「ありえたかも知れない民謡」としてのマーラーの歌曲についての覚書
一般にはマーラーは、第一義的には交響曲の作曲家として認知されているが、その創作の全体を俯瞰した時に直ちに気付くことは、交響曲以外の創作ジャンルが、ほぼ歌曲に限定されるという点であろう。だがそれ以上に特徴的なのは、平均的な了解としては相容れない筈の交響曲と歌曲という2つのジャンルが、マーラーにおいては相互に影響を与え合い、時として融合している点である。前者としては歌曲がそのまま交響曲の一楽章として埋め込まれた、第2交響曲第4楽章(「原光」Urlicht)や第4交響曲第4楽章(「天国の生活」Das himmlische Leben)もあれば、合唱が追加されるなどの歌唱パートの改変とともに管弦楽化された第3交響曲第5楽章(「三人の天使がやさしい歌を歌う」Es sungen drei Engel einen süßen Gesang)のような場合、逆に管弦楽化されて構造的にも拡張される第2交響曲第3楽章(歌曲としては「魚に説法するパドヴァの聖アントニウス」Des Antonius von Padua Fischpredigt)や第3交響曲第3楽章(歌曲としては「夏の交替」Ablösung im Sommer)のような場合、更には交響曲楽章の主題として用いられる場合(枚挙に暇がないが、例えば第1交響曲第1楽章における「朝の野を歩けば」Ging heut' morgens übers Feldや第3楽章のトリオにおける「彼女の青い目が」Die zwei blauen Augenなど)から、歌曲の一部が引用される場合(これまた枚挙に暇がないが、例えば第5交響曲のフィナーレにおける「高い知性への賛美」Lob Des Hohen Verständesの引用や第9交響曲第4楽章における「よく私は考える、子供たちはちょっと出かけただけなのだ」Oft denk' ich, sie sind nur ausgegangenの引用など)まで、関係の様態は幅広いスペクトルを持っている。後者について言えば、まず何と言っても『大地の歌』(Das Lied von der Erde)が挙げられるだろう。それは『さすらう若者の歌』(Lieder eines farhrenden Gesellen)、『子供の死の歌』(Kindertotenlieder)といった連作歌曲集の流れの集大成であると同時に、マーラー自身によって交響曲と規定されているという点で、それらの連作歌曲集とは一線を画している。結果として、交響曲の側から見た場合には本来は器楽であるべきジャンルへの様々な水準での声楽の導入があり、他方では内部構造を持たない複数の歌曲をただ集めただけの歌曲集から連作歌曲集としての組織化・構造化の方向性の極限として交響曲が位置するといった見取り図がマーラーの創作に関しては成り立つことになる。しかもそれは、膨大で多様なジャンルに取り込んだ他の作曲家であれば、その創作の持つ多面的なアスペクトのうちの一つとして、謂わば外側からアプローチすることも可能だったろうが、マーラーの場合には、それが創作全体のまさに要石の部分に位置し、アドルノの言葉を借りるならば、その作品群の成り立ちを「唯名論的」に規定する実質的な要素であることになる。つまり外的にそれぞれ独立に、事前に規定された2つのジャンルを偶々選択した時にその間に存在する関係といった把握でなく、歌曲と交響曲の両者が、そして両者のみが存在する空間において個別の作品同士の間に生じるその都度の関わり合いを通じて個別の作品の構造が具体的に規定される様相についての観相学が求められているということになるのではなかろうか。
その結果として、ことマーラーに関しては、単なる音楽形式の問題を超えてより一般に言葉と音楽との関係が他のケースにも増して問題となる。マーラーの交響曲については標題に関する議論というのが或る種の紋切り型のようなものとして存在しており、尚且つそれは、マーラーの生きた時代に既にそのようなものとして存在していて、マーラー自身がそうした問題に関わらざるを得なかった事情を勘案すれば、それを問題として取り立てること自体には一定の正当性があるということになるだろうが、これもまたマーラー自身が既に気付いて或る種の拒絶の身振りを示したことから窺えるように、せいぜいのところ素材の一つに過ぎない標題性なるものを外部から作品へと押し付けて、それを以て作品について何かが解明されたとするような類の議論は、まさに上に記したような事情がある故にマーラーの作品について何かを明らかにすることはない。そしてこのこともまた、アドルノがマーラーに関するモノグラフの冒頭で既に半世紀以上も前に指摘していたことである。それ故にマーラーにおける言葉と音楽の関係を問おうとしたならば、標題などではなく、さりとて楽譜に書き込まれた膨大な言葉による指示に音楽への言語の侵入を見るのでもなく、たとえ自明に見えたとしてもまずはマーラーの創作が交響曲と歌曲より成り、かつ一部の例外を除いてそれらのみから成り、しかもその間には、冒頭でその一例を示したような複雑な関係性のネットワークが存在しているという事実を無視することはできないだろう。それ故また他方で、あたかも言語の侵入を受けない自律した音響態として、言語的な意味づけを排した上でマーラーの作品に向き合う態度は、仮に個別の作品については時としてその場で生まれる「サウンド」として手垢のついていない新鮮さを感じさせることはあっても、その場限りで消費されてお終いとなってしまい、あたかも投壜通信のように(ツェランが講演で述べたように、時間を超えてではなく)時間を通って作品が運ぶ価値に辿り着くことはないだろう。
