六人の子どもたちが遊んでいるようだった。

「住民はどのくらいいるんですか」

 僕は坂本博士に聞く。

「二千人くらいかな」

「結構多いですよ」

「うん」

 坂本博士と僕はその辺に車を停めた。坂本博士は車の荷台から異様に大きなメガホンを取り出して、おそらくメインの通りであろう道路の真ん中に立つ。車は一台も通っていない。

「あ、あ、聞こえますか」

 きいんと高い音が鳴った。坂本博士はメガホンの音量を調整する。

「みなさん」

 ハウリングを起こしてはいるが聞きとりやすい声で坂本博士は言う。

「この街は明日水に沈みます。貴重品を持って避難してください」

 遠くで鳥が鳴いている。

「もう一度言います」

「みなさん、この街は明日水に沈みます。貴重品を持って避難してください」

「えー、もう一度言います」

「この街は明日水に沈みます。貴重品を持って避難してください」

「以上です」

 坂本博士はメガホンの電源を切り、車の荷室にしまった。荷台の扉を閉めるとき、一軒のドアが薄く開き、髪の長い女性がこちらをいぶかしげに見つめているのがわかった。坂本博士は女性にお辞儀をしてから荷室の扉を閉めた。バン、と大きな音が鳴った。その音を合図にしたかのように、いくつかの家の窓が開いた。男性も女性もおじいさんもおばあさんもいた。みな僕と坂本博士の車を眺めていた。にらみつけているような雰囲気ではなく、ただただ眺めていた。車が走り出すと窓は一つずつ順番に閉まっていった。

 坂本博士と僕はテレビを見ていた。昨日の集落に薬品の混ざった水の流し込みが始まったのだ。中継車や中継ヘリコプターが何台も出て、これは大変な事態であるということを伝えている。大変だということばかりを強調し、どうして水が流し込まれているのかについてはどの局のどのアナウンサーもコメンテーターも説明をすることはなかった。

「ゆっくりですね」僕は言う。「水のはやさ」

「昨日のお知らせだけで全員がさっと逃げるわけないからな」坂本博士は言う。「浸水してきたら嫌でも逃げるだろう。そのために最初はゆっくり水を流すんだ」

「へえ」

 僕はヘリコプターから撮った揺れる映像を見ている。カメラをかなり限界に近いところまでズームにしてようやく、集落の地面に水が張られていっている様子が分かる。中継車は何軒かの家が床下浸水しそうだということを扇情的に訴える。ばあさんがこんなことははじめてだと泣き言を言う。はやく逃げた方がいいのに、と僕は思う。

 坂本博士はひじをついてテレビをじっと見ている。めかぶコップは丸椅子に座って真剣な眼差しをしている。

「めかぶ」

「はい」

 僕が呼ぶとめかぶコップはこちらを向いた。

「いつからいた」

「ずっといましたよ」

 めかぶコップは平気な顔で言う。

「ずっとって」

「昨日、車で出かけて、帰っていらしたときに、こう、すっと開け放されたドアから入りまして」

「じゃあ、今日、いままで、ここに泊まってたの」

「はい、おかげで寝不足です」

「めかぶは」僕は余計なことだなと思いながらも聞いてしまう。「どうやって寝るの」

「こうです」

 めかぶコップはコップについている目を閉じた。

「それだけ?」

「はい」

「楽でいいね」

「はい」

 僕は立ち上がって瓶を取りにいった。大きな瓶を取り出して、水を入れる。薬品を加えてガラス棒で混ぜる。あけびのチョコレート棒の三本扇形に並んだものがパッケージごと入っている瓶を持ってきて、蓋を開け、指でパッケージをつまみ上げ、新しく作った液体の入った瓶に移し替える。よく沈めてから新しい瓶に蓋をする。

