見出し画像

ブレヒトの詩「抒情詩にとって悪い時代」―僕の詩が韻を踏むとしたら

ヒトラー内閣が発足したのが1933年1月30日。およそ1ヶ月後の2月27日に、ドイツの国会議事堂放火事件が発生する。ナチスはこれを口実に共産主義者の弾圧を開始する。

共産主義者であったブレヒト(1898-1956)は、放火事件の翌日(すばやい!)、妻子を連れて亡命する。プラハ、ウィーン、チューリッヒを経て、デンマークに落ち着く。詩「抒情詩にとって悪い時代」はそこで書かれた。1939年の初め、第2次世界大戦が始まる前だ。

ここではこの詩を訳し、解説を加える。

■ヨジロー訳

  抒情詩にとって悪い時代

        ベルトルト・ブレヒト

僕だって知ってる 
幸せな人だけが好かれるってこと 
その人の声は耳に心地よく その人の顔はきれいだ

庭の木がねじくれているのは 
土が悪いせい でも 
そばを通る人たちは毒づく 「できそこない」と 
それももっともだ

緑色の船と 海峡をわたる陽気な帆は 
僕には見えない 真っ先に見えるのは 
漁師たちの破れた網だけ 
どうして僕は 
腰の曲がった四十歳の百姓女のことばかり語るのか
少女たちの胸は 
昔と変わらず温かいのに

僕の詩が韻を踏むとしたら 
ほとんど不遜なことに思われる

僕の中で互いに争っている
満開のリンゴの木への賛嘆と 
へぼ絵描きの演説への戦慄 
でも後の方だけが 
僕を机に向かわせる

■語句の説明

海峡――デンマークのスヴェンボー海峡(Svendborg Sund)のこと。

へぼ絵描き――ヒトラーのこと。ヒトラーは、ウィーン美術アカデミーを二度受験したが、二度とも不合格だった。その後、絵はがきを書いて生計を立てていた。

■解説

第1連を読むと、反論したくなる。「幸せな人だけが好かれるってこと」という部分にだ。いや、そんなことはないだろう、と。

しかし、第2連を読むとブレヒトの意図がわかる。ブレヒトが問題にしているのは、社会環境のことだ。

ねじくれた庭の木(=リンゴの木)を見て、人は「できそこない」と毒づく。しかし、木がねじくれているのは「土が悪いせい」だ。土壌が問題なのだ。

同じように、裕福な家庭で育った人は幸福であり、人から好かれる。なぜなら、「その人の声は耳に心地よく その人の顔はきれいだ」からだ。

悪態をいつも耳にし、自分もまたきつい言葉を投げつける――そういった環境で育ったことのない人は、やさしい、きれいな声をしている。栄養を十分に摂取して育った人の顔はなめらかだ。憎悪の表情を浮かべる必要のなかった顔は美しい。

ブレヒトは共産主義者だった。演劇によって世界を変えることを目指していた。

共産主義の考え方は、社会環境が人間を作る、というものだ。だから、人を幸福にするために、まず社会を変えようとする。貧乏で不幸なのは本人のせいではない。個人の努力が足りなかったからではなく、最初の出発点が不平等だったからだ。そう考える。

だが、世間の人は土壌のことを考えずに、見た目で判断する。「できそこない」と。結果がすべてだ。

ブレヒトはそのような世間に対してすぐに憤るかというと、そうではない。「それももっともだ」と、いったん世間の人の見方を受け入れる。だが、のままでいいと思っているわけではないことが以下の連よりわかる。

第3連が描いているのはどこの景色か。

「海峡」は、デンマークのスヴェンボー海峡のことだ。

ブレヒトは亡命地の家(★注)から海峡を眺めている。そこを通り過ぎていく緑色の船や「陽気な帆」が見える。「陽気」というのは、揺れる帆をそう感じたのだ。

いかにも海峡らしい、穏やかで明るい眺めだ。きっと裕福な人々を乗せた客船と、個人所有のヨットなのだろう。

ブレヒトは「見えない」と言っているが、もちろん見えている。見えているから「緑色の船」、「陽気な帆」と言っている。だが、ブレヒトが気にするのはそちらよりも、「猟師たちの破れた網」の方だ。猟師たちの貧しい生活の方だ。

そしてまた、「腰の曲がった四十歳の百姓女」のことだ。

本当はブレヒトが語りたいのは、若い女の子たちのことだ。「胸」は「乳房」とも訳せる。つまり女の子たちと愛し合い、そのことを友達と語りたいのだ。しかし、過酷な農作業によって腰の曲がってしまった百姓女のことがどうしても気になってしまう。

第4連は、それまでとは打って変わって、詩について語られる。

「猟師たち」や「百姓女」の厳しい生活を思いながら、自分がしていること、つまり詩を書くことを省みたのだ。

「韻を踏む」詩などとても書けない、そんなことをするのは「ほとんど不遜なこと」だ、と感じる。

韻を踏む詩とは、抒情的な恋の詩だ。恋する少女のことを歌う詩だ。そのような詩を書こうとして、韻を踏ませることに精出すこと――そんなことは、猟師たちや百姓女を見ていたらとてもできない、と思う。

ではどのような詩を書いていくのか。それを語っているのが第5連だ。

「満開のリンゴの木」――これはたとえば、若々しい少女たちのことだ。ブレヒトにはそれを「賛嘆」したい気持がある。愛を歌いたい気持ちがある。しかし「へぼ絵描きの演説」、つまりヒトラーの演説への戦慄もある。この両者が相争いながら自分の中に存在している。

その上で、自分を「机に向かわせる」のは、つまり自分が詩で表現したいのは後者であると言う。韻を踏む美しい抒情詩ではなく、社会的リアリズムの詩、社会問題を主題にした詩なのだ、と最終的に確認している。

題名は「抒情詩にとって悪い時代」となっている。素直に抒情詩が書けるような時代であってほしいが、残念ながら今はそのような時代でない。自分は自分が書かなければならないと思うことを詩に書いていくのだ。それがごつごつしていて詩には見えなくても、だ。

ブレヒトは、静かに、しかししっかりと、自分のすべきことを再確認している。

■おわりに

異国でのままならぬ亡命生活、どんどんひどくなっていく時代――ブレヒトも少し気弱になることがあっただろう。

そんな中で、あ~だ、こ~だと考え、自分に問いかけ、詩人としてどうしたらいいのかと悩み、最後には一つの結論を出している。書くことで、自分を再び奮い立たせている。

声高に自分の主張を他者に向かって訴えるものではない。頭の中でつぶやいていることをそのまま言葉にしたような詩だ。だからこそ、逆に読者を力づけるところがある。

■注

★注:ブレヒトはデンマークで、スヴェンボー海峡を望む地に家を購入した。ドイツのWikipediaの"Bertolt Brecht"の項目に写真が掲載されている。農家のようだ。

■参考文献

Bertolt Brecht: Werke, Band 14, Gedichte und Gedichtfragmente 1928-1939, Suhrkamp Verlag, 1993, S. 432

森泉朋子編訳『ドイツ詩を読む愉しみ』鳥影社、2010


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?