見出し画像

虹機械第2番「七つの照射」再演を聴いて

MUSIC DOCUMENTS 09 #4 あたらしいメディアが見せてくれる夢(企画:nothing but music)
2009年6月6日門仲天井ホール

三輪眞弘:虹機械第2番「七つの照射」(2008)Rainbow Machine #2 'Seven Radiations' ピアノ:井上郷子

虹機械第2番「七つの照射」の初演は今年(2009年)の1月24日に既に行われているのだが、残念ながら都合がつかず聴きに行くことができなかった。 井上郷子さんの演奏で再演されるという情報を得たものの行けるかどうかの判断がつかず、当日の朝予約をして門前仲町に向かう。土曜日で 翌日を気にする必要はないとはいえ夜のコンサートはつらいし、これは個人的な事情だが、私の在所からは門前仲町は遠い。前日までに蓄積した 疲労もあってめげそうになりつつ、とにかく今度は行ける状況にあるのだから行っておいた方がいいだろうと自分を説得して予約を試みると、何とか 予約ができる。この演奏会の企画者である伊藤さんやホールの代表である黒崎さんにはお手数をおかけしてしまった。この場を借りてまずは御礼を 申し上げたい。

門仲天井ホールは50席程のホールだが、演奏会は超満員の盛況だった。当日券の学生さんが次々と現れ、それにホールの方が丁寧に対応され、 補助席を用意されるのでなかなか始まらない。三輪さんは客席の不足を慮って「関係者だから」ということで席を立たれてしまわれた。東大駒場博物館の 自動ピアノのコンサートの時もやはりそうだったことを思い出す。自分が関係者のセミナーや講演のときには当然そうするよな、とは思いながら、些かの 戸惑いを覚えずにはいられない。こういう状況(ウィノグラードのいう「ブレイクダウン」の一種と見做すことができよう)での反応に、 自分が「部外者」であることが顔を出すのだ。満員の盛況は結構なことだが、会場を埋める人のうち私のような「部外者」が一体何人いるだろうか、 という疑問が頭を掠める。アトホームな雰囲気は好ましいけれど、いつも感じるあの閉塞感がここにもないとは言えない。私が属する社会集団のそれに 比べれば、ルーズという他ない時間に対する感覚も、「郷に入っては郷に従え」とは思いつつも馴れることがどうしてもできない。平日には幾つもの プロセスを並列で処理しなくてはならず、状況によっては分刻みで時間をやりくりしつつ生きている人間にとっては、全く異質の時間の流れなのだ。

ほっとするだろうと思うかも知れないがそれは見当違いで、コンサートホールではそうした時間の流れに従うことをいわば強制される。美術と違って音楽の場合、 途中で逃げ出すこともできないから、いらいらしたり苦痛を感じたりする場合も少なくない。「そんなら来るな」と言われそうだが、実は私自身も全く 同感で、何を好きこのんで只でも限定された自分の時間をこうした「苦行」に費やすのか、馬鹿馬鹿しいからもう行くのをよそうかと度々思うのだが、 あいにく自分が探しているものはそこにしかないのだから、何とか折り合いをつけるしかないのだ。このコンサートも終演は21時20分頃、でも、この「業界」では そんなことを気にしてはいけないのだろう。私はかなり極端な朝型人間で、自分の属する社会集団の中でも苦痛を感じることがままあるのだが、この「業界」では 決してやっていけないだろうな、と思う。

(ちなみにこう書いたからといって、コンサートの運営や会場のスタッフの方の対応、そして客席の雰囲気に不満があったわけでは全くない。寧ろ、 そうした意味ではとても好感の持てるコンサートであったことを強調しておきたい。こうした場が存在することは色々な意味で非常に貴重なことだと思う。 上でも触れたように、特に会場を運営される方々の熱意には頭が下がる思いがしたし、こうした催しにこれだけの人間が集い、熱心に演奏に耳を傾ける こともまた意義あることであると思う。誤解がないようにこの点については敢えて繰り返しを厭わず書き留めておきたい。)


