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木下夕爾の詩「小さなみなとの町」―もう二度とくることもないだろう

木下夕爾の詩「小さなみなとの町」は、1955年発行の『児童詩集』(木靴発行所)に収められた詩だ。夕爾が40歳頃に書いたようだ。

かつて小学校国語教科書に掲載されたことがある。1980年の日本書籍版の「小学校国語4年生(下)」だ。

教師たちはこの詩を読んで子供たちに何を語ったのだろうか。

いい詩だとは思うが、どういいのか。詩人はいったい何を表現しようとしたのか。長らくさっぱりわからなかった。

ちょっとわかるような気がしてきたのは、夕爾の別の詩「山家やまがのひる」を読んだからだ。

■木下夕爾ゆうじ「小さなみなとの町」

母とふたりで
汽車でとおった
小さなみなとの町

たれかのたべのこした
アイスクリームが
まどわくのところでとけていた

汽車のとまっているあいだ
波の音がきこえていた
つくつくぼうしが鳴いていた

それだけをはっきりおぼえている
もう二度とくることもないだろうと
おもいながらとおりすぎた
小さなしずかなみなとの町

(木下夕爾『ひばりのす』)

■語句

汽車――蒸気機関車に引っ張られる列車。

たれか――だれか

つくつくぼうし――蝉の一種。8月下旬から9月上旬頃に鳴く。

■解釈

詩人は子供の頃の思い出を書いているようだ。子供の頃、母と二人で旅行しているとき、ある駅に汽車(★1)が停まった。その駅の待合室の窓枠で(★2)アイスクリームがとけているのが見えた。波の音、蝉の声が聞こえていた。そして、もう二度と来ることもないだろうと思って通り過ぎた。それだけの詩だ。

情景はわかる。では、詩人はどんな気持ちでこの情景を書いたのか。なつかしいなあって思っているのか。それとも楽しかったなあって思っているのか。あるいは、人がほとんどいなくて寂しい風景だったなあと感じているのか。

どれも違うような気がする。僕らが普通の生活で感じる喜怒哀楽を表現しているのではなさそうだ。

子供の頃のなんてことのない記憶。それがなぜ記憶に残っているのかもわからないような風景や事物の断片。そのようなものは誰にだってある。それが木下夕爾にとっては、港のある小さな町、とけかけのアイスクリーム、波の音、つくつくぼうしの鳴き声だったのか。

それだけでもないような気がする。

すでに木下夕爾の「山家のひる」を見た。そこでは誰も見ていないところで花が咲き、誰も聞いていないところで時計が時を告げていた。それぞれの事物が、人間とは無関係に存在していた。詩はその不思議さを表現していた。

この詩でも、人間が出てこない。「母とふたりで」列車に乗っているはずなのに、詩には母の気配がない。おそらく母親は眠っているのだ(★3)。他の乗客もほとんどいないようだ。列車の中は静かだ(★4)。駅前には人気ひとけもないだろう。

列車は行き違いを待ってでもいるのか、すぐに動かない。列車が普通以上に長く停まっていることでできる奇妙な時間。空白の時間。少年は自分だけがこの世界で目覚めているような気がしてくる。

駅の窓枠には溶けかけのアイスクリームという人間の痕跡がある。食べ残した人はそれがどのように溶けていっているか知らない。でも、それは確実にそこに存在している。人がいなくても物は存在している。

列車が走っているときは大きな音が聞こえているが、停車すると急に静かになる。波の音がはっきり聞こえる。つくつくぼうしの鳴き声も聞こえる。それでも静かな印象を与える。

自分以外の誰も見ていないところでアイスクリームが溶け、自分以外の誰も聞いていないところで波が音を立て、蝉が鳴いている(★5)。人間の生活とは無関係に、それ自身の自律性をもって存在している。詩人が子供のときに感じ取ったのは、いわば「物自体」の世界ではないか。

列車が少しだけ長く停車し、奇妙な間ができたことで、少年は存在の裂け目を垣間見かいまみ、その静寂に耳を傾けることになった。だから、自分とは何の関係もないはずの「小さなみなとの町」が、いつまでも記憶に残ることになったのだ。

■おわりに

木下夕爾という詩人は、「山家のひる」でもそうだが、事物があるのにそれを見る人がいないところ、音は聞こえるのにそれを聞く人がいないところ、そのような空間を見つめ、それに耳を澄ます人のようだ。