とはいってもそれは、作品が誕生した際の文脈を忠実に再現することなく作品に接することを非本来的であるとして断罪するような主張に繋がる訳でもない。そうではなくて、ごく単純に、例えばもし或る聴き手が歌曲「魚に説法するパドヴァの聖アントニウス」Des Antonius von Padua Fischpredigt)を知っていて第2交響曲に接する場合と、知らずにそうする場合には違いがあるし、そうした関係の存在を知った途端に、それを無視して音楽を受け止めることはできないだろうということに過ぎない。言い換えれば、マーラーの交響曲に接するに際して歌曲の存在を抜きにした場合と、それを前提とした場合とでは様々な水準で交響曲の受容自体が異なったものになるだろうという、ごく当たり前のことを言っているだけである。第2交響曲第3楽章は事実として歌曲そのものではないのだから、それが恰も「魚に説法するパドヴァの聖アントニウス」Des Antonius von Padua Fischpredigt)そのものであるような意味の押し付けが不当である一方で、それが「魚に説法するパドヴァの聖アントニウス」Des Antonius von Padua Fischpredigt)の変形であることを知ってしまえば、そのことがまるでなかったように第2交響曲第3楽章を聴くことはできないし、更に言えば、その事実を無視するとしないとに関わらず、マーラーその人は勿論そのことに自覚的であり、意図的にそのようにしたという事実は残る。同様に当たり前のことではあるが、第5交響曲第4楽章の、著名であるだけにそれだけ不幸でもある抜粋の場合とは異なって、歌曲のみを取り出すことには狭義における抜粋とは異なった性格がある。歌曲は一方でそれ自体単独で存在しているにも関わらず、恰もミトコンドリアのような細胞内小器官が元を質せば細胞内共生体であるのと同様に、独立の歌曲であると同時に交響曲の一部でもあるのだ。他方において、歌詞を剥ぎ取られて器楽化されれば元々の歌詞とは異なる文脈の中で異なる意味を獲得することになるのだが、それと同時に元々の歌詞の残響がその文脈にエコーすることを防ぐこともまたできない。単純な引用・被引用の関係はここでは成り立たず、どちらがオリジナルであるかは決定不可能なのだ。勿論、実証的な研究が創作のプロセスを事実問題の水準で解明し、どういう順序で作品が出来上がったのかについての事実が明らかになることはあるだろうが、それはそれとして、一般論ではなく、マーラーという個別のケースにおいてそれを事後的に受け取る状況に限定して言えば、交響曲と歌曲の間、或いは歌曲のピアノ伴奏版と管弦楽伴奏版の間の関係はお互いが相手のヴァリアントであると捉えるべきで、どちらが他方に対してオリジナルであるということは言えないだろう。そしてこのような歌曲のありようが「マーラーの場合」を特徴づけているように私には思われるのである。そのことの帰結として、連作歌曲集ではない、常ならば構造を持たない単なる寄せ集めである歌曲集が取り上げられる際にも、その中からどれを選んでどのような順序で並べるかについて、演奏者の側に選択の可能性が生じるにようになる。かくして粗い類推ではあるけれど、交響曲が長編小説であれば、連作歌曲集は全体で一つのまとまりをもった連作短編集であるのに対して、そうでない歌曲集もまた、単なるアンソロジーではなく、嘗て或る種の実験小説において、断章群が提示しておいて読者が自ら読む順序を決定していくという試みが為されたことへの類比が寧ろ適切なものとなる。
従って、ここでの歌曲と交響曲と関係を問おうとした場合、例えば、歌曲が交響曲に引用される具体的な様相を分析するというアプローチに帰着して事足れりというわけではないことになる。そのような研究としては既に半世紀も前にモニカ・ティッベの研究があり(Tibbe, Monika, Über die Verwendung von Liedern und Liedelementen in instrumentalen Symphoniesätzen Gustav Mahlers, Emil Katzbichler, 1971)、今更屋上に屋を架す必要もないだろうが、さのみならずアドルノが夙に指摘している通り、マーラーの場合において歌曲は、交響曲に対していわゆる「予備的研究」なのではなく、その役割は交響曲に素材を提供することに存するというように見做されるべきではないのであってみれば、歌曲を引用する交響曲といった図式自体が既に或る種の予断を含んでしまっているのだ。ここでの文脈からは稍々逸れることになるが、そのことはマーラー作品内における歌曲と交響曲の関係にのみ言えるのではなく、一般にマーラーの作品における各種の引用を指摘するような姿勢に共通していることで、勿論そうした実証的な研究の存在意義を否定するわけではないにしても、そうしたアプローチそのものが含み持つ予断が見えてくるものを先行的に規定してしまうことは避け難く、時として、或る種の文化的な文脈への還元によって事足れりとする立場に通じるものがある。歌曲が交響曲とともに、対等の立場で星座を形作ることがマーラーの創作の総体において不可欠の契機なのであって、一見したところ些事に思われるかも知れなくとも、上に例示したような交響曲と歌曲との関係の多様性そのものが、ここでの交響曲なり歌曲なりの在り方を決めているのだ。例えば第4交響曲第4楽章に見られる、独立の歌曲でもあり交響曲の一部でもあるという二重性は、本来的には別々のジャンルに帰属するべきものが偶然に借用されているという見方では捉えきれず、寧ろその二重性こそがマーラーの作品にとって本質的であって、実際にはそのような二重性を明示的には持っていない他の多くの歌曲においてさえ、仮想的な仕方で同様の二重性を謂わば予示的に備えていると考えるべきなのだ。
