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証言:第8交響曲に関するヴェーベルンのことば

第8交響曲に関するヴェーベルンのことば(Kühn & Quander (hrsg.), Gustav Mahler : ein Lesebuch mit Bildern, 1982, p.171, 邦訳p.375)

Diese Stelle bei » accende lumen sensibus « -- da geht dir Brücke hinüber zum Schluß des » Faust«. Diese Stelle ist der Angelpunkt des ganzen Werkes.

「そが光にてわれらが感ずる心を高めたまえ(アチェンデ・ルーメン・センシブス:邦訳原文ルビママ)」の箇所、ここで『ファウスト』の最終場面へと橋がかけられる。ここが、この作品全体の要である。

第8交響曲というのは私にとっては最も大きな躓きの石である。その音楽の持つ力の否定し難さと、その力に対する懐疑が拮抗する。 しかもこの後に続くのは「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲といった後期作品なのだ。その力の大きさに応じて、懐疑もまた深いものにならざるを得ないかの ようだ。

第8交響曲に対してアドルノが批判的なのは良く知られているが、実はそのアドルノの文章にも微妙なニュアンスが感じ取れる。そしてそのアドルノがヴェーベルンが 指揮した演奏のaccende lumen sensibusの部分に特に言及していることを知っていると、ヴェーベルン自身が上のような発言をしていることは一層興味深く 感じられる。(アドルノが、この発言を知っていた、ということは大いにありそうなことだが、事実関係の確認はできていない。ご存知の方がいらっしゃれば、お知らせ いただけるようお願いしたい。)ヴェーベルンにはヴァルターが指揮したウィーン初演に際して、シェーンベルクに宛てた書簡(1912年3月16日付け)も残っていて、 そこではヴァルターの解釈に対してかなり否定的なコメントをしているのだが、ではヴェーベルンその人の解釈は一体どんなものであったか、勿論今となっては 知る術もない。だが、私が実演に接した経験からも、この曲に凄まじい力をもった表現が存在するのは否定し難く、恐らくアドルノもまた、実演を聴いた 印象を頭で考えた理屈で否定することができなかったのだろうと思う。(良し悪しはおくとして、こういう点ではアドルノは「率直」で、自己の経験に忠実な人で あったように思える)。 それは丁度、初期作品における些かなナイーブな「突破」Durchburchの契機を、けれどもこれまた否定しさることができないのと通じるところがあると思う。 私見では第8交響曲とは、全曲がその「突破」の一瞬そのものであるような、例外的な音楽なのだ。

今の私にはこの曲について、何ら断定的なことをいうことはできない。マーラーを熱心に聴かれている方の中には改めてこの曲を肯定的に捉えようとする論調も あるようだが、私は残念ながら説得的には感じられないし、少なくとも今のところそれには同意できない。今の私には晩年の(例えば第14交響曲の) ショスタコーヴィチの姿勢の方がよほど説得力があるように感じられ、従って後期の、「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲のマーラーには共感できても、 第8交響曲には距離を感じずにはいられないのだ。だが謎がなくなったわけではないし、この曲を「なかったことにする」わけにはいかない。 そして、引用したヴェーベルンの言葉はきっと謎に対する大きなヒントになるに違いない、という確かな「感じ」があるのも事実である。 マーラーが生涯において一度きり、一曲の音楽全体を「突破」として形作ったその中でも、accende lumen sensibusの箇所こそ、 まさに「突破」の契機が剥きだしになって聴き手を圧倒する一瞬なのは確かなことだし。

第8交響曲が「客観的に」ユーゲントシュティル的な装飾なのか、マイヤーの言う簒奪の最たるものかどうかすら、実はどうでもいいのかも知れない。 かく言うマイヤーもそう認めているようにここにも少なくとも誠実さはある。それが都合の悪い部分だとしても、それに目を瞑って素通りをして済ませるわけには いかない。少なくとも私個人は。 多分、私にとっては、個別の音楽よりもマーラーその人の方が問題なのだろう。お前は結局音楽を聴いているんではない、という批判があれば、恐らく 甘受せざるを得ないのだろう。そう、私もまた、マイヤーがマーラーについて言った「ディレッタント」として、マーラーの音楽に接してきたし、今でもそうしているし、 今後もそうし続けるに違いない。私はそのようにしかマーラーに接することはできないのだ。別に開き直るわけではないが、もしマイヤーの言うことが 正しいのであれば、マーラーに私のように接することもまた、それなりにマーラーに相応しいと言えるのではないかと言いたいようには感じている。

(2007.7.15 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追加, 8.13 noteにて公開)

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