何故上記のようなことを延々書くかといえば、それが素直な自分の反応だからというのもあるが、寧ろそれより以下の感想の前提を明らかにするためである。 客観的には成功であったに違いないこのコンサートを、だが私は率直に言ってあまり楽しめなかった。演奏は間違いなく素晴らしいもので、特に三輪さんの 作品と最後のリュック・フェラーリの作品のリアリゼーションは圧倒的だったのだけれども、にも関わらず、恐らくはコンサートの企画の方向性が、私の志向と 異なったものであったがために、三輪さんの作品以外については、(そのリュック・フェラーリの作品も含めて)演奏の卓越が作品に対する理解にちっとも 繋がっていかないという不思議な経験をすることになった。これは明らかに私個人の問題で、コンサートの質の問題ではないだろう。要するに、本来なら このコンサートを聴くべきでない人間が紛れ込み、貴重な席を一つ占領してしまっていたのだ。それを思えば三輪さんの作品の演奏がその締めくくりとなった 前半で帰ればよかったのかもしれない。だがそれはそれでその場にいらした作曲家の方々やコンサートの企画者に礼を失することになっただろうし、初めて 接する作品の場合、結果は事後的にしか知ることはできないのだから仕方ない。こういう受け止め方をする人間もいたというサンプルとして、とにかく簡単に コンサート全体についての印象をまず書いておきたい。
コンサートは「あたらしいメディアが見せてくれる夢」と題され、コンピュータ、映像、パフォーマンスや録音された、あるいは電子的に合成された音響が ピアノやクラリネットと組み合わされる作品が前半3曲、後半3曲演奏された。だがまずもって私には、どこが「あたらしい」のかがわからない作品がほとんど だったと言わざるをえない。技術的なディティールというのは「部外者」にはわからないから、そうしたディティールには今日のテクノロジーなしには実現できない「あたらしい」 何かがあったのかも知れないが、だとしたら件のタイトルは「部外者」のためのものではないのだろう。私はどちらかといえばアナクロ人間だが、その私ですら デジャ・ヴュやデジャ・アンタンデュを感じずにはいられなかったし、ピアノやクラリネットとの組み合わせ方が新鮮であったり、人間の声の変調とパフォーマンスの 重ね合わせによって結果として「あたらしい」何かが現れているようには感じられなかった。生の楽器の音とスピーカから出てくる音は全く異質なもので、 両者を「音楽的」に組み合わせるのは至難なことであるし、異なるメディアを組み合わせたり、特に相互作用させたとき、一方が他方のもつ内容の次元の 縮退した残滓以上のものを得るのはこれまた至難なことだと素人的には思えるのだが、そういう点でも何か肩透かしを食わされたような気分になった。 画像と楽音のリアルタイムインタラクションはコンピュータ・ハードウェアの高速化がなければ不可能なのだろうが、それは「音楽」の素材なり前提であって、 「音楽」そのものの如何なる担保にもなりえないし、表層的で極めて肌理の粗いものにしか見えないアナロジーは音楽の実質を些かも保証しない。 勿論、説明なり解説なりがどこかで停止するのは構わない。特に私個人としては別に新規性などに価値はおいていないから、別に「あたらしく」なくてもいい。 その先に「音楽」の豊かな実質があれば、そして今、ここでそれを聴く「アクチュアリティ」を感じ取ることができれば良いのだが、きっと私の側に素地が欠如しているのだろう、 私にはそれが聞き取れない。何というか、きっとあるに違いない作曲者の側の「必然性」とか切実さ(勿論、それは情緒的なものである必要は無く、 技術的なものであっても構わないのだが)が、ちっともこちらに伝わってこないもどかしさを感じ続け、自分がその場に相応しくない人間である気がしてきて、 最後にはかなり惨めな気分になってしまった。
例えば最後に演奏されたリュック・フェラーリの作品は1991年のものだから、最先端のテクノロジーの利用などといった意味での「あたらしさ」を期待するのは 見当違いかも知れないが、カーゲルのインタビューと恐らくはそのドイツ語通訳(こちらは女声)を編集したテープにあわせるピアノの演奏の間合いの良さと 音楽性の高さには圧倒されたものの、作品の意図は私には理解できない。編集されてはいてもカーゲルの話している内容は大したことはなく容易に 聴き取ることができるから、聴き手にその内容が理解できてしまうことは意図されているのだろうが、意味がわかってしまうことによって私は寧ろ当惑を感じてしまった。 (ただし私の語学力の限界で、フランス語に比べるとドイツ語の方は多少怪しいが。)その内容に私は特に関心もないし、カーゲルの主張に別段 共感もしない。もっとも私はカーゲルの「音楽」の方もおよそ関心がないし、如何にもヨーロッパにありがちなそらぞらしいインタビューと恐らくは「黄昏の国」の ある時代のコンテクストではそれなりに意味をもっていたに違いない、だが私にとっては不毛としか聞えないカーゲルの音楽とが「さもありなん」という感じで呼応しているのを いわば「事後的に」確認させられたのにはうんざりさせられたが。 だがここで致命的なのは、カーゲルの方はそれとして、フェラーリの作品自体の方も、なぜそんなことをするのかの意図が一向に見えてこなかったことである。 カーゲルを茶化す意図があったとも思えないし、まさか「井上郷子さんのピアノが素晴らしかった」という感想を引き出すことが狙いではないだろうから、 私には(カーゲルを聴く資格がないのは勿論)、リュック・フェラーリを聴く資格などないのだろう。そういう意味では三輪さんの作品を除く他の4作品についても同様で、 私はそれらを評価する資格がないと思われるので、ここではこれ以上書かない。端的に言って改めて自分が如何にメディア音痴か、アナクロ人間であるかを 痛感させられた。


