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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(9)

9.

何人かが指摘する箇所。

Pauvre Jérôme ! Si pourtant il savait que parfois il n’aurait qu’un geste à faire, et que ce geste parfois je l’attends…

例えば川口篤は、「『狭き門』で作者が書きたかったもの、書かねばならぬと信じたものは何か?アリサのピューリタニスムという表面のテーゼに対する 裏面のアンチテーゼではあるまいか。」とし、それが上記の「一句に要約されるかと思う。」としている。そしてそれを敷衍して「つまり、人間性の 回復とでも言ったらよかろうか。」とし「『狭き門』は、自己抑制の行き過ぎ、を戒めたものと解したらいかがであろう?」としている。

これとほぼ同じことを淀野隆三も言っている。曰く、「ジェロームとの應接の度ごとにますます宗教的になつてゆくアリサの姿は、一見、 アリサ自身の自發的な精進の結果によるように、この小説では極めて自然でデリケートな筆で描かれているので、ジェロームの無知に 由来する應接の齟齬は讀み過されやすい。」「ジェロームはあまりにも察しがなさすぎる青年に書かれている。彼とアリサの應接は最初 讀者をはらはらさせるが、しまいには腹立たしくさえなる。」そして、それが作者の狙いであると、つまり、「もしジェロームにして今少し 氣がきけばアリサはこうはならなかつたであろうと別のアリサを想像する氣持を讀者が起こすことを、ジイドは豫期しているのだ。だから この小説では、ジェロームに對する讀者の忿懣が作者の批判に代わるのであつて、ジイドは批判をすべて讀者に委ねている。」 更には、「ジイドはアリサの禁欲主義を決して肯定していない。」として上の部分を引用するのだ。

だが、そもそも、ジイドが全面的に淀野が読み解いたように読者を誘導している と言えるだろうか。淀野のような言い分は、いわば「白痴」のエウゲニーによるムイシュキンの行動への批判のようなものだ。それは妥当な 批判だが(ムイシュキン同様、ジェロームもそれを認めるだろう)、一点だけ抜け落ちている点があって、だがその一点が 致命的なのだ。それは個別的な対他関係の「すべて」をわかった上でのものではないし、いわばアリサの「顔」が見えていない批判 なのだ。(奇しくもムイシュキンがエウゲニーに答えた内容と見事に一致している。) 百歩譲って、ジイドの意図がまさに淀野の言うとおりだとして、作者の意図通りに読者が読まないといけないことはない。

一方、若林真は、以下の部分について、「ある夜など彼女は、しどけなく長椅子に寝そべってみたりしますが、彼女らしからぬこの姿勢は、 彼女が激しく憎みつづけてきたあの淫奔な母親の好む姿勢ではなかったでしょうか?ジェロームから男性的な一つの行為、、大胆な一つの 攻撃がありさえすれば、アリサの前に立ちはだかっている「徳」の壁も、あるいはくずれ落ちたかもしれません。」と書き、こともあろうに ジェロームの無作為を責め、彼の理念の犠牲者であると決め付けてみせる。

J’étais assise sur le canapé, ou plutôt – ce qui ne m’arrive presque jamais – je m’étais étendue, je ne sais pourquoi. L’abat-jour abritait de la lumière mes yeux et le haut de mon corps ; je regardais machinalement la pointe de mes pieds, qui dépassait un peu ma robe et qu’un reflet de lampe accrochait.

そもそも若林の所論は或る種の転倒、心理的な動力学に対する無視の上に築かれている。アリサは「衰えをかくすために、日に日に 「徳」の厚化粧をしていかざるをえ」ない訳では全くない。ジェロームが「盲目でその間の事情をいっこうに察しない」かどうか、 「アリサの本心を知ろうともせず」かはおくとしても、「日々苦しみもだえている彼女に感嘆し、ますます恋心をつのらせ、自らも恋人に ふさわしく苛酷な戒律に生きようとする」と言うに至っては、別のレシをでっち上げていると言わざるを得ない。「たまりかねたアリサは、 幻に恋をしてはいけないとジェロームに訴え」るにも関わらず、「雲の上を歩んでいる彼にはまったく通用しない嘆き」であるとはどういうことか。

アリサの中で、「霊の女」と「肉の女」が葛藤するというのは間違いではないだろうが、その葛藤はアリサの内部に内面化されているわけで、 ジェロームはその葛藤に対して(ナスターシャの葛藤に対してムイシュキンがそうであったように)無力であったに過ぎない。その葛藤は、 ジェローム自身の物でもあった筈だ。時間的にはアリサの日記の上の叙述は第7章に対応している、そこでジェロームは Car si je ne trouve aujourd’hui nul pardon en moi pour moi-même de n’avoir su sentir, sous le revêtement de la plus factice apparence, palpiter encore l’amour, je ne pus voir que cette apparence d’abord et, ne retrouvant plus mon amie, l’accusai… と記している。若林の「盲目でその間の事情をいっこうに察しない」「アリサの本心を知ろうともせず」は、ジェローム自身のこの回想に基づいているのだろうが、 「幻に恋をしてはいけない」というアリサの訴えは、厚化粧をした自分を幻だと言っているのではなく、過去の自分に恋をしているといって ジェロームを責めているのであって、少なくとも正確ではない。結婚を、幸福を望んでいたのはジェロームの方であって、それを拒んだのはアリサなのは 厳然たる事実なのだ。

同じ第7章の少し前で、ジェロームはこう言っている。

Hélas ! je ne soupçonnais pas la subtilité de sa feinte, et j’imaginais mal que ce fût par une cime qu’elle pourrait de nouveau m’échapper.

