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ローゼ・アウスレンダーの詩「誰が」―誰が私のことを思い出すだろう

ローゼ・アウスレンダー(1901-1988)の詩集『雨の言葉』(加藤丈雄訳)を読む。心に残る詩があったので、原文を探し、自分でも訳してみた。

簡単な解釈も付す。

■ヨジロー訳

  誰が

     ローゼ・アウスレンダー

誰が私のことを思い出すだろう
私がいなくなったら

餌をあげてた
雀たちも
窓の前の
ポプラ並木も
緑の隣人 北公園も
思い出してはくれないだろう

友人たちは
いっとき悲しみ
そして私を忘れるだろう

私は大地の体内で
安らぐだろう
大地は私を作り変え
そして忘れるだろう

■語句

緑の隣人 北公園も――北公園を「緑の隣人」と擬人化している。

大地は私を作り変え――「大地は私を(すっかり)変え」と訳すのが普通だろうが、「つくりかえ」とした加藤訳がすばらしいので利用させていただいた。

■解釈

<自分が死んだら、誰もが私のことをすぐに忘れてしまうだろう、なんて悲しいことだろう>と嘆いている詩ではない。自分が忘れられることを、それでよしとしている詩だ。

「思い出してはくれないだろう」――雀やポプラや公園などの、いつも目にしているなじみのある景色が、自分と無縁のものとなっていくことを「私」は寂しがっている。でもそれを仕方のないこととして受け入れている。

友人たちはどうか。しばらくの間は悲しむだろうが、やがて忘れていくだろうと、冷静に見ている。いつまでも覚えていてほしいというのが利己的な要求であることを、「私」は知っている。寂しいが、静かに現実を受けとめようとしている。

「私は大地の体内で/安らぐだろう」――世界が「私」と無関係のものとなり、誰もが「私」を忘れてしまう。すべてとのつながりが切れて大地の下に横たわる――それを私は<安らぎ>とする。

「大地は私を作り変え/そして忘れるだろう」――この2行がすばらしい。自分が解体されて大地にまじり合っていく。そして「大地」でさえ、「私」の存在を忘れる。「私」という個は世界から完全に失われる。

「私」は、自分がこんなふうに消えていくことを受け入れている。いや望んでさえいるのだ。

■おわりに

どうだろうか。寂しすぎる、と思う人のほうが多いかもしれない。

僕は、いいなあ、こんなふうに自分も考えていたいものだ、と思うのだが。

■参考文献

ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』加藤丈雄訳、思潮社、2007

*見出し画像は、「コンピュータ基礎II プログラムでヴィジュアルを作ろう」を参考にしています。https://cc.musabi.ac.jp/kenkyu/cf/renew/program/processing/processing15.html

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