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寺山修司の短歌「夏蝶の屍ひそかに」

寺山修司については、最初は「五月の詩」だけを解釈してみるつもりだったのに、いつのまにかすっかりつかまってしまい、気がつくと短歌ばかり取り扱っている。まあ、こうなったら気がすむまでハマってみよう。

夏蝶なつちょうかばねひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊

(『寺山修司全歌集』21頁)

この歌は、歌集『田園に死す』の「恐山」の章の「少年時代」に収められた一首。

■語句

夏蝶――夏に見かけるアゲハチョウなどの蝶のこと。俳句では「夏蝶」「夏の蝶」は夏の季語。「蝶」だけなら春の季語。

かくし来し――隠してきた

本屋地獄――本屋を地獄に見立てている。

■解釈

「本屋地獄」という言葉がおどろおどろしい。

同じ「少年時代」に入っている歌の中に、「銭湯地獄」「学校地獄」「呉服屋地獄」などの語を使った歌もある。また、「子守唄」の章の「捨子海峡」には「おでん屋地獄」もある。

恐山にある無間地獄、血の池地獄などのさまざまな地獄に触発されて生みだされた言葉なのだろう。一種の遊びだ。

「本屋地獄」は新刊書を並べたきれいな書店ではなく、古本屋のイメージだろう。不気味な古今東西の古書を乱雑に積み重ねた本屋。一冊一冊から地獄の臭気が漂ってくる。

と、そこまでのホラー度はないか。むしろ歌の内容は、少年のちょっとした悪戯いたずらだ。

古本屋に入る。そこを地獄に見立てる。本屋地獄だと空想する。こっそり本の一冊にアゲハの干からびた死骸を挟み込む。それによって、自分は本屋をいっそう地獄らしくしたのだと思う。

夏蝶が夏の季語だとしても、死骸なので夏の終わりのことか。高揚の夏は終わった。夏の残骸が道端に落ちている。いずれ蟻が拾っていくだろう。死骸は解体されていくだろう。しかし、「われ」はそれを本屋の本に挟み込む。蝶の死骸はしおりにされるのだ。押し花のように。それによってずっと本の中に残り続ける。永遠化される。

蝶の飛んでいる外の世界は明るい。それはどんどん移り変わる世界だ。対照的に本屋の中は暗い。過去(つまり、さまざまな「屍」)が本の中に封印されて大量に埋蔵されているところだ。だから「地獄」なのだ。

夏蝶の明るさと本屋の内部の暗さが対照的。蝶は死ぬことによって、生の世界から地獄へと移される。

この歌は「一冊」で終わっている。あの本屋の中のあの本には蝶の死骸がはさまっている、自分も地獄作りに貢献したのだ、という自己満足的な空想。それを楽しんでいる。

■他のコメント

◆川原真由美:1986
参考になるところが多かった。

ふとひらめいた衝動にかられて、われ知らず小さなたくらみを実行に移してしまうのは、若者によくある話だが、第三首(=「夏蝶の」の歌)に活写された情景は悪意のあくどさで群を抜いている。

「悪意のあくどさで群を抜いている」とは、なかなか厳しい……。

この一首を読んで、唐突ながら梶井基次郎の『檸檬』を思い出した。

僕も同じ。寺山のことだから、意図的に利用したのかも。

『檸檬』の主人公が書棚においてきたのは、通りすがりの眼をさわやかな驚きでみたすエキゾチックな黄色の果実だった。それにひきかえ、寺山が本の間にこっそりと忍ばせてきたのは「夏蝶の屍」だから、よほど罪は深い。

う~む、やはり手厳しい。虫が嫌いなのかな。レモンは爆弾の代替物なのだから、そちらの方がはるかに物騒なのでは?

とはいえ、最後には次のように述べる。

けれども、梶井の「檸檬」も寺山の「夏蝶の屍」も、若さの傍若無人な輝きを体現して、いずれもみずみずしい。

■おわりに

本屋の本の間に蝶の死骸がはさまっているのを見たことから生まれた歌だろうか。あるいは、少年時代に本の間に蝶の死骸を挟むというささやかな悪事をしたことが実際にあるのかもしれない。

う~む、きっと後者の推測が正しいだろう。似たような悪さをしたことのある僕はそう確信する。

■参考文献

寺山修司『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

川原真由美「反・望郷の歌――寺山修司『田園に死す』」、『比較文学・文化論集』東京大学比較文学・文化研究会発行、1986、第3号、50-64頁

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