見出し画像

カフカの『変身』の主人公ー「毒虫」から「虫」へ

カフカで最初に読んだのは『変身』だった。高橋義孝訳の新潮文庫、昭和49(1974)年発行の第38刷だ。

冒頭は次のようになっている。

 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。(新潮文庫『変身』、高橋義孝訳、1974年38刷、初版1952、改版1966)

ところが、あるとき新しく新潮文庫を買ってみると、次のように変わっていた。

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。(新潮文庫『変身』、高橋義孝訳、2013年109刷、初版1952、改版1985)

1985年に新たに改版されたようだ。「グレゴール」が「グレーゴル」に、「毒虫」がただの「虫」になっている。

ちょっとショックだった。最初になじんだものが変わっていくのはさびしいものだ。さびしいだけでなく、ちょっと腹立たしくもある。

なぜ、こんなふうに変わったのかが気になる。

「グレゴール」が「グレーゴル」に変わった件については別に書くことにして、ここでは「毒虫」が「虫」になった件について見ていく。

原語のドイツ語では?

「一匹の巨大な毒虫に」は、原文のドイツ語では zu einem ungeheueren Ungeziefer だ。

「毒虫/虫」に相当するのは Ungeziefer(ウンゲツィーファー)。ただこの語は、その直前にある ungeheueren(ウンゲホイエレン=巨大な、すさまじい)という形容詞と頭韻を踏んでいる。二語合わさって、おどろおどろしさをかもし出している。実に巧みな表現だ。

辞書ではUngezieferは、

「害虫(のみ・しらみなど)、有害な小動物(ねずみなど)」(アポロン独和辞典)

「害虫、害獣」(アクセス独和辞典)

「有害小動物(ネズミ・ゴキブリ・ノミ・シラミ・ナンキンムシなど)、特に害虫」(小学館独和大辞典)

「(寄生する)害虫・害獣(シラミ、ナンキンムシ、ダニ、またネズミなど)」(DUDEN独独辞典、ヨジロー訳)

となっている。「害虫」というのが一般的な意味だ。

どうして Ungeziefer を単純に「害虫」と訳さず、「毒虫」としたのか。そもそも誰が最初に「毒虫」と訳したのか。

諸家の訳

調べてみようと思って、手もとにある訳書や近くの図書館にある本から『変身』冒頭の文を書き出してみた。

17冊の訳書の冒頭文を書き出したところで、ネットに次のサイトがあることを知った。

カフカの『変身』の"冒頭文"の邦訳と英訳のリストです‼️

『絶望名人カフカの人生論』で有名な頭木弘樹かしらぎひろき氏のブログだ。そこで岡上容士おかのうえひろし氏がこれまでの『変身』の訳書の冒頭文を徹底的に調べ上げている。

すごい! とにかくすごい! 僕の集めたちゃちなリストが一気に吹っ飛んでしまった。

感謝しつつ、参考にさせていただこう。

◆訳語の頻度数比較
2021年10月10日現在、岡上リストには全部で34の訳書の冒頭文が掲載されている。これらの訳書で Ungeziefer がどのように訳されているのかを頻度順に見てみると、次のようになる。

毒虫:16
虫:13
害虫:2
甲虫:1
異様な姿:1
ウンゲツィーファー:1

「毒虫」が圧倒している。「虫」も同じように好まれている。これが二強だ。

辞書で Ungeziefer の訳語としてもっとも一般的な「害虫」と訳しているのはわずか2書である。

原語の Ungeziefer をカタカナ表記にして「ウンゲツィーファー」と訳しているのは、日本とドイツの両国で活躍する作家の多和田葉子だ。

頻度順ではこのようになる。では、通時的にはどのような傾向が見られるのか。それを次に見ていこう。

最初に「毒虫」と訳したのは?

頭木ブログや岡上リストを見ると、日本で最初に『変身』を訳したのは、高橋義孝のようだ。1952年6月号の文芸誌「新潮」に掲載されている。

ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。(高橋義孝 [1952.6])

そして7月28日にはもう、新潮文庫の一冊として『変身』が出版されている。

二日遅れの7月30日には、角川文庫の中井正文訳が出ている。以下、山下肇訳(1958)、原田義人訳(1960)と続く。

高橋訳(文芸誌でも新潮文庫でも)と中井訳の作品タイトルは『變身』と旧字体になっている。おそらく「毒虫」も「毒蟲」と表記されていたのだろう。1953年発行の新潮社版カフカ全集の高橋訳が「毒蟲」となっているからだ。

それはともかく、最初に「毒虫」と訳したのは高橋義孝で間違いないようだ。

いつ「虫」に変わった?