マーラーの歌曲のうち、管弦楽伴奏版が作成されなかった(但し、「夏の交替」のように交響曲との関連を持つ作品は含まれている)初期の作品群は『リートと歌(Lieder und Gesänge)』という一見ありきたりの題名の下、3巻に編まれたのであったが、機械的な反復を忌避するという、交響曲形式に対する態度において顕著なマーラーの姿勢は歌曲においても変わることはなく、それ故典型的なのは、題名が示唆するような有節的なリート(Lied)と通作的な歌(Gesang)といった二元論的区分よりも、その間を架橋し、しばしば境界を曖昧にするように節を絶えず変形していく手法であり、それが技術的な構成原理となっている点については交響曲と変わるところはないように見える。交響曲にも語りの契機が侵入し、古典派的交響曲が範例として「演劇」を持っているのに対して、ここではアドルノが言うように「小説」が範例となってシェーンベルクが指摘する「音楽的散文」が支配的となるのだが、その結果は旋律線の白熱であり、予めルバートを作りこみ、人間の声ではなく、楽器が(二次的に、「表現」として)「うたう」ことになる。マーラーの交響曲は騒音的な非楽音の導入の廉でしばしば嘲笑の的になってきたが、常には音色的な効果を添えるだけの打楽器が(場合によってはセンツァ・テンポで、ということは恰も周囲の脈絡とは独立にそれ固有のリズムとテンポを持っているかのように)「うたう」ことが求められているということに他ならない。同様にして、マイケル・ケネディによればマーラーの作品の基本的原理は二声の対位法だが、それは単なる和声進行の声部への分配に終始することなく、寧ろ外部を、他なるものを作品の中にこだまさせる契機なのだ。それは或る時にはステージとは別のテンポで動く舞台裏からの響きであり(第3交響曲第1楽章の展開部末尾、冒頭のファンファーレが回帰する直前を参照)、或る時には音色の変化により、或る時には極端な音域の乖離により仮想的に仮構される空間の広がりでもあるだろう。そこでは「うたうこと」と騒音的な非楽音の対比によって、音楽が生まれてくる起源的な場所が遡及的に言い当てられようとしているかのようだ。
主観的抒情と客観的叙事の対立についても同様なことが言えるだろう。マーラーの歌曲が所謂芸術的なリートの系譜に連なるものではないこともまたしばしば指摘されることで、最もその傾向が著しいのは『子供の魔法の角笛』歌曲集ということになるであろう。一見したところ民俗的な素材に見える『子供の魔法の角笛』は文学史の中でドイツロマン派を代表する作品と見做されてきたし、それ故そうした民族的遺産に対してユダヤ人マーラーが曲を付けたことに対する言いがかりめいた誹謗中傷が、とりわけてもナチズムが支配した時代には激しかったとは言え、1世紀後の極東の異邦人の子供がマーラーの音楽に取り込まれたそれを聴いた時の印象に照らした時には、フォン・アルニムとブレンターノは民謡を蒐集する民俗学者などではなく、結局のところ『子供の魔法の角笛』は彼らの創作であったという、マルク・ヴィニャルの「音楽素材と史的弁証法」(青土社『音楽の手帖 マーラー』、或いは酒田健一編『マーラー頌』(白水社)所収)における指摘の方が自然に感じられるのである。それが民謡を模倣したものであるとすれば或る種の追創作(nach-dichtung)と捉えるべきで、だとすればそれは寧ろ『大地の歌』の詩がハンス・ベートゲの追創作であるのに親和的とさえ言えるであろう。アドルノはモノグラフの中でシュペヒトが『子供の魔法の角笛』歌曲集の楽譜に寄せた文章を引用しつつ、その見解に疑念を呈しているのだが、その指摘については、それに対する賛同とともにそれを引用しているヴィニャルの見解に与することができるものの、続けてそのアドルノがムソルグスキーやヤナーチェクを参照しながらマーラーの作品の叙事的性格を指摘するのに接すると、ボヘミヤに生まれて、幼少期にはその地の伝統的な音楽にとり囲まれて育ったマーラーの作品にスラブ的な響きを見出そうとすることには一定の妥当性があるのだろうとは思えども、そこにもまた解消し難いギャップがあるという感覚を否定することは難しい。そういうヴィニャルがマーラーを形容した「真実の、または佯りの…」という言葉への共感を、それを象徴する例である「四度で鳴く郭公」をタイトルとした文章に記した川村二郎のマーラー論(青土社『音楽の手帖 マーラー』所収)を読んだ時、子供ながらに「真実の、または佯りの…」という両義性がマーラーの音楽の或る種屈折した特質に良く迫り得ているという点を認めるに吝かではなくても、自分が聴き取ったものが両義性という言葉で尽くされれているかどうかという点については留保の必要を感じずにはいられず、なお懸隔が存在することを感じずにはいられなかった。自ら三重の意味での異邦人であると規定したマーラーの音楽は、一部の評者が言うようなエキュメニカルなものでは決してなく、端的に根無し草の無国籍的なものであって、自分が生まれ育った環境に対してさえ距離感を持ち、或る種のよそよそしさを感じずにはいられないような側面を持っており、敢えて言うならば寧ろ端的に「佯りの」もので、無意識的に湧き上がるものそのものではなく、意識的にシミュレートされ直したものだと言うべきではなかろうか。マーラーの音楽が文化的にも歴史的にも懸け離れた土地に住む子供にとって逆説的にも身近に感じられ、自分に向かって手を差し伸べてくれる存在であり、パウル・ツェランが参照しているマンデリシュタムの投壜通信についての言葉のように、岸辺に辿り着いて打ち上げられた壜の中の手紙を自分宛のものであると感じ取ったのは、そこに両義性があるからであるというよりは、その音楽が初めから風景からの疎外を孕んだものであるが故であるとする方が、事態の正確な記述になり得ていると感じられるのである。そのことが特に明確なのは『大地の歌』の場合なのだが、それについては『大地の歌』のコンサートに寄せて以前書いた文章で触れたことなので、ここではその内容は繰り返さない。