三輪さんの作品は、基本的には昨年の2008年1月に発表された「新調性主義」に基づく作品で、コンピュータが初期値に従って生成した音の連なりが描く 軌道を予め記譜しておき、それを人間が演奏していくというタイプの作品の2つ目ということになる。1作目の「虹機械」はデュオのための作品で、 一方が他方の外部に立ち、相手の系の軌道を逸脱させる外乱となる趣向が含まれていたが、第2番はピアノソロのための作品であり、 外乱は系がアトラクタに収束したときに演奏者が「さっ」という掛け声を掛けることによって与えられる。いわばそれがノイズとなって軌道はアトラクタから脱出し、 再び遍歴を繰り返すのである。音の系列は伝統的な様式であればトッカータのような無窮動であり、ピアニストには或る種の超絶技巧が要求される。

上記のような作曲法が行われている故に、音の系列自体に作曲者の恣意が入り込む余地はない。だが、どのような初期値を与えるか、あるいはまた、掛け声を どのようなタイミングで入れることでどのように軌道をリセットするかについては、作曲者の選択が働いていることに注意すべきであろう。かつて12音技法が提唱された ときには「機械的」な作曲法であるという批判があったそうだが(もしかしたら今でもあるだろうか)、それがナンセンスであるのと少なくとも類比的には、 アルゴリズミック・コンポジションが「機械的」であるというのもあたっていない。伝統的な音楽で旋律を書く時、次にどの音を選ぶかに作曲者の恣意が働くことで 「個性」が現われるのと構造的には変わることはないのだ。サルにタイプを叩かせるといつかは偶然シェイクスピアの詩行を打ち出すことがあるだろう、という 有名な議論があるが、初期値の選択そのものをランダムに与えるのであれば、それとのアナロジーが成り立つことになるものの、実際にはそうではない。

