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木下夕爾の詩「山家のひる」―たれもへんじがない

木下夕爾の児童詩集『ひばりのす』に収められた詩は、どれもやさしい言葉で書かれている。でも何が表現されているのかわかりにくい詩もある。

「山家のひる」はそのような詩の一つだ。

■木下夕爾ゆうじ山家やまがのひる」

たれもへんじがない
みんな山へいったのかな
えんがわに
あかいつつじのえだが
おいてある
だいどころで
はしらどけいが三つなった
ぼん ぼん ぼんとなった
それからゆっくりと
ぜんまいのほぐれる音がきこえた

木下夕爾『ひばりのす』光書房、1998

■語句

山家やまが――山里にある家

たれも――だれも

はしらどけい――ぜんまいの弾力で動く掛け時計

ぜんまいのほぐれる音――ゼンマイ時計はぜんまいが巻き上げられたり、ほどけたりして動いている。ゼンマイが巻き上げられるときはカチッカチッという。正時になると、「ぼん ぼん ぼん」などと音を立てる。音の数によって時刻を知らせる。時刻を告げ終わるとぜんまいがほどけ、またカチッ、カチッと音を立ててぜんまいが巻き上げられていく。

■解釈

今では古くなった言葉を別にすれば、難解な語は使われていない。漢字もほとんどない。でも、何が表現されているのかと考えるとわからなくなる。

まず、この詩が描いている状況を具体的に想像してみよう。

場所は山里にある家だ。ツツジの枝があるので、おそらく5月ごろ。柱時計が三つ鳴ったということから、午後3時だ。

題は「山家のひる」となっているが、ちょうどお昼というわけではなく、昼間、昼頃ということだ。

語り口をみると、語り手は子供のようだ。学校から帰ってきたから午後3時なのだろう。小学校中学年くらいか。

語り手が家に帰ってきても誰もいない。大人が出払っているからだ。題に「山家」とあるので、大人たちは山か田んぼで働いているのだ。

5月であれば田植えの時期だ。大人たちは忙しい。

語り手の子供が見るのは、赤い花をつけたツツジの枝。ツツジは山にあるので、家族はおそらく田植えのために山の田んぼに行っている。お昼を食べに帰ってきて、取ってきたツツジを置いていった。水に活ける間もなく、またそそくさと急いで出て行った。

子供の目に映るのはツツジの花。子供が聞くのは柱時計の音。それだけだ。

で? それがどうした?

こんなふうに考えてみる。

家に帰ってきた語り手は「ただいま」と言ったのだろう。そして普段だったら、誰かがいて「おかえり」って返事をしてくれるのだろう。ところが田植えで大人は総出で働いている。だから「たれもへんじがない」のだ。

語り手の目に映るのは、赤い花をつけたツツジの枝。そして聞こえてくるのは柱時計の音だけ。

ツツジは人間が花瓶に生けて楽しむためのものだし、柱時計は人間が時間を知るために利用するものだ。ところが、誰も見る人がいなくてもツツジはそこにあるし、また、誰も聞いている人がいなくても時計が時刻を告げている。ツツジも時計も、人間がいないところでも、それぞれ独自に存在している。語り手の少年・少女はそのことの不思議さを感じ取ったのではないか。

この感覚は同時に、祖父母も父も母もいない、自分が一人っきりであるという感覚、孤独の最初の感覚でもあるだろう。

■おわりに

この詩を読むと、状況はまったく違っているにしても、自分も子供のとき同じようなことを感じたことがあったような気がしてくる。

僕らは木下夕爾が表現した不思議な感じを特に言語化することもなく、スルーしてしまう。子供の木下夕爾だってそうだったろう。つまり、何かを感じたのは一瞬だけで、さっさと友達のところに遊びに行ったと思う。

でも大人になった詩人は、この不思議な感覚を忘れずにいて、言語化したのだ。

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