或いはまた、マーラーの音楽の歌詞を眺めた時、叙事に際してオリジナルには存在したかも知れない固有名をことごとく欠いている点はどうだろうか?廃棄された若き日の歌劇の創作の試みの果てに、辛うじて筋書きめいたものを持ち、テキストが物語としての体裁を備えている最後の作品であると同時にマーラー自身が作品1として、自らの創作の出発点と見做したカンタータ『嘆きの歌』の登場人物は、だが固有名を持たない。その後もう一度きり、ゲーテの戯曲『ファウスト』の終幕の場をその第2部の素材とした交響曲が書かれるが、ここでも(かつてグレートヒェンと呼ばれたといったように注記されることはあっても)固有名が予め剝ぎ取られているのは果たして偶然なのだろうか?「原光」で天使と格闘するのはヤコブその人ではないし、「3人の天使が優しい歌を歌う」で主を裏切ったことに悔恨の涙を流すのもペテロその人ではない。それらに加えて「おお人よ注意せよ」という呼びかけも併せて須らく女声に割り当てられているのに対応するように、歌詞からすれば男声で歌われるべき『さすらう若者の歌』も『子供の死の歌』もまた屡々女声で歌われ、しかもそれは些かも例外などではなく、寧ろ女声による名唱に事欠かない点について異論はないだろう。そしてそれら連作歌曲集の到達点でありながら「交響曲」と規定された『大地の歌』は、逆説的にも歌曲を含めたマーラーの全創作の裡で最も主観的な極に位置しながら、「私」は男声と女声とに分裂する。それでいて終楽章の「告別」はと言えば、別れであるからには当然複数の人間が登場する筈だというのに、私と友はしばしば交替し、果ては本当にそこに「友」がいるのだろうかと訝しむことにさえなりかねない。
マーラーにとって『子供の魔法の角笛』は、自分がその中に否応なく巻き込まれる「世の成行き」との様々な関わり方を仮託する素材であったのではなかろうか。その中の一つであり、「この世」の成行きに対して、神から出たのだから神のもとに帰るのだ、とうたわれる「原光」は、今、現在のここ、日本での文脈でなら、三輪眞弘の「新しい時代」に出てくる「昇天少年」の歌に比せられるだろう。その一方でマーラーの中には、インド哲学の影響が著しいショーペンハウアーを皮切りに、ゲーテ(『西東詩集』West-östlicher Divan)、東洋学者でもあったリュッケルト、フェヒナー(『ツェント・アヴェスター』Zend-Avesta)、そしてハンス・ベトゲによる漢詩の追創作と、東方的なものに対する関わりが一貫して流れていて、その果てに中国の詩の模作の中で「故郷」という言葉が出てくる時に、一体それは何を指し示しているのだろうか。オリジナルの王維の詩「送別」には、「南山」とあって実はこれは普通名詞ではなく、固有名詞であって、具体的に長安の南にある山のことだそうだが、マーラーの作品の歌詞では例によって、固有名詞は剥ぎ取られている。そして、中国を反対側から眺めている極東の子供にとってもやはり同様に、南山という固有名詞は、中国人であれば感じ取れるのかも知れない具体的な場所への参照を欠いていて、却ってそうした文脈が剥ぎ取られらたベトゲ=マーラーの詩の方が身近に感じられる。まるで『大地の歌』の、聞きようによっては鼻もちならない露骨な異国趣味と受け取られかねない中間の第3楽章・第4楽章・第5楽章こそが「ありたかも知れない故郷の歌」であるかのように。マーラーを簒奪者として規定してみせるハンス・マイヤーのような西欧のインサイダーにとって「原光」と「告別」は全く別のことを歌っていることになるのだろうが、異邦の子供であった私には、それが異なったものとは思えなかったし、今でもそれは変わらない。そうした展望の下では「告別」の「故郷」が生地カリシュトなり、幼年期を過ごしたイーグラウのことを指しているのだという解釈はそもそも入り込む余地がない。「故郷」をめがけて歩んで、だが辿り着くことが夢想される山は、幼少期に「ここ」とは別にあるのだと夢想した「彼方」、アドルノがマーラー・モノグラフの最初の章で鮮やかに描写する、十代半ばの子供が朝五時にそれを耳にしてたたき起こされる、人を圧するようにうち降りてくる音の源ではないのか?それは「世の成行き」の中には場を持たないという意味での「非-場所」に他ならないのではないか、そしてそれは今一度そのように夢想されるけれども、実際に生きたまま辿り着くことはないのではなかろうか。そしてそうした風景が、後続する歌詞を持たない第9交響曲に、更には、それ自体この世に確固とした形で姿を現すことが許されなかった第10交響曲に映り込む…
何故このような、取りようによっては自明なこと、或いはまた逆の立場からすればどうでもいいような些末に拘って延々と文章を連ねているのかと言えば、まず第一には、最近行った所蔵録音の整理にあたって、特に歌曲の録音を、更にその中でも比較的古い時期の録音を改めて纏めて聞き返してみて思い至ったことが多々あったからで、就中、歌曲の側から、或いは歌曲を通して交響曲を改めて眺めてみるというパースペクティブが、最大限控え目に言っても、とりわけ今回については主観的には非常に印象的で新鮮であったことから、その感じの由来を突き止めてみたいと感じたからである。