更に加えて、そうして選択された音の軌道を人間のピアニストが弾くという「行為」が加わる。シンセサイザーによる自動再生でもないし、楽器だけアコースティクに してプレイヤーズ・ピアノに「演奏」させるのでもない。そして結果として、井上郷子さんの弾き出す音楽は、実に、端的に美しかった。確かに離散力学系の 与える軌道は、フレーズの再帰的な組み合わせによって巨視的な構造を得るような音楽とは全く異なった構造を持つことが多いだろう。だが、それを人間が 弾くとき、必ずしも恣意的に「解釈」を、「表情付け」をしなくても奏者の身体性がそこに析出する。音の粒は決して完全に均質にはならないし、その時間方向の 発展も時計のような単調さには決して陥らない。「機械のような正確さ」という比喩があるが、そのような比喩が相応しいと思われるような演奏でも、およそそれが 「音楽」である限り、実際に聴くことができるのは人間の身体の運動に他ならないし、実のところ「正確」ではあっても「機械的」ではないのだろう。 井上郷子さんの演奏はそうした三輪さんの意図を充分にリアライズしたものであったと私には感じられた。前回の「虹機械」の第1作の初演時にもそう感じたのだが、 ここで聴くことができる実現された音楽の豊かさは「新調性主義」の枠組みによって可能になっていて、その意味では前回に引き続き、今回もまた、優れた実演に よってその方向性の正しさが再び確認されたといってよいと思う。ただし、繰り返しになるが方法が無条件で結果を担保することはない。我々は作曲家が コンピュータに計算させることによって発見し、定着した音の連なりを、演奏者の身体を通じて受け取るのだ。作曲者が介入するポイントは伝統的な西欧音楽とは 異なったものであるし、演奏者もいわゆる感情表現をする余地こそないが、外部から想像する以上に、この作曲法の内部の空間の広がりは大きいに違いない。 それは「逆シミュレーション音楽」におけるような架空の音楽の伝統をまるまる一つ引き受けてしまう程度の大きさは備えていそうである。単旋律であることが 広がりを制限するように感じられるかも知れないが、原理的にはそれは本質的な制限ではないだろう。拡張するとしたらどちらの方向に向かうのが興味深いかは、 数学者が定理の証明を求めて彷徨うときと同じような嗅覚を必要とされるだろうが、裏返して言えば、ありあまる程の自由度がそこにはあるのだ。勿論、拡張が 必須なわけでもあるまい。まだ開拓すべき領域はそこかしこにあるに違いない。一体第3作はどのようなものになるのだろうか、興味は尽きない。否、そうした文脈を 持たない人が聴いたとしても素晴らしいと感じることができ、なおかつその豊かさと複雑さの背後にシンプルな法則性が存在するを感知できるような、そんな作品であり 演奏であったに違いないし、そのことが何よりも重要なことに思える。実現した作品がコンセプトを超えて端的に聴き手の心を捉えることに成功したとき、 そのコンセプト自体もまた成功したといいうるのだとしたら、「新調性主義」は成功しているといえるのではなかろうか。


企画者で司会・進行役もされた伊藤さんの発案で、三輪さんの曲の演奏が終わった前半の終了後に引き続き、既に物故したリュック・フェラーリを除く5人の 作曲家に対して演奏の順番に伊藤さんがインタビューをするコーナーがあったので、三輪さんとの質疑の内容を、記憶している限りでここに書きとめておくことにする。 客席のかなりを占めていた学生さんを意識してか、伊藤さんの質問はどちらかといえば基本的なものだったが、結果的に三輪さんの作品におけるメディアの扱いの 「あたらしさ」、あるいはより正確には特異性とでも言うべきもの(なぜなら、それは寧ろ或る種のアナクロニズムを含んでいるかも知れないから)浮き上がらせる ことには成功していたように思える。

最初は三輪さんの作品におけるコンピュータの利用のされ方についてであった。他の曲とは異なり、三輪さんの場合には作曲のプロセスで利用され、 最終的な作品は人間だけが弾くものになることが確認される。伊藤さんから、類似例としてコンピュータによる作曲の先駆事例である「イリヤック組曲」が引き合いに出され、 三輪さんがコンピュータの使い方としては寧ろ今日的ではないという答えをされていたのが印象的であった。ついで人間が演奏することの意義が強調され、 同じ音の並びをシンセサイザーで自動再生するのと人間がピアノで弾くのとではプロセスとして全く異なるという発言があり、コンピュータによる作曲という 共通性がある一方で、決定的な違いがあることが浮き彫りにされた。ついでコンピュータを用いることの狙いとして19世紀のロマン派的な音楽観を一旦断ち切ることが 目的なのではという伊藤さんの問いがあり、そうした狙いに関してジョン・ケージの活動が例として挙げられたのに対し、三輪さんはケージのアプローチとの共通性が 部分的に存在することは認めつつも、寧ろ中世における音楽のあり方への親近性を述べ、それこそが「メディアが見せてくれる夢」であるとして話を 締めくくられていた。