「それはなんですか?」

 めかぶコップが聞いてくる。

「プラスチックの棒の先にあけびの形のチョコレートがついてるお菓子。棒を手に持って舐めやすいようになってる」

「なぜ水に漬けるんですか?」

「このあけびのチョコレートの棒が三本並んでパッケージングされているお菓子は、体に悪い物質を出すかもしれなくて、あと、衝撃を与えると爆発するかもしれないんだ」

「えっ」

 めかぶコップは後ろに数歩遠ざかって逃げ、実験用テーブルにぶつかった。瓶の中の液体が揺れた。

「そういうのが、あぶない」

「すすすすいません」めかぶコップは頭を下げた。オレンジジュースが揺れる。

「手で触っていいんですか?」

「まあ、大丈夫でしょ」

 僕が軽く言うとめかぶコップは首をつよく振る。オレンジジュースが揺れる。めかぶのかたまりもちょっと揺れる。

「とても危険なものを扱っているのにそんな態度でいいんですか」めかぶコップは続ける。「それに薬品が体に悪いものだったらどうするんですか」

「あ、それはそうだ」僕はうなずく。「手が荒れちゃう」

「荒れるどころじゃないかもしれませんよ」

「たしかに、今度から手袋しよう」

「そうしてください」

 めかぶコップは得意げだ。

 坂本博士はテレビを見ている。

 数日経って集落はすっかり水に沈んだが、マスコミの取材はまだ止まない。すり鉢状の集落の上で泣き崩れるじいさん、家を守れなかったと悔しがるおじさん、学校に行きたい、遊びたい、とだだをこねる子どもたち、ひとりひとりにテレビカメラはインタビューをしていく。昨日と一昨日と同じような回答が返ってくるが、そのことばをテレビ局は目立つ文字のテロップにして画面に映し出す。

 僕とめかぶコップは世間話をしていた。テレビでやっていることはずっと同じような内容で変化がなく、飽きてきて、たわいのない話をしては、ときどきあけびチョコ菓子の水替えをやった。僕はゴム手袋をしてあけびチョコ菓子のパッケージを掴むことにしたがそこまで意味が感じられず、また素手に戻して、めかぶコップにあぶないあぶないと何度も言われた。

 テレビを見ていた坂本博士に電話がかかってきた。坂本博士の代わりに僕が出た。

「坂本博士、あけびチョコ菓子の件です」

「わかった」

 電話に出た坂本博士は静かなトーンで話をしていたが、だんだん興奮し、ほとんど怒鳴るような状態になった。珍しいことなので僕とめかぶコップは聞き耳を立てた。

「五本なんてあり得るわけないだろう! いますぐ! いますぐ持ってきなさい!」

「いますぐだ!」

 電話を切ったあとも坂本博士ははあはあと肩で息をしていた。ぐったりとオフィスチェアに寄りかかった坂本博士は、棒立ちの僕とめかぶコップを見て、

「五本入りが見つかった」

 と言った。

「あけびのチョコレート棒の?」

「そう」僕のことばに重ねるように坂本博士は言う。「今まで見てきたあけびのチョコレート棒は三本で、扇形になるようにパッケージングされている。完全に開いた扇の形ではない、四割くらい開いた扇の形であることはわかるか」

「はい」

 僕はうなずく。あけびのチョコレート棒は、プラスチックの棒の根本を三本くっつけるようにして配置し、チョコレート部分を上方に並べることで、組体操の扇のような形にパッケージングされている。

「三本だったもの、それが五本あるのだ、チョコレート棒が、五本」

「・・・・・・大きな扇?」

「そう、大きく開いた扇の形になる」坂本博士は立ち上がる。「大きな扇形になったあけびのチョコレート棒がどのくらいの破壊力を持つのかは誰にもわからない。倍ですまない可能性も大きい。三倍、四倍、もしかしたら何乗、何十乗にもなるかもしれないのだ」

