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萩原朔太郎の詩「天景」―しずかにきしれ四輪馬車

詩人の小池昌代の『詩を読んで生きる 小池昌代の現代詩入門』で、萩原朔太郎の「天景」という詩を知った。

小池も言うように、朔太郎と言えば、ちょっと気味の悪い詩を書く詩人というイメージが強い。「天景」はそれを覆す、明るく、読んでいてわくわくしてくる詩だ。

詩集『月に吠える』に収録されている。

■萩原朔太郎「天景」

しづかにきしれ四輪しりん馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥ぎょちょうの天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

■語句

しづかに――しずかに。

きしれ――「軋れ」。「軋る」は、堅いものが強くこすれ合い、音を立てる。

■解釈

なんてひきしまった詩だろう。凛としている。う~む。朔太郎はやはりすごい。

「しづかにきしれ四輪馬車」――詩全体が七五調で統一されているようなので、「四輪」は「よんりん」ではなく、「しりん」と読むようだ。そうすれば「しづかに」と「きしれ」と「しりん」と「ばしゃ」の「し」が小気味よく響く。那珂太郎や小池昌代もそう述べている。

同じ理由で、「光る魚鳥の天景を」の「魚鳥」も、「うおとり」ではなく「ぎょちょう」と読むのだろう。それで七五調になる。音読みのほうがきりっとしている。

「きしれ」「むぎは」「とおき」「ぎょちょう」「あおき」などの「き」音も、また「しづかに」「ほのかに」「あかるみて」「ながれたり」などの「か」「が」音も響き合っている。それで全体がきりりとひきしまって調子よくなっているのだろう。

ところで、「しづかに」と「きしれ」は本来は結びつかない語だ。「きしる」は「こすれ合って音を立てる」という意味だから、「きしれ」は「音を立てよ」という意味だ。それなのに、「しづかに」と言っているからだ。

つまり、「しづかにきしれ」は異化表現だ。なぜこのような表現になっているのか。

僕には馬車が天を駆けているように思える。馬車が地面を走るときのように音は立てない。しかし、馬車には疾走してほしい。だから「しづかにきしれ」なのではないか。

詩人はどこにいるのか。下からその天を疾走する馬車を見上げているのか。いや、詩人はその馬車に乗っている。

「ほのかに海はあかるみて、/麦は遠きにながれたり」――詩人は上方から世界を眺めている。海と陸地の麦の両方を見晴るかしている。

時刻は明け方だ。海が遠くのほうから明るくなってくる。陸地にある麦が少しずつ黄金色に輝き始める。それを、麦が「流れる」ように見えると表現している。海の波と陸の麦の流れが呼応している。季節はおそらく初夏。麦秋だ。海が明るみ、麦が黄金色に輝く――色も呼応している。海と麦の眺めは水平軸。

「光る魚鳥の天景を、/また窓青き建築を」――海の向こうが少しずつ明るくなってくる。しかし、世界の半分はまだ夜だ。濃紺の天には星座が輝いている。「光る魚鳥」とはその星座のことだろう。そして下の方を見渡すと、建物が見える。その窓はまだ青い。天の紺色が反映しているからだ。――ここでは上と下の垂直軸の眺めとなっている。

馬車に乗って、詩人はわくわくしながら水平に海と陸を見渡し、上下に天地を見渡している。世界全体を眺めている。まだ人間が活動を始めていない美しい世界を、一人馬車に乗って天空を駆けているのだ。

■さまざまな解釈

と、解釈してみたが、他の人たちはどう受け止めているのだろう。

◆小池昌代

幾度も、「しづかにきしれ四輪馬車」が出てきますが、そのたびに、四輪馬車は、少しずつ、ずれながら、天へ向かって上昇しているのです。

小池もまた、馬車は空に向かって上昇していると見ている。

麦畑の麦が風になびいて、ながれています。魚も鳥も光をあび、光っている。そういう自然の天然の風景のなかを、馬車が走り抜けていくのですが、「また窓青き建築」という固い言葉の羅列が、都市を暗示させ魅力的です。人間がどこにもいません。しかし、窓のなかに黒いシルエットの人間が見えます。

小池は夜明けではなく、白昼の光景と見ているようだ。だが、魚はどこにいるのだろう? 海の中を泳いでいる魚は上空からは見えないだろう。魚は飛び跳ねているのか?