上記の最後の発言は、このコンサートが「あたらしいメディアが見せてくれる夢」であることを思えば、幾分か逆説的な響きを持っているだろう。発達し、変容する メディアを用いる結果が、こちらは「あたらしさ」の追求ではなく、それどころか文字通りに受け取れば遠い過去への回帰であるという意味においてそうだし、 その場ではそちらには話が展開しなかったが、その夢がいつでも「悪夢」に転化する危険と裏腹であるという点を三輪さんが意識していることは、これまでの 活動から明らかだと思われるからである。あえて言葉尻を捉えて言えば「見せてくれる」という言い回しには、伊藤さんはそのようにはおっしゃっていなかったが、 或る種の二面性があるということになるのかも知れない。一方ではそれはメディアを所与とし、自分が既に埋め込まれてしまっているメディアとの関係に 意識的であることなく、単純に作曲上の選択肢として、可能性として捉えるという無自覚な受動性を意味し、他方ではそうした「受動性」に既に陥っていて、 メディアの介入なしに夢見ることが事実上不可能になっているという状況認識を物語っているかも知れないからである。もっとも後者であれば、いっそ端的に 「見させられる悪夢」とでも言うべきなのではないかと私には感じられるが。私は年齢不相応に、しかもコンピュータを扱うことを職業としているくせに、 アナクロのメディア音痴かも知れないが、あるいはむしろそうであるがゆえにメディアと人間との関わりについて肯定的な展望を抱く気になど到底なれない。 一方ではマルチメディア・アート編集ツールのプレゼンテーションなど見たくないし、さりとてメディアを濫用しただけにしか見えない、一方的な コミュニケーション不全のパフォーマンスの押し売りもごめんである。(これまたパフォーマンス自体はしっかりとしたものだったと思うが、作品そのものの 聴衆とのコミュニケーションへの姿勢の方に疑問を感じずにはいられない。一体これのどこが「面白い」のか私にはわからない。例えば作曲者自身が 意味不明の音声を振りまきながら街中や地下鉄の駅を駆け巡り、息を切らしてビルの階段を昇り降りするこのパフォーマンスをするのであれば、それが 「あたらしいメディアが見せてくれる夢」とどう関係あるかや、今、ここでのアクチュアリティはおくとしても、もう少し別の見方ができたかも知れないが、、、) いずれに対しても私のような「部外者」はそうしたところに閉塞の、もっと言えば自閉かあるいは自足の徴候を読み取り、疎外感を感じることになる。 別にそれは珍しいことではなく、見慣れた状況であるとすら言えるのだが、だからといって「時間を損した」感じが無くなるわけではないのだ。 音楽は他人の時間を強奪する暴力を持っていることに音楽家は無頓着なのではないかとさえ感じてしまう。

否、もしかしたら(多分確実に)、そうした見方は「部外者」のものであって、もう一度「それなら来るな」と言われるのを覚悟すべきなのだろう。 私は音楽家ではなく、三輪さんがインタビューのなかで、その場では批判的なニュアンスで言及されていた「効率優先」(が少なくとも建前であり、実際に 最終審級でもある)の世界で生活の資を得ている。そこに無自覚に住まっているとは自分では思ってはいないが、無意識の裡に環境の影響は 受けてしまうものだ。「時間を損した」などという言い方は、そうした環境に染まった貧乏性の現われであるとして嘲笑されるのが落ちなのかも知れない。 ヘーゲル的な「世の成り行き」に流され、心が貧しくなった私には何も見えていない、聴けていないのかも知れない。だが、そんな私にだって関心の方向性はあるし、 だからこそ、こうしたコンサートに出かけていくのだ。メディアとの関わりを通して見えてくる人間のあり方、そこで自明性を剥ぎ取られ、問いに付されている人格とか個性とか、 そうしたものの行方は私にとって他人事ではないし、アクチュアリティを帯びたものである。そして現実に、そうした「世の成り行き」の只中においてメディアは「ブレイクスルー」を 惹き起こす「媒体」であって、メディアを介して見えてくるものがあることは確実であり、そういう意味では「あたらしいメディアが見せてくれる夢」に関しては、 いわば同床異夢なのかも知れない。そしてその多様な様相を示すことにこのコンサートの意義はあって、あとは聴き手がそれぞれに選択をすれば 良いのだろう。そうであってみれば結局のところ、三輪さん以外の他の作品については、私にはそれを聴く資格がないのだから、その価値がわかる人に判断を委ねたい。 私は上述のような主観的な印象を正直に書き付けるに留め、自分の無知と無能を対象に転嫁する愚だけは避けたいと思う。 それにしてもこのコンサートという制度、もう少し何とかならないものだろうか。これがメディア・アートの展示であれば黙って立ち去れば良いものを、 それができないばかりに潜在的な聴き手を逃しているのは確かなことなのだが。

ともあれ私に関して言えば、虹機械第2番「七つの照射」の素晴らしい実演を聴くことができたことをもってこのコンサートに足を運んだ意義は十二分にあった。 そしてそのことをもって満足すべきなのだろうと思う。

(2009.6.7初稿, 6.8加筆, 2024.6.24 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?