高橋訳の「毒虫」の影響は大きかった。その後のさまざまな訳者が「毒虫」と訳すようになった。

「毒虫」を「虫」に変えたのも、やはり高橋義孝だ。1969年5月発行の集英社版『世界文学全集56』で、「一匹の巨大な虫」となる。

ただ、新潮文庫で「毒虫」が「虫」に変わるのは1985年の改版においてようやくのことだ。

高橋が1969年に「虫」としてから以降は、「虫」と訳されることが多くなっていく。城山良彦訳(1974)、片岡啓治訳(1976)、池内紀訳(2001)、丘沢静也訳(2007)、浅井健二郎訳(2008)、野村廣之訳(2011)、川島隆訳(2012)、真鍋宏史訳(2013)、須田諭訳(2015)、田中一郎訳(2018)だ。

こうして並べてみると、古い版をそのまま出版している場合を除いて、近年はほとんど「虫」で定着していると言える。

ただこの間、「毒虫」「虫」以外の訳がなかったわけではない。神品友子(1969)が「害虫」と、種村季弘(1979)が「甲虫」と訳している。しかし、追従者はいなかった。

そして、2015年には多和田葉子が、驚くべきことに「ウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚(けが)れた動物或いは虫)」と原語のカタカナ表記にした。カッコで説明を付け加えているが、これは Ungeziefer の語源的な意味だ。

毒がないから?

「毒虫」が「虫」に変更されたのは、おそらく『変身』の虫には毒があるとはされていないからだろう。

「毒虫」を辞書で引くと、

毒液をもっていて、人体に害毒を与える虫。ハチ・ドクガ・ムカデ・サソリなどの類。(デジタル大辞泉)

①毒を持ち、人を害する虫。ムカデ・サソリ・イラムシなど。②転じて、忌み嫌われる人物。(広辞苑)

となっている。

大辞泉や広辞苑の①の意味なら、明らかにグレゴールには当てはまらない。ただ、広辞苑の②の意味ならぴったりだと言えなくもない。

グレゴールはどのような存在?

作品中においてグレゴールはどのような存在として描かれているか?

・巨大な甲虫こうちゅうで殻がある。
・人に嫌われ、近寄るのを嫌がられる存在。
・家族の寄食者として生きている存在。厄介者。
・どんな登場人物よりも攻撃性の薄い存在。

だいたいこんなところだろうか。つまり、見た目は恐れられ、忌み嫌われるが、実際には助けがなければ生きることもできず、攻撃されても這いずって逃げることしかできない、弱々しい存在だ。

どう訳したらいいのか?

以上を踏まえて、Ungezieferをどう訳したらいいのかを考えてみよう。

毒虫
高橋義孝の「毒虫」という訳語が読者に与えたインパクトは大きかったと思われる。ただの「虫」とはまったく違う。

高橋がなぜ Ungeziefer を、辞書の普通の意味である「害虫」と訳さなかったのかはわからない。

ただ、「害虫」では恐れの対象とならない。人間から見下されて、単に退治すべきものと見られるだけだ。一方、「毒虫」ならば、人間の側が恐れる。

ドイツ語の Ungeziefer には、日本語の「害虫」や英語の vermin(害虫)にはない迫力がある。おどろおどろしさがある。発音するだけでおぞましい感じがする。Un-(ウン)が地の底から響いてくるようだ。しかも、ungeheueren Ungeziefer と un- が二つも連なっているのだ。高橋義孝はその迫力を表したかったのかもしれない。

しかし、グレゴールが誰かを攻撃することがまったくないことを考えると、「毒虫」とまでされるのはちょっと行き過ぎかと思う。「毒虫」では強すぎるだろう。それに、読者に毒があるという先入観を与えることになってしまう。

虫、甲虫
とはいえ、「虫」や「甲虫こうちゅう」ではあまりに漠然としている。人間に肯定的な印象を与える虫、つまり、かわいい虫、きれいな虫、ほしい虫もいるからだ。

人間に恐れられ、嫌われる虫というのが、『変身』の主人公のイメージのはず。「虫」だけでは読者に与える衝撃が半減、いや三分の一くらいになってしまう。

害虫
毒虫でもない、単なる虫でもない、その中間となるとこれだ。辞書的な意味にも合致している。でも、上に書いたように、ちょっとぱっとしない?