 めかぶコップはことばを失っている。僕は話が大きすぎていまいちぴんとこず、一周回って平常心である。

「だからちょっと頼む」

「え」

「行ってきてくれない?」坂本博士はアドレス帳を繰りながら言う。「今日のやつ」

 めかぶコップはテレビを指さして、

「これですか?」

 と言う。

「うん」

 博士は答える。「あけびのチョコレート棒、三本の、三本のあけびのチョコレート棒を忘れずによろしく」

「僕、免許持ってないです」

「めかぶくんが運転できる、大丈夫」

 証拠もないのに断言した坂本博士に驚いて、めかぶコップを見ると、にやりと笑って親指を立てグッドのマークを作った。こんなに短い手足で運転ができるわけないだろう。しかし坂本博士は新しい五本の方に夢中である。メールを書いたり調べ物をしたりとせかせか動いている。

「じゃあ、行ってきますね」

「頼んだ」

 坂本博士はパソコンのディスプレイに夢中だった。僕とめかぶコップは車に舟を積んだ。沈んだ街の真ん中の辺りまで舟で行って、そっとあけびチョコ菓子を水の底まで入れてやる必要があるのだ。

めかぶコップに車の鍵を渡すと、意気揚々と車に乗り込み、運転席でサイドミラーやあれこれを自分に最適な向きへ動かす作業をはじめた。僕はあけびのチョコレート棒がパッケージごと薬品の入った液体に漬けられている瓶を抱くように持つ。骨壺みたいだなと急に思う。めかぶコップは運転席を前方にずらした。運転席とハンドルの間にコップが挟まって動きがとれない形になる。

「大丈夫なの?」

「大丈夫」

 めかぶコップは短い手でエンジンのキーに手が届くかを確認した。なんとか届くようだった。姿勢をかなり下げ、オレンジジュースがこぼれないぎりぎりまで足下の方にコップを傾けることによって、短い足でアクセルやブレーキの操作が可能になっていた。

「前は見えるの?」

「見えません」

「大丈夫なの?」

「大丈夫です」

 車は動き始めた。めかぶコップはハンドル操作をコップを左右に揺らすことで行った。ブレーキも丁寧に踏んだ。実に乗り心地のよい運転をすることに僕は少し感心した。

「五本のやつは、どこに沈めるんだろう」

 完璧な運転をしながらめかぶコップはひとりごとのように呟いた。

「もっと広い、深い集落じゃない?」

「危ないからですか」

 めかぶコップは短い手をうまく使ってウインカーを出す。そしてスムーズに曲がる。

「うん、だってすごい威力かもしれないんでしょう」

「すごい威力、怖いですね」

「ね」

 僕は相槌を打った。

「おうちがなくなった人は、あの、沈められた街の人は」めかぶコップは言う。「どこに住むんですか?」

「知らない」

 僕はあけびチョコ菓子が入った瓶を抱き直して言う。めかぶコップはそれ以上なにも聞かなかった。

 水底に沈んだ街が近づくにつれて、マスコミの車が目につきはじめた。もう少し進んでいくと腕章を付けた男女が辺りを歩いていた。運転席にカメラマンや報道陣が近づいてきて、車の窓をノックした。めかぶコップは困った顔で僕を見たので、僕は首を振って、開けなくてよい、ということを伝えた。マスコミの言っていることは窓を開けなくともだいたい聞こえていた。関係者の方ですか、どういうおつもりですか、被害にあった方の気持ちを考えたことがありますか、コップが運転していいんですか、コップは免許を取れるんですか、コップの上に乗っているのはなんですか、など、後半はめかぶコップについての質問ばかりだった。