そのような空間に郷愁のようなものさえ感じているようだ。

■注

★1:汽車
蒸気機関車が次々にディーゼル機関車に置き換わっていったのが1970年代。木下夕爾は1914年に生まれ、1965年に死んでいる。木下夕爾が子供の頃といえば、1924年前後。だからこの「汽車」は蒸気機関車に引っ張られる列車だ。もちろん、エアコンなどはなく、窓は自分で開け閉めできる。

★2:アイスクリームはどこにある?
アイスクリームは、溶けているのが見えるので男の子の近くにある。どこにあるのか。二つの可能性がある。駅のホームにある待合室の窓枠と、語り手が乗っている列車の窓枠だ。ここでは前者と解している。

筆者は作品の構成を次のように受け取った。

第1連:詩のトピックを宣言。小さな町のことを語ること。
第2連:汽車の窓の向うに見えたもの。
第3連:汽車の窓の向うから聞こえてきたもの。
第4連:汽車が動き出したときに思ったこと。

第1連は「小さなみなとの町」で終わり、続いて第2連で、「アイスクリームが/まどわくのところでとけていた」とくる。だから、第2連の光景はこの町で最初に見えたもの、列車の窓から見えたものと解するのが自然ではないかと思ったのだ。

アイスクリームが汽車の窓枠にあるとすると、構成は次のようになる。

第1連:詩のトピックを宣言。小さな町のことを語ること。
第2連:そのとき汽車の中で見たもので覚えているもの。
第3連:汽車の窓の向うから聞こえて来たもの。
第4連:汽車が動き出したときに思ったこと。

小さな町のことを語ると言っておきながら、次に列車内のことを語るのはちょっと変な気がする。構成のバランスも悪いように思う。語り手の視点も明確ではない。

ただ、九里くのり順子『詩人・木下夕爾』によれば、木下夕爾の「海沿いの町」という詩に、次のような詩句があるようだ。

汽車の窓枠に
誰かのたべのこしたアイスクリームのように
無惨に溶けてしずくを垂らしている
私の半生

(九里190頁より引用)

ここでは「汽車の窓枠に」となっている。やはり列車の窓枠が正しいのか?

ただ、この詩が発表されたのが1964年。「小さなみなとの町」から10年近く後のことだ。

また、九里によれば、夕爾は同じモチーフをさまざまに変奏させて別の詩や俳句で使っているとのこと。だから、ほかの詩に「汽車の窓枠に」とあるからといって、この詩でもそうだと断定することはできない。それぞれの詩はそれぞれの詩で解釈するしかない。――ちょっと強引?

まあ、アンケートを取れば、列車の窓枠という意見が多いような気もするのだが、作者の意図が何であれ、読者は自由にイメージする権利があるのだ、とがんばっておこう。

★3:母は眠っている?
何かがあって(葬式、法事、結婚式?)、遠くの親戚の家に出かけ、母はそこでの仕事を手伝い、また多くの人といちどきに話して疲れてしまっているのだろう。二人は今、列車で自分たちの町に帰ろうとしているのではないか。――ちょっと想像のしすぎ?

★4:列車の中は静か
各駅停車であれば、地元の人が多く、知り合い同士のにぎやかな話し声があちらこちらから聞こえてきたりするものだ。でもこの詩からはそのような声が聞こえてこない。静かだ。だから列車は特急か、急行なのだろう。小さな町に停車しているので、急行ではないか。列車同士の行き違いのために普通以上に長く停車しているのかもしれない。この詩からはそういうが感じられる。――これも考えすぎ?

★5:「山家のひる」との類似性
テーマだけでなく、モチーフも「山家のひる」と似ている。「山家のひる」では、ツツジが見え、それから柱時計の音が聞こえる。「小さなみなとの町」では、アイスクリームが見え、次いで波の音や蝉の声が聞こえる。最初に視覚的要素が、次に聴覚的要素という順だ。また、ツツジやアイスクリームは、直近に人間が関わった痕跡を残しているという点で、柱時計と波の音・蝉の声は、直近の人間的な関わりはないが、離れたところで人間と関係し続けているという点で共通している。

■参考文献

木下夕爾『定本木下夕爾詩集』牧羊社、1966

木下夕爾『ひばりのす ――木下夕爾児童詩集』光書房、1998

市川速男『木下夕爾ノート――望都と優情――』講談社出版サービスセンター、1998

九里くのり順子『詩人・木下夕爾』翰林書房、2020

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