ここでマーラーの作品の演奏の録音記録について時系列に辿り直してみるならば、まず時代を代表する大指揮者でもあったマーラーが指揮した演奏の記録は、1911年に51歳を迎えることなく訪れた彼の早すぎる死によって一つとして遺されることがなく(但し、前世紀末に没したブラームスのピアノ演奏が、ちょうどエジソンの発明したばかりの録音機に録音された記録があり、マーラーより5歳年長のニキシュについても、マーラーの没後、第一次世界大戦まで存命だったが故に、彼が指揮した演奏の録音が残されているということは思い起こしておいてもいいだろう)、僅かに1905年11月9日にライプチヒで記録された自作のピアノ演奏のピアノロール(ウェルテ=ミニョン)が幾つか遺っているだけであるということは良く知られているだろう。そしてマーラーが(それが記録され、再生されることを恐らくは知った上で)指揮をするのではなく、ピアノで弾いた自作が何であったかといえば、第5交響曲第1楽章、第4交響曲第4楽章、「今朝、野辺を行くと」「私は緑の野を楽しく歩いた」の4曲であり、このうち第4交響曲第4楽章は歌曲「天国の生活」そのものなので3曲までもが歌曲のピアノ独奏編曲ということになる。なお、当時のマーラー自身の展望について言えば、同じ年の夏にはマイアーニヒで第7交響曲の第1,3,5楽章のパルティチェルを書き上げたものの、第6交響曲の初演は翌年の5月27日のことであり、前年にケルンで初演し、この年も5月にストラスブールで演奏し、その後12月にはウィーンでも演奏した第5交響曲が「最新作」であった筈である。
それゆえマーラーの演奏史上初めての「録音」の可能性があるのは、マーラーの没後、疑義があるものの1915年の録音という説が存在する、ソプラノ歌手のシュトゥックゴルトが管弦楽の伴奏で歌った歌曲「この歌をひねりだしたのは誰」のようである。それに続くのが1921年に録音された「私は緑の野を楽しく歩いた」で、やはりシュトゥックゴルトが管弦楽の伴奏で歌ったもの。その後、交響曲の方は、1924年のフリートの第2交響曲、1926 年のメンゲルベルクの第5交響曲第4楽章(アダージェット)、1930年の近衛秀麿の第4交響曲と続くが、歌曲の方は、これもまたあまりに著名なレーケンパーがホーレンシュタイン指揮の管弦楽伴奏で歌った1928年の「子供の死の歌」に先立つものとしては、1926年にミズ=グマイナーがやはり「この歌をひねりだしたのは誰」を今度はピアノ伴奏で歌ったものの録音があるようだ。その周波数特性の音域の制約から、辛うじてそれらしく聴こえるのがまず人間の声だということで、アコースティック録音の時代のレパートリーの中心は声楽曲であったらしく、そのレパートリーの一端は、例えば1925年に出版されたトーマス・マンの『魔の山』に含まれる蓄音機に関する挿話からも窺えるが、マーラーの作品の場合においても、最初期から戦後まもなく辺りまでの時期について言えば、1曲がSP盤の片面に収まるという長さも寄与してか、控え目に言っても歌曲の録音が相対的に多いと言えそうで、1950年代までは録音に占める交響曲の割合は6割に満たない。その後LPレコードが普及していった1970年代までは概ね2/3を交響曲が占めるようになり、1980年代になると更に7割程度まで交響曲の割合が上がる。(それに対していわゆるマーラー・ブームを経た後の2010年代の直近の10年は再び歌曲の割合が上がっている。交響曲のリリースは前の10年に比べて減っているのに対して、歌曲は寧ろ増え続けているようなのだが、その原因についての推測はここでは控えることにしたい。交響曲の録音でセッションが組まれることがほとんどなくなってしまったのは、レコードの流通自体が加速化させたのは間違いない作品の普及により習熟が促されて演奏の精度が上がったこと、そのことの結果としての演奏技術の向上と均質化から、一握りのスター演奏者の録音をセッションを組んで収録するという時代が去った一方で、録音技術の進展によって収録・編集が容易になって流通経路が多様化したことで、大資本のレコード会社以外でもリリースが容易になったこともあろうし、交響曲の全曲録音が両手に余るほど蓄積され、レパートリーとして定着する替わりに新たな録音をそこに加えることのマーケットへのインパクトが喪われた結果、異稿や編曲に関心が寄せられるようになったことなども影響しているのかも知れないが、いずれにしてもここでの関心からは外れるので、この件はここではこれ以上扱わないこととする。)現時点でもなお、録音されたまま流通せずに眠っていた過去の演奏記録が発見され、リリースされつつあるので、直近10年のみならず、それ以前の録音記録の傾向についても若干の変動は見られるかも知れず、確定したものとして語ることには慎重になるべきかも知れないが、少なくとも現時点での展望としては、マーラーの演奏記録の年代記の中で、初期においては相対的に声楽曲が優位にあったことは認められるのではないかと思う。声楽曲ということで「大地の歌」を含め、更に第2交響曲や第4交響曲がその一部に歌曲を内包している点を考慮すれば、人間の声の存在感は一層増すことになるだろう。
だが今回、ディスコグラフィーを整理する中で、古い時代の声楽曲の録音に数多く接してみて、そうした定量的な水準に留まらない、寧ろ少し違った位相での「声の優位」とでもいうべき感覚を強く抱くに至ったのである。より正確な言い方を期するならば、マーラーの音楽が本質的に備えている特徴である「声の優位」ということについて、今回改めて、古い時代の録音記録に接することによって再認したということになるだろうか。言う迄もなく、歌曲との関わりという点に関してさえ、単に声楽つきの交響曲についてのみ言えることではなく、声楽を伴わない交響曲においても歌曲との直接的な関りには枚挙に暇がないし、直接的な歌曲との連関が指摘できない場合においてすら、「声の優位」というのはマーラーの作品全体を貫く特徴と言えるだろうが、そうした消息について、今回、記録された「声」に数多く接することで、分析の結果というよりはより身体的な次元で感じ取ったというのが真相に近いだろうか。マーラーの歌曲を久し振りに聴いて、人間の声が心の奥底まで染み込むような感覚を久し振りに体験して、一方では、青土社の『音楽の手帖 マーラー』所収の幾つかの文章にあるような、戦前や戦後まもなくの演奏を聴いた時の印象の記述を思い起こし、他方では、マーラーとは一見したところ無縁な、現代のメディアアートの文脈での試み、就中、三輪眞弘と佐近田展康によるユニット、フォルマント兄弟のリアルタイム自動音声合成を中核にした「声」に関する試みに対する自分の関心や、アルゴリズミック・コンポジションを作曲の方法論の中心に据えている三輪眞弘の作品における「ありえかたも知れない伝統」の仮構、更にはそれと構造的に関連する、人の声で歌われる歌が担う、或る種特権的とさえ言える強度への自分の共感の来歴を再認するように感じられたのだった。
