寺山修司の短歌「海を知らぬ少女の前に」
翳りのない明るい歌だ。寺山修司の歌では、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」に次いで有名なのではないか。
■語句
ひろげていたり――「広げ続けている」。「広げている」+「たり」。「たり」は存続(~している)を表わす助動詞。
■解釈
「われ」は少年。季節は夏だ。
海を見たことがないと言う少女。少年は海の大きさを教えようとして両手をいっぱいに広げる。こんなに、こんなに大きいんだよ、と。
単に言葉で「とっても大きいんだ」と言うのではなく、両手を思い切り広げて、体全体で海の大きさを伝えようとしている。少年は大きな海が大好きなのだということがわかる。
そして少年はその少女も好きだから、海の大きさをどうしても伝えたいと思っている。自分の好きなものを、好きな人にも好きだと思ってもらえるように。その精一杯の少年の気持がにじんでいる。初々しい。おぼろな初恋のイメージだ。
「われ」は少年だが、歌の詠み手は大人だ。少年時代の自分をまざまざと思い出しているので、「広げ続けている」と臨場感あふれる表現となっている。単に「広げていた」「広げたことがあった」と過去の一体験にしてしまうと、読者に訴える力が弱まってしまう。
ところで、二人のいる場所はどこか。どのような状況なのか。これについては人さまざまだろう。僕の場合はこんなふうになるか。
田舎に住む少年。近所の家に、都会から親戚がやってきて、しばらく滞在している。少女とその両親だ。少年は少女と話すようになる。少女は海を見たことがないと言う。自然児の少年は少女に海の大きさを伝えようとする。
■さまざまなコメント
◆俵万智:1987
俵万智は大学時代、教室の机に書かれていたこの歌を、誰の作とも知らずに読んだ。そのときの驚きを次のように語っている。
◆穂村弘:2011
穂村弘もこの歌に大きな衝撃を受けたことを告白している。
◆『名歌名句大事典』:2012
「やや得意気に」というのはまさにそのとおりだ。
◆葉名尻竜一:2012
◆永田和宏:2014
永田は一般的な解釈を示しつつも、自分が初めてこの歌を読んだときにどう思ったのかを、次のように記している。
◆千葉聡:2020
◆サイト「短歌の教科書」:2020
◆サイト「短歌のこと」:2021
■おわりに
寺山修司は『寺山修司少女詩集』の「海を見せる」で、この歌を冒頭に紹介し、
と述べている。ただ、これが歌の成立状況を語っているとはとても思えない。
「海を見せる」の続きは次のようになっている。
少女が海の青さを信じないので、「ぼく」はバケツに海の水を、「なかでも一番青い部分」を汲んでくる。そして「これが海だ!」と言うが、「バケツに汲まれた海」は青くない。「ぼく」は少女から「うそつき!」と非難される。返す言葉もなく、ただ「さっきまでは海だったのに!」と言うばかり。
「海を見せる」自体が一つの作品となっており、そのために自分のかつての歌を利用したにすぎないだろう。
「海を知らぬ」の歌がうたっていることも、寺山の実体験ではないのではないか。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。僕たちは、それが実際にあったかどうかではなく、寺山が作りあげた虚構の世界に惹かれるのだから。
■参考文献
◆テキスト
『われに五月を』日本図書センター、2004
◆文献
久保田淳・長島弘明編『名歌名句大事典』明治書院、2012
俵万智『よつ葉のエッセイ』河出書房新社、1988
千葉聡編『はじめて出会う短歌100』短歌研究社、講談社、2020
永田和宏『現代秀歌』岩波新書、2014
葉名尻竜一『コレクション日本歌人選040 寺山修司』笠間書院、2012
穂村弘「解説Ⅱ 透明な魔術」、『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011
サイト「短歌の教科書」、2020年2月23日
https://tanka-textbook.com/umiwosiranu/
サイト「短歌のこと」、2021年7月15日
https://tankanokoto.com/2018/10/terayama.html
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