ちなみに、窓の中に「黒いシルエットの人間」が見えるというのは独特の発想だ。小池はこれを萩原朔太郎と考えているのだろう。

◆『日本近代文学大系37』(久保忠夫の注釈)

「天景」は(……)当時、白秋傘下で用いられた例をみると、晴天の景色の意味に用いられている。「光る魚鳥の天景を」は鳥飛び魚泳ぐ快適な景色の中を、の意。白秋の『白金ノ独楽』の「魚」に、「光リカガヤク天景ヲ」の一行がある。

そうか、やっぱり白昼なのか! また、久保は、特に馬車が空に舞い上がっているとは考えていないようだ。でも馬車が地上を走っているとすると、「魚泳ぐ」ってどうなんだろう。魚は馬車から見えるのか? 気になるなあ。

「窓青き建築を」については、

ロマンチックな夢を感じさせる窓のある建物のあたりを。

と注がある。つまり窓ガラス自体が青い色をしている建物もあると考えている。

◆萩原朔太郎自身の言葉

前橋文学館」のサイトを見ると、この詩について朔太郎自身が次のように語っているとある。

初夏の明るい光に輝いた自然を、軽快な四輪馬車の幻想に表象して、一種の浪漫的なノスタルヂアを歌ったもので、徹底的に明朗爽快の詩である(……)(詩論「詩の音楽作曲について」)

やはり夜明けではなさそうだ。「魚」については何も述べていない!

◆木村幸雄「朔太郎・中也における〈空〉と〈天〉」

研究者の論文を読んでみる。

この作品のなかでは、〈幻想的空間〉としての天界を〈光る魚鳥〉が飛び、やがて四輪馬車も軽快に地上を離れ、〈天〉へと浮かび上がって行く様子が眼に見えてくるようである。

なるほど、「幻想的空間」なのだ。魚は海にいるのではなく、鳥と同じように空中を漂っているのだ。

木村はさらに、『日本近代文学大系』の注釈が挙げていた北原白秋の詩集『白金之独楽』の「魚」という詩に「光リカガヤク天景ヲ/燦爛さんらんうお飛ビユケリ」という詩句があることを指摘し、次のようにまとめる。

そして、白秋の方がわずかに先行しているとはいえ、これらの作品がほぼ同じ時期に制作されていることからすれば、白秋と朔太郎とは、近代詩の詩的空間を〈幻想的空間〉へと拡大することにおいて、相互に触発し合い、影響し合っていたと考えてよいだろう。

なるほど!

◆木俣知史のサイト

魚が空を飛んでいることを裏づけるおもしろいサイトがあった。「表現急行2 文学と美術の研究ノート 古本日記 空を飛ぶ魚」だ。

木俣によれば、白秋の詩集『白金の独楽』の口絵(白秋自作)に、空を飛ぶ魚と鳥が描かれているとのこと。また、朔太郎の『月に吠える』の口絵(田中恭吉原画)にも鳥と、魚のようなものが見られるとのこと。木俣は、「魚が空を飛ぶという表現は、萩原朔太郎やその周辺では、共有されたイメージであった可能性がある」と述べ、それは「現実を反転させる幻想世界のシンボル」であったとしている。