今ならマーラーの歌曲のこれまで述べてきたような特質の端的な要約として、それを「ありえたかも知れない民謡」と位置づけることができるように感じられる。それは今日の極東であれば柴田南雄の『音楽の骸骨の話』を素材として三輪眞弘によって作曲された「極東の架空の島の唄」の最も先駆的な形態であったのではなかろうか。歌曲と交響曲の不思議な混淆。交響曲の一楽章がそっくり管弦楽伴奏の歌曲であること、それはマーラーの器楽がとことん「歌う」ものであるという特質に一方では通じ、それと同時に、言葉と反省的意識の侵入という、もう一つの特質に通じてもいる。更には歌曲が伝統的な主観的抒情詩でなく、寧ろ作者たるマーラーその人でない「語り手」による叙事であることが、アドルノの言うところのマーラーの交響曲の「小説」的な時間的構造を支えるものであることに思い当たる。おまけにスラブ語の文化圏の只中のドイツ語の言語島(当時のオーストリア=ハンガリー帝国領のイーグラウ、今日のチェコ共和国のイフラーヴァ)に育ったユダヤ人という、幾重もの疎外を孕んだ出自もあって、一見したところ民俗的、土着的に見える要素が、実際にはアドルノの言う「仮晶」としての「ありえたかもしれない」伝統芸能としての民謡の「素材」として用いられているということが、1世紀前の半ばは無意識的であったかも知れない「逆シミュレーション」(三輪眞弘)の先駆形態として捉えることができることに気付いたのである。同時代の、同郷の、だがマーラーとは異なって、自分が帰属する民族の集団的記憶に属する民俗学的な遺産であると見做すことができた多くの作曲家たちとは異なって、三重の意味での異邦人であり、「根無し草」であったマーラーは、自分が生まれ育った生活圏の中において土着であった筈のものから、もしかしたら意図せずして架空の民謡を産み出してしまったのではなかろうか。そして、その民俗的要素とは縁も所縁もない1世紀後の極東に住む子供にとって、だがその架空の民謡こそが唯一、自分の居場所だと感じられる場所を垣間見させてくれる存在であったというのは、自分自身が(幸いにして民族的な差別や迫害とは概ね無縁でありながらも)今度は文化的・精神的な意味合いにおいて根無し草であることをどこかで感じとったが故のことなのかも知れないと、今になって思うのである。
一見すると荒唐無稽な牽強付会ととられるかも知れないし、勿論、長い径庭を経た末のことになるかも知れないが、それでもなお、上記のような位置づけから出発することによってのみ、マーラーの作品に関して指摘されてきた様々な特徴を、首尾一貫した展望のもとに再配置できるように私には思われる。同時にそれは交響曲を「手持ちのあらゆる手段を総動員して一つの世界を構築すること」とするマーラーの定義に通じていて、それを歌曲の側からの展望として裏返し、翻訳・変換したものでもあるだろう。肥大した自我の誇大妄想の産物であるという嫌疑にも関わらず、第3交響曲の廃棄されたマーラー自身による拙い標題が示唆するのは、そこでの語りの主体は「私」ではないということである。更に加えて、一般にはこうした消息とは無関係であると了解されるに違いないとはいえ、敢えてここにシェーンベルクが第9交響曲について述べた非人称性を突き合わせるのは不当な牽強付会だろうか?シベリウスとの会話でマーラーが述べたように、「世界」として交響曲は確かにありとあらゆるものを包含しなければならないが、その時に留意すべきは、その世界はもともと騒音のみが支配する混沌などではなく、最初から「うた」が存在していたという点なのではないだろうか?「言葉」にさえ先駆けて「はじめに「うた」があった」のであり、「うた」が世界への通路であり、そしてその「うた」は常に既に、外部からの他者の呼びかけと、それに対する反応として対位法的なものではなかったろうか。それは意識とか自己の根拠であり、それらに先行して、それらを基礎づけるが故に、意識が成立し、自己が確立した時には忘却されていて、人は改めて「自分のうた」を探すことになるのだろう。
ここで一つ、現時点ではそれにどう応答するかは問いとして開かれたままではあるが、興味深い指摘に触れておくことにしよう。ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー 資本主義と分裂病』の「リトルネロについて」の章にはマーラーへの言及が含まれていることに以前注目したことがある(「大地の歌」への参照2件(ジャンケレヴィッチ『死』、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』))が、その言及は、実はここでの「ありえたかも知れない民謡」という視点と接続可能ではなかろうか。叙述の順序からすると上で参照した箇所よりも後の部分になるが、この章の最後のパラグラフはこのように始まるのだ。