ウンゲツィーファー
多和田葉子は、Unigeziefer は日本語には訳せない、と割り切って、思い切って原語のカタカナ表記にしたのだろう。

ただ、日本語にするのを諦めてしまったような気がする。このままでは読者に理解されないので、語源を説明として付け加えたが、それでは特定の解釈の方向性を示してしまうことにならないか。

ゴキブリ
誰も実行している訳者はいないが、いっそのこと「ゴキブリ」と訳すのはどうか。

英語の Wikipedia の項目 The Metamorphosis では、「大衆文化や小説の改作では、一般にゴキブリ(cockroach)として描かれています」とある。

家の中でガサゴソしていて、人間に嫌われている。

しかし、ゴキブリにはグレゴールの重要な特徴である硬い殻がない。それに、ゴキブリは日本ではあまりにも特殊な印象を呼び起こす。「ゴキブリ」では本を開いて最初の1文を読んだ人の誰もがすぐに閉じてしまうだろう。使わないほうが無難だ。

こう訳すのはどう?

本当に悩ましいことだ。諸家の苦労がよくわかる。しかし、ここまで書いてきたのだから、僕もどう訳したらいいのかを考えてみよう。

むし
思い切って、旧字の「蟲」を使うのはどうだろうか。この字だけでおどろおどろしさが出る。漢字の特性を活かすのだ!

ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大なむしに変わっているのを発見した。(ヨジロー訳)

Ungezieferは『変身』では1回しか出てこないので、ここだけ「蟲」として読者をたじろがせるのだ。

しかし、巨大な虫なのに「蟲」では小さな虫が何匹もいるような感じだ。「巨大な」とそぐわないような気もする。

毒々しい虫

Ungeziefer を一語で訳さず、形容詞を付けて2語で訳すのはどうだろう。例もある。「薄気味悪い虫」(浅井健二郎訳)、「気味の悪い虫」(野村廣之)、「おぞましい虫」(真鍋宏史)、「身の毛がよだつような虫」(田中一郎)だ。

「毒々しい虫」、「嫌らしい虫」、「ぞっとするような虫」、「おどろおどろしい虫」なども考えられる。

ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な、毒々しい虫に変わっているのを発見した。

「毒々しい虫」なら、実際に毒がなくても大丈夫だ。それにこれなら、これまで「毒虫」と訳してきた長い伝統(!)を受け継げる。

ただ、「一匹の巨大な、毒々しい虫」という表現がちょっと冗長だ。「一匹の巨大な毒虫」というすっきりした表現にはとても及ばない。

それに、「毒々しい」もまだ毒が強すぎるような気がする。

▲おどろおどろしい巨大な虫
そして決定したのが以下の訳。

ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中でおどろおどろしい巨大な虫に変わっているのを発見した。(ヨジロー訳)

何匹にもなることはないから「一匹の」はいらない。また、「おどろおどろしい」と「巨大な」を入れ替えたほうが読んでいて調子がいい。

さらに、「おどろおどろしい」の「おどろ」を二回繰り返すところは、ungeheueren Ungeziefer の unge- の頭韻にちょっとだけかすっている?

ただ、「おどろおどろしい」ではちょっと弱いような気もしてくる。他の訳者のように「気味の悪い」とか「おぞましい」とかのほうがいいだろうか。

本当に悩ましいことだ。だが、よく考えてみると、僕自身は訳す必要はないのだった。いったいどうしてこんなにあれこれ悩んでいるのか? 

それは、いい訳が多くの人に届いてほしいと思うからだ。うん。

僕の気に入っている訳書は?

最後に、訳書について一言。

僕の気に入っているのは新潮文庫の高橋義孝訳だ。それも、「毒虫」が「虫」に変更される前のもの、つまり、1985(昭和60)年の改版以前のものだ。「グレーゴル」ではなく、グレゴール」になっているところもいい。

「毒虫」は強烈すぎるとしても、やはり「虫」では寂しい。何らかの衝撃がほしいのだ。

いろいろ読み比べたわけではないので、単に、最初に読んで感動したからにすぎないのかもしれない。

高橋訳は、今見ると、表現が古くなっているところもあるし、また訳が間違っているのではないかと思うところもないわけではない。それでも大体において、うまいなあ、とてもこんなふうには訳せないなあ、と感心することが多い。まさに職人芸だと思う。

補足:英語ではどう訳されている?

岡上氏は、『変身』冒頭の英訳リストも作成している。すごい! 本当にすごい!

カフカの『変身』の英訳リストです‼️【再々々改訂版】

2021年10月10日現在のリストに上がっている全28の Ungeziefer の英語訳を、頻度順に見てみると次のようになる。

insect(昆虫、虫):11
vermin(害虫、害獣):8
bug(昆虫、虫):5
vermious bug(害をなす虫):1
cockroach(ゴキブリ):1
pest(有害小動物):1
monstrosity(怪物):1

insect と bug を合わせると、16でもっとも多い。vermin と vermious bug を合わせても9だ。やはり、「虫」あるいは「害虫」という感じか。pest が「毒虫」に近いだろう。

ちなみに、オックスフォード独英辞典では Ungeziefer は vermin と訳されている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?