う~む、奥深い。

◆小川和佑『詩の読み方』

以上、

・夜明けか、白昼か
・馬車は空を飛んでいるのか、それとも地上を走っているのか
・魚はどこにいるのか

の三点について見てきた。僕の夜明け説はあまり支持されていない。でも小川和佑の『詩の読み方』を読むと、少し力づけられる。

「ほのかに海はあかるみて」を読むことで、この馬車が薄明の広い空間を背景にシルエットとなって浮かびあがる仕掛けになっている。

そうだ、思い出した。「ほのかに海はあかるみて」があるから、僕も夜明けと思ったのだった。でも小川は、馬車はやがて「明るい空間に出る」と言う。

(「麦は遠きにながれたり」は)麦畑の中を馬車が行く、その遠景に黄金色の麦の穂がどこまでも波うちうねり、光に輝いて、それは流れ去る川のように見えるという意味である。薄明から一転して、外光の溢れる明るい空間に出る。

夜明の薄明は光り輝く空間へと移ると見ている。この詩が描くのは、「現実では考えられない妄想」なのだ。

「光る魚鳥の天景を」については小川はどう述べているのか。

空に鳥が光りながら飛ぶということはわかる。しかし、魚や鳥が光りながら飛ぶというのは新しいイメージの発見である。

小川も幻想的世界と見ていることがわかる。だから魚は飛んでいてもいいのだ。

ところで小川は、馬車は空を飛んでいると考えているのか。

馬車は青い窓々をちりばめた高い建築の間を通っていくという。馬車はいつの間にか地上でなく、空中に浮かんでいる。

小川の場合は、途中から馬車が空中に浮かび上がる。しかし、それほど高いところを飛ぶわけではにない。建物の間を縫うように進んでいくのだ。

■おわりに

いろいろ調べた結果、夜明けの光景が描かれており、魚鳥は星座であるとする僕の解釈が大きく揺らいでしまった。

しかし、空飛ぶ魚が北原白秋や萩原朔太郎らに「共有されたイメージであった」ことを知らず、一読者として詩だけを読むとき、魚が空を飛んでいるなんて思いつかないのではないか。まあ、幻想的な世界とすぐに理解する人もいるようだが……。

僕自身は、研究が何を言おうと、また朔太郎自身が何と言おうと、自分の解釈も悪くないのではないかと思う。でも、ちょっと心が揺らぐのも感じる。朔太郎に助けを求めよう。

近頃の俳壇には、作者以外の人の評釈は、一切無用だといふような議論さへも有るやうだが、詩歌の面白味といふものは、読者によつて異なつた別々の解釈をする所に、そのシンボリズムとしての意味があるので、作者はむしろ註釈せず、一切黙って読者に任す方が好いのである。なぜなら、詩歌の作者といふものは、自分の書いたことに対して、自分で「全体の意味」を知らないからである。(……)つまり文学といふものは、作者が書こうと意図した事以外に、多くの無意識の月暈げつうんがかかって居るので、そこに却って事の本質があるのである。特に就中なかんずく詩歌はさうである。詩の最も善き解釈者は、常に作者でなくして読者である。作者は夢遊病者のやうなものであつて、自分の書いた事について、自分で認識を持たないのである。

(新潮社版『萩原朔太郎全集』第4巻「俳句の解釈について」、川崎『分析批評入門』118頁参照)

そうだ、読者は好きなように解釈していいのだ。

■参考文献・サイト

『萩原朔太郎全集』第6巻、筑摩書房、1987

『萩原朔太郎全集』第4巻、新潮社、1960

久保忠夫の注釈、『日本近代文学大系37 萩原朔太郎集』、角川書店、1971

小川和佑『詩の読み方――小川和佑近現代詩史』笠間書院、2015

川崎寿彦『分析批評入門』至文堂、1967

木村幸雄「朔太郎・中也における〈空〉と〈天〉」、『福島大学教育学部論集 人文科学部門』36、1984、pp. 1-14

小池昌代『詩を読んで生きる 小池昌代の現代詩入門』(NHKカルチャーラジオ)、NHK出版、2011

那珂太郎『名詩鑑賞 萩原朔太郎』講談社学術文庫、1979

木俣知史のサイト「表現急行2 文学と美術の研究ノート 古本日記 空を飛ぶ魚」
http://hyogenkyuko.seesaa.net/article/443572432.html

前橋文学館のサイト「萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館」
https://www.maebashibungakukan.jp/blog/3903.html


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