後続のところで参照されるのは(ジゼル・ブルレを介した)バルトークなのだが、マーラーに親しみ、マーラーに関する言説に容喙した人であれば、上の文章は寧ろそっくりマーラーにこそ当て嵌まるものと考えるところだろう。「フレール・ジャック」は勿論第1交響曲第3楽章のカノンの素材だし、鳥の声(第1交響曲第1楽章、第2交響曲第5楽章、第3交響曲第4楽章、『大地の歌』の第5楽章、第6楽章など枚挙に暇がない)、ウインナ・ワルツ(一つだけ挙げるならば、何よりも第5交響曲第3楽章だろう)、牛飼いの鈴(第6交響曲と第7交響曲で用いられるカウベル)に加えて民謡が並んでいるのを見れば、これらすべてを素材として「内側から変形し」(アドルノのいう「ヴァリアンテ」の技法を思い浮かべよ)、「脱領土化して、(…)音楽機械に属する宇宙的リトルネロを作り出す」とは、まさにマーラーのことを言っているとしか思えない。「音楽機械に属する宇宙的リトルネロを作り出す」とは、マーラーの言葉に翻訳すれば「手持ちの手段を総動員して世界を構築すること」という、あの第3交響曲に関しての発言の言い換えでなくてなんだというのか?「凡庸な、あるいは劣悪なリトルネロ」で思い浮かべるのは、クヴァンダーとの対談でシノーポリが引き合いに出したウィーンのナッシュマルクト(カールス広場とケッテンブリュッケンガッセの間にある食品市場のこと、立風書房『マーラー事典』所収の同じインタビューの別の訳では何故か「菓子屋」と訳されていて、世にも珍妙な、およそ意味不明な訳文になっているので注意)で「何か食べられるものはないかと廃物の中を探すといったようなこと」(ジュゼッペ・シノーポリへのゲオルク・クヴァンダーのインタヴュー「マーラー・ルネッサンスと世紀転換期への回帰」、キューン、クヴァンダー編『グスタフ・マーラー』所収,泰流社, p.392)といった譬えではあるまいか?或いは、柴田南雄さんのような教養ある聴き手をうんざりさせる、マーラーの音楽における「通俗的」な要素の数々、ハンス・H・エッゲブレヒトがDie Musik Gustav MahlersにおいてVokabelという言葉で言い当てようとした、かの「日常語的語調(umgangssprachlicher Ton)」のことではないだろうか?
ところでマーラーに関してこのような逸話がある。マーラーは幼少時にアコーディオンを与えられると、自分が接した様々な音楽を悉く記憶し、アコーディオンでそれを演奏することができたというのだ。このエピソードが広く流布した理由は、―語った本人の意図とは別に―マーラーの音楽的才能の発露の早さを示すことでその天才を証しすることであったのだろう(注:このエピソードの典拠はナターリエ・バウアー=レヒナーの『グスタフ・マーラーの思い出』中の「アッター湖畔のシュタインバッハ 1896年夏」の章の「子供時代の思い出」節であるから、このエピソードがマーラーによってナターリエに対して語られたものであることは事実と考えていいだろうし、本人が語ったことであるならば、仮にそのうちの一部が、本人の記憶の中で変形し、事実とのギャップを含むとして、マーラー本人の自己認識の一部であることは依然として成り立つが故に、ここでの議論における有効性は変わらない。ヘルベルト・キリアーン編、ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.144~148 参照)。
だが私にとってその挿話は別の疑問を惹き起こすものであり、恐らくその疑問はマーラーにとって「うたう」ことが何であったかという問いに根本的な部分で通じているように思われるのである。このエピソードに関して私が抱く謎は至ってシンプルで素朴なもので、「何故マーラーは自分の声で歌わずに、専らアコーディオンで演奏したのか」という点に存する。いや、現実にはマーラーはアコーディオンで伴奏をつけながら歌ったのが、そのように若干変形されて伝わったという可能だってあるだろうから、その場合には上記の私の問は実証的な水準では意味を喪うことになるだろう。だが私にはこのエピソードは、別のことを告げているように思えるのだ。それはマーラーが、その音楽的才能の最初の発露の時点で既に「固有の声」というのを持てなかったということ、更にそれに加えて、最初から自分固有の声を補綴し代補するものとして楽器が必要だったのではないかということ、誰のものでもない楽音に、自らの声をではなく、自らに語りかけてきたものの声を託したのではないか、つまるところ自分の中に響き渡るのは、常に他者の声なのだということを告げているのではないかということである。(そしてそのことと、指揮者という役割の選択の間にももしかしたら関係があるのかも知れない。)そしてこのエピソードを念頭に置いて先に触れたピアノロールのことを考えた時、一見したところ単なる状況の制約に由来するものでしかなく、事実としてもそうであったのだろうが、マーラーが記録のために取り上げた作品のうち3つまでもが歌曲であって、それをピアノ独奏用に編曲したということが幼年期のアコーディオンの演奏の再現のように感じられはしまいか。更には、これはさすがに牽強付会に過ぎるだろうが、第5交響曲の第1楽章、即ち葬送行進曲を選択したことの方については、グスタフ少年が最初に作曲したのがポルカ付きの葬送行進曲であったという幼少期のエピソードの続きを思い起こさせはしまいか?
それを踏まえて1世紀後の極東を見渡した時私が見出すのは「フォルマント兄弟」のリアルタイム音声合成を行うMIDIアコーディオンである。時あたかも新型コロナウィルス感染症の蔓延によって自分の声で歌うことが禁じられた状況に置かれた人間は、コンサートホールの舞台をぎっしりと満たす大規模な管弦楽や声楽を必要とするマーラーの音楽を満席の聴衆の一人として聴くことを禁じられてもいるのだが、ヴォーカロイドにマーラーの歌曲を歌わせることが普通に行われるようになった今日、そうした状況に置かれた人間にとってのMIDIアコーディオンと、年端も行かぬ子どもであったグスタフ少年にとってのアコーディオンとの比較は見た目程突飛なことではないのではなかろうか?
