ミニエッセイ:未来の見えない中での学び・経験

未来のための学びとは
未来の見えにくい状況の方と話をすることがたまにある。
そんな方にとっての学びとは何だろうと改めて考える
同時にそれは未来の見えていない自分にとっての学びのことでもある

時間
また、学びの効果がわかるのは数十年後、という視点もある。
丸山欣也氏の本『かたちの劇場』の中で内藤廣氏との対談が載っているが、そこでも吉阪隆正を例に出し、大学での学びが効いてくるのは40歳とかになってから、という発言もある。
長期的な視野に立った学び。禅的な発想からそれを突き詰めると、「今」のための学びになるのだろう。
何故かというと数十年後に役に立っていることは想像できないので、今考える未来のことを起点にするしかないためだ。
以前参加した高山建築学校でここではトム・ソーヤ的(遊びとしての行為)というよりロビンソン・クルーソー的(必要性に基づいた行為)なことをすることになるとある先輩から言われたことがある。そうなのかと思った記憶があるがそんな過去の経験も時間とともに、遊びだったか必要だったかの評価が変わったりするのだろう。

以前子どもたちのためのワークショップ活動について話していた際に、つらい状況の子ども達にとって、夢とか言っていても仕方ないという趣旨のコメントを頂いたことがある。
それは確かにそうかもしれない。
工作で空腹は満たせないし状況が即座に改善するわけではない。
そうした意味では他人の苦痛を取り去るということをしていない。
一方でそうしたコメントをされた方にとって、本当に夢とか必要でないと思っているかというとそうでもないのではないかと思っている。辛い現実を私よりも知っているであろうからそうしたことを言われたのであろう。

改めて未来の見えない中での学びとは
私は何かをしなければならぬと思ってとにかく動いたりジタバタしてしまうタイプの人間で、立ち位置を変えたり視点を変えたりしていく中で当面の見通しを立てたいということをしがちだ。
一方で過去の経験を踏まえるとそうしたことは、時折過去の自分(自分の目指していたもの(建築分野)、考え方そのもの、好きだったもの(小説・ゲーム等))の否定になってしまうことがある。
時間が移ろいゆく中で自分の培ってきた多様なものが浮き沈み、または振り子がふれるようなことをしてくると思うので、そうした心の動きを冷静に見つめたいと思う。
そんな中で、そもそも学ぶべきか、また何を学ぶべきか
ソクラテスでいうところの無知の知というか、学んでいない状態であるという認識をする限りにおいて、学んでも学ばなくても良いのだと思う。そうすれば本を読んだりしなくても生活のすべてがたとえそれば外出自粛の単調と思えるようなものであっても学びとか経験になるのだと思う。「目に映るすべてのことはメッセージ」の境地までいくのかもしれない。私の学びの考えは経験主義と言えるのだと思う。加えて大切なのは、経験を人と比べるということではなく自分なりの経験を大切にする、ということなのだと思う。

総合すると、大人であっても子どもであっても、すべてのことは学びにつながるしそれは様々な形を取る。
なので未来の見えにくい方に学んでほしいというのはある意味私の認識違いで、すでに学んだり経験したりしているのかもしれなかった。

関連しそうな本
日高敏隆『春の数え方』 自然の楽しみ方を知ろうと、でもこんなに虫とか鳥の名前とか覚えられない、と思いながら読んだ本。

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