 車を降りるとマスコミがまた集まってきた。いろいろな質問、半分以上はめかぶコップについての質問、それらを僕は無視して、荷室から舟を取り出して水面に浮かべる。

 住んでいた街を水に沈められた人たちの声を聞いてください、とマスコミがおじいさんを僕のそばにぐいと押しつけた。おじいさんはぽかんとして、ことばが出なかった。

僕とめかぶコップとあけびチョコ菓子を入れた瓶は舟に乗った。

 めかぶコップが船をこいだ。陸の方ではマスコミが叫んでおり、カメラをズームにして撮影しているようであった。僕とめかぶコップは街の真ん中ほどまでやってきた。

「この、街を沈めた水にはもう薬品が入っているんですか」

「うん」

 僕は答える。

「砂糖水ですね」

「え?」

「砂糖水です、これ、砂糖を入れた水です」

 めかぶコップは水面を見つめてはっきりと言った。

「街をどっぷり沈めるだけの量の」

 僕は言う。

「砂糖水です」

 めかぶコップは断言する。僕は街を沈めている水に指を浸して舐めた。砂糖水の味がした。

「あのさ」僕は言う。「砂糖水でもよくない?」

「どうしてですか」

「たくさんの砂糖水に漬けとけば爆発しないんでしょ? じゃあ、いいじゃん」

「でも砂糖水ですよ?」

「じゃあなに水ならいいの」

「なに水・・・・・・」

 めかぶコップはしばらく悩んで、

「オレンジジュース」

 と答えた。僕はめかぶコップのコップに手を突っ込んで、残り少なくなったオレンジジュースに指を浸し、舐めた。擦りおろされていないめかぶが邪魔だった。めかぶコップのオレンジジュースはオレンジジュースではなかった。色付きの砂糖水だった。

「ぼくは救います」

 めかぶコップは真剣な眼差しで言う。

「なにを?」

「沈んだ街の人たちを、オレンジジュースで」

「ああ、え、うん」

「そして、めかぶで、まだ擦り下ろされていない本物のめかぶの力で」めかぶコップは僕の手を強く握った。「さよなら」

 めかぶコップは集落を沈めた砂糖水の中に飛び込んだ。めかぶが最初に沈んでいって、コップは空気が変に入ってなかなか沈んでいかなかった。オレンジジュースの色をした砂糖水がばっと水面の一部をオレンジ色にして、すぐに透明に戻った。

 僕は瓶からあけびのチョコレート棒三本がパッケージングされたものを取り出して放り投げた。しばらく水面に浮かんでいたあけびチョコ菓子は、前触れもなくぱっと沈んで見えなくなった。

 水に沈んだ集落の周りで住民の子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎ始めた。この水甘くておいしい、甘くておいしい、と言いながら子どもたちは何人も水の中へ駆け込んでいって、どっぷり沈みこみ、戻ってこなかった。

 

「だから、特に困ってることはないです」 

 水没している街に暮らす住民二世の女性は呆れ顔で言った。

「差別もないし、仕事もあるし、工場で作ったものの売れ行きもとてもいいです。きっとちょっと甘い香りがするからだと思います。それだけです。本当になにも困っていません」

 マスコミは、しかし、と続けようとする。

「いや便利ですよ。あんまり知らないですけど、みなさんがどうやって暮らしているか、でも困ったことはありません。もういいですか、セールの時間に間に合わないので」

 何のセールですか、とマスコミは聞く。

「あけびです」

 あけび?

「はい」

 ちょっとどうやって食べるか実演してもらえませんか?

「え、どうやってって」

 こう、あけびがあるようなイメージでやってもらえると・・・・・・。

「ええっ」

 水没した街に暮らす住民二世の女性はかなり嫌がったが、マスコミが引かないので、仕方がなくあけびを食べる動作の実演を始めた。

 少し割れ目の入った熟しかけているあけびを女性は想像している。厚い皮を力を入れて二つに割る。中から半透明の実が出てくる。半透明の食用部を女性は指で摘む。カメラがぐっと女性が半透明の実を持つときの動作をしているところへ寄ってくる。女性はそれに少し腹が立ち、種を手に取ってカメラのレンズにぶつける動きをした。カメラはその動きにますますズームする。女性は種をもう一つぶつけてやろうとして、指の中で種を潰した。髪の毛に塗ったとろとろのめかぶを撫でて、女性は水の中へ戻っていった。


#小説

ものを書くために使います。がんばって書くためにからあげを食べたりするのにも使うかもしれません。