ヴォーカロイドが「うたう」マーラーの歌曲を聴いて感じるのは、一方では、もしかしたら他の、より本来的な抒情詩としての歌曲とは異なって、マーラーの歌曲の寄る辺なさ、「誰のものでもない」という側面が、人工音声で歌われるに相応しいものなのかも知れないという認識を伴った、ずれを自然なものとして感じるパラドキシカルな印象であり、だけれども他方では、人間の声の歌う、そしてそれに曳き摺られるようにして、伴奏のピアノが、或いは管弦楽の全てのパートが(打楽器でさえも)歌い出してしまう過去の演奏の録音記録に結局のところそれは及ばないというようにも感じるのである。そしてその点こそが、ヴォーカロイドとリアルタイム音声合成MIDIアコーディオンとの間に存在する決定的な差異であり、かつグスタフ少年のアコーディオンと通じる点なのだ。ヴォーカロイドに通じるのは寧ろ「うたうこと」の一回性を持つことのない録音・再生技術に基づく複製芸術、再び三輪眞弘の言葉を借りれば「録楽」の方なのだ。技術的な制約の大きい嘗ての録音を再生した貧弱な音響においてさえ人間の声を聞き取ることができる同じ耳が、今日ではもしかしたら客観的には怪しい部分があるかも知れないヴォーカロイドの歌唱さえ、歌詞を見せられさえすれば、恰も人間が歌っているのと同じようなものとして聴き取ってしまう。アコースティック録音において「最もそれらしく聞こえる」というのには、単なる録音技術に加え、それよりも寧ろ、人間が「人間の声」を聴くことに最適化された聴覚システムを持っているという事情が与ってはいないだろうか。上でも触れたトーマス・マンの『魔の山』の中でアコースティック録音のSPレコードをハンス・カストルプが聴くシーンにおける「幽霊性」の由来もまた、単なる物理的音響に過ぎないものに人間の声を聴き出そうとする人間の知覚の基本的な構えに基づくものではなかろうか。その一方で、21世紀を迎えた以降の最近の神経科学の研究においては、知覚は一般的にそう了解されているように受動的なものではなく、能動的に外界の理解を行っており、ボトムアップの感覚信号における特徴検出としてではなく、外界の状態を予測し、その予測の誤差を検出して最小化するように動作しているというカール・フリストン等の「予測する心」のパラダイムが有力視されるようになってきているが、それは本来的なものが向こう側にあって真理の根拠となるという立場とは異なって、「ありえたかも知れない民謡」の仮構と親和的であるだけでなく、脳を予測する機械と見做し、心を世界についてのシミュレータとして捉えることを通じて、交響曲の創作を「手持ちのありとあらゆる手段を使って世界を構築すること」と定義したマーラーの了解とも親和的ではなかろうか。この立場に立つならば、世界を構築することとは、世界を知覚し、認識することと別の副次的・派生的な行為などではなく、無意識の裡に為される活動を意識化し、リニアな物語として編集したものに他ならないことになるだろう。
「予測する心」のパラダイムが、マーラーの同時代人であるばかりか、直接面識があった可能性もあるとされるヘルムホルツが展開した自由エネルギーについての熱力学的理論にその基盤を持っている点は、偶然とは言え興味深い。マーラーへの影響についての言及を含むフェヒナーに関する研究書である岩渕輝『生命の哲学』によれば、マーラー自身の世界観は、ヘルムホルツの学派よりも寧ろフェヒナーのような広義での生気論的な発想との親和性が高かったとされているようだが、近年の意識や心に関する理論を踏まえた時に感じられるのは、今日の問題意識とマーラーの時代のそれの連続性であり、我々が同じエポックの反対側の端に居るということであり、当時は埋めることのできない対立と思われたものについて、今日であれば新たな発見と理論に基づいたより肌理の細かい議論が可能になっているということである。その最も顕著な例を一つだけ挙げるならば、こちらもマーラーの同時代人であり、同時期にウィーンに住み、マーラーと同じ精神的な圏内に居たと言ってよく、更にはライデンにて、本格的なものではなかったにせよ、分析者・被分析者という関係性の中で、被分析者の位置に立ったマーラーと言葉を交わしたことがわかっていて、直接的な交流があったことがわかっているフロイトの精神分析に関しても、近年、脳神経科学との架橋が試みられており、ソームズの『意識はどこから生まれてくるのか』のように、ダマシオとフリストンの理論を介してフロイトの理論を再評価するといった試みが今まさになされているのである。通常は当時の文脈に帰着させて了解されることが専らであり、そのような了解を前提とする限り、既に今日においては陳腐で賞味期限の切れたものであることになるであろうマーラーの「世界観」なるものも、今日の問題意識に照らして再解釈することが求められているように感じられる。「ありえたかも知れない民謡」という観点にしても、例えばマーラーが用いた旋律が、ボヘミヤの民謡やユダヤの旋律に起源を持つものであるかどうかについての実証的な議論や、マーラーのある旋律が先行する誰それの作曲家のしかじかという作品の引用であるかどうかといった議論が学術的には意味のある問であったとして、だが1世紀後の極東の子供の耳に響くものとの関わりは慎重に言っても希薄、実質的にはほとんど皆無である。その時、その子供に対して、伝統からの断絶と無知をもって聴取の資格なしと断定するのではなく、そうした子供にすら聞き取れるものが何であるかを確認したいというのがここでの立場であり、上に述べた様々な指摘の中でたとえ一つだけであっても、マーラーについて言われてきた様々なことを今日の問題意識の中に再配置するための視点の一つたりうるならば、この覚書の企図は達成されたことになる。
(2021.5.23-24 マーラーの命日のために準備したものの未完成に終わった未定稿を補筆の上公開, 5.27-9/7.12更新。8.14自由エネルギー原理に関連してソームズによるダマシオを介したフロイトとの架橋の試みについて追記。2022.5.14 幼年時代のアコーディオンの逸話の典拠について追記。2022.12.30ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』について追記。2024.6.24 noteにて公開)