ローマの休日と朝鮮戦争

 朝鮮戦争の影が、アメリカ映画「ローマの休日」に刻まれています
 朝鮮戦争はアメリカにどんな影響を与えたのでしょうか。

 ヨーロッパ有数の観光地であるローマは、ローマの休日という映画の舞台として世界的に有名です。説明するまでもないでしょうが、グレゴリー・ペック、オードリー・ヘップバーンという著名俳優が主演する有名な作品です。朝鮮戦争とどんな関係にあるのかと思うかも知れません。


 実はこの映画が公開されたのは1953年、そう朝鮮戦争が休戦となった年なのです。アメリカは極東で勝ち目のない戦争を行いながら、一方でこういうロマンチックな映画を、イタリアで撮影していたのですね。

 しかも、当時珍しかったオールロケによってローマで撮影されています。この年、ローマは記録的な暑さだったそうです。
 実は、この映画が生まれた背景には、朝鮮戦争当時のアメリカ社会の雰囲気が深く関係していました。

 「ローマの休日」の脚本を書いたのは、アメリカ人のダルトン・トランボという人でした。才能に恵まれ、ハリウッドでも注目の若手でした。ところが当時、アメリカ内では第2次大戦後、共産主義への警戒心が高まりました。共和党上院議員のマッカーシーが攻撃の先頭に立ち、メデイアがこれを煽ったため、「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれる社会現象に拡大していきます。

 共産党に入党している映画人だけでなく、共産党と関わりをもったり、支援者とみなされる映画人がアメリカの下院非米活動委員会の聴聞会に証人として喚問されて、共産党との関係を問いただされました。1947年のことです。

 映画の脚本家は、赤狩りの犠牲者となってハリウッドを追放されました
 聴聞会では、10人が証言を拒否し、議会侮辱罪で起訴されて映画界から追放されました。トランボはその中の1人でした。50年に最高裁判所で有罪が確定し、連邦刑務所で10カ月の獄中生活を送ります。
 収入が断たれたトランボは釈放後、パラマウント映画社から、ある打診を受けます。それが「ローマの休日」の脚本でした。


 子供たちの学費や生活費を稼ぐため、もともと書きたかった社会的なテーマを諦めて、親友の名前で「ローマの休日」書き上げたのです。
 脚本は、数人が手を加えて完成。映画は1952年夏にイタリアで撮影が始まり、53年に封切られると世界的なヒット作となり、ヘップバーンは一躍人気女優となりました。トランボの親友は、アカデミー賞原案賞を受けてしまいます。

 それでも本当の作者は、明らかにできませんでした。朝鮮戦争が激しくなるなか、トランボへの風当たりは強まる一方でした。生活も好転せず、一家は生活費を節約するため、この年の11月から2年間、メキシコに転居したほどです。

 ローマの休日の脚本家が、実はトランボだったと明らかにされたのは、1991年、本人が亡くなってから15年も経ってからでした。


よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!