ここで言っているアリサの駆け引きの微妙さは、「徳」と「愛」のベクトルのずれの認識についての決定的な誤解によるものであって、単にジェロームは その2つが最終的には一致し、従ってその折には「幸福」に到達できると考え、アリサは一致を最終的に拒んだということに過ぎない。 「最終的には」というのは、アリサの心も時間の経過とともにある軌道を描いているのは確かだからだが、けれども、ジェロームが「遅すぎた」のかと 言えば、結局のところそうではないだろう。ドストエフスキーの「白痴」のムイシュキンとナスターシャの関係は、一見したところまるで異なるように見える。 だが、アリサの裡に巣食い、最終的にアリサを支配するに至った或る種の自己破壊・自己否定の衝動は、ナスターシャのそれとどこかで通じているのだ。

総じて、作者がジェロームに語らせる事後的なコメントは混乱を極めているように思われる。一方では、 Eh ! sans doute elle avait raison ! je ne chérissais plus qu’un fantôme ; l’Alissa que j’avais aimée, que j’aimais encore n’était plus… Eh ! sans doute nous avions vieilli ! と言いながら、直ちに、Sitôt abandonnée à ellemême, Alissa était revenue à son niveau, médiocre niveau, où je me retrouvais moi-même, mais où je ne la désirais plus. といった凄まじい無理解(これでは、物語の結末の、Peut-être plutôt à l’idée qu’elle se faisait de moi…も空疎なものに感じられかねないほどだ)を示すかと思えば、VIII.の末尾では、はっきりと、 Mais la retenir, mais forcer la porte, mais pénétrer n’importe comment dans la maison, qui pourtant ne m’eût pas été fermée, non, encore aujourd’hui que je reviens en arrière pour revivre tout ce passé… non, cela ne m’était pas possible, et ne m’a point compris jusqu’alors celui qui ne me comprend pas à présent. と、まさにムイシュキンがエウゲニーにしたのと 等価な抗弁をしてもいる。個別的な対他関係の「すべて」をわかった上でのものではないし、いわばアリサの「顔」が見えていない批判は 皮相である、というのはここでの問題にとって、決して表面的なものではない。寧ろ、こここそがポイントなのだ。ナスターシャの 選択に対するムイシュキンの無力と、アリサの選択に対するジェロームの無力は厳密な比較に値するだろう。そうしてみればジッドと ドストエフスキーのその後の軌道の懸隔は大きい。ここで一度両者の軌道は交わったものの、ジッドには「カラマーゾフの兄弟」が書けなかった。 勿論、ここでの無力に抗する仕方は、若林が持ち出すような男性的な一つの行為、大胆な一つの攻撃などでは断じてない。 恐らく、ジッド自身、「狭き門」を仮に批判とイロニーを込めて書いたにせよ、さすがにこうしたあまりに粗雑な「解決」には 怖気を奮って否定したのではないかと私は思うが、一方で、ジッドには解決の糸口が見えていなかった、あるいはわかっていても それを拒んだらしいのは、後の「田園交響楽」、恐らくジッドにとって最後の機会であり、しかもその機会をジッドはまたもや 批判とイロニーによって自ら引き受けることを避けることで逃してしまったことからも想像がつく。

若林の主張は或る種の勇み足であるとして、だが翻訳者が揃いも揃って同じ箇所を参照し、同じことを言うのはどうしたわけか? 何かそこには、この作品を取り巻く環境からの投影があるように感じられる。例えば、ジッドがこの作品についてどう言っているかから始まって、 ジッドの創作の全体の中でのこの作品の位置づけ、ジッド自身のより一般的な考え方や行動、あるいはもう一度作品に寄り添うならば、 作品の成立史に纏わる伝記的事実などがそうした環境を構成しているのだろう。勿論、こうした環境の中で作品を解釈すること自体は 間違っていないどころか、研究としては寧ろ正しいことですらあるだろう。だが、個別の作品が含む、必ずしもそうした全体の展望に整序しきれない 力動は、そのようにして無視され、見失われてしまう。

例えば作者の意図ということを取り上げてみても良い。作者の意図というからには、それは意識的なものだろう。ここでは無意識的な抑圧された欲望を ロールシャッハテストのように作品に読みとろうとしているわけではなく、意識の平面に話を限定したとして、作品は作者の思想や心情に対して 必ずしも忠実ではない。おそらく「狭き門」においてそうであるように、批判的な意図をもって書かれたのに、批判にはならなかったり、逆に「白痴」の ように、意図が結果的に十全に実現できない場合もあるだろう。だが、意図の達成の度合いと作品としての価値は必ずしもぴったり一致するわけではない。 寧ろその一致は僥倖のような稀な出来事ではないか。

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