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「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」を聴いて

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」(世界初演)
小松一彦指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
2006年8月27日サントリーホール

今回のコンサートに行く前に、前作にあたる「弦楽六重奏のための 369 Harmonia II」―その初演に立ち会うことは残念ながら出来なかった―の 作曲者自身によるプログラムノートを読んだ私の心の中には、その文章の以下の部分がひっかかっていた。

「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。 そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか? もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」

(三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)

上の発言は私にとって非常に刺激的で重要なもので、実はこの新作初演に先立って、それに関して思ったことをまとめかかったほどなのだが、 この文章は演奏を聴いての印象を書き留めることが主旨だから、この点に主題的に立ち入るのは、弦楽六重奏版「369 Harmonia II」と併せて 作品についてトータルに考えることと併せ、稿を改めて行うことにしたい。
だが、それでもなお、上の発言に関連した幾つかの点が演奏を聴く際の背景になっていたのは事実なので、演奏を聴いての印象を書く前に、 まずそれについて簡単にまとめておきたい。

私にとってコンサートホールはおよそ身近な存在とはいえない。ほぼコンサートという場での演奏を前提に書かれた音楽ばかりを専ら 聴いているにも関わらず、である。一方、三輪の音楽は、もともとコンサートホールの制度から自由なものであった。 そもそも今回の新作の委嘱のきっかけとなった第14回芥川作曲賞受賞作「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」が初めての オーケストラ曲らしい。すでに以前から作曲者の問題意識にあり、また「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」においても 明示的に問題にしていたように、そもそもモダン・オーケストラによるコンサートという形態はロマン派の時代に成立した制度である。 ようするに私にとっては三輪が問題にしている側の音楽の方が、はるかに馴染みの深いものには違いない。だが、にも関わらず、 まさにそのために書かれた音楽を聴いているというのに、コンサートホールは決して私にとって居心地のよい場所ではない。 無論、音響的な側面で、実演に接する意味は大きいから、特に既知の作品を聴きにいく場合にはほとんどそれのみを目当てに 行くわけだが、それでも抵抗感は大きい。

その理由をここでときほぐすことはできないのだが、上の発言はそのポイントを衝いているように私には感じられた。 と言っても、全面的に我が意を得たりと思ったのではなく、どちらかといえば、いわば自分の中の蟠りを背後から言い当てられたような 気分になったのである。

所詮は消費者に過ぎない聴き手にとって、音楽は結局娯楽に過ぎないには違いない。だが、私個人は、それを単なる娯楽だとは 些かも感じていない。(「イケテナイ」という指摘の方については認めたとしても。)音楽にたち現れる自我と世界(や社会)との関係や、 意識のありよう(危うさや希薄化も含めて)に関心があって、そういった音楽を良く聴くが、一方で音楽が作者からのメッセージで あるという考えには共感できず、メッセージの送り手としての自我や、作者の意図のようなものにはまるで懐疑的である。

にも関わらず、だからといってそれを「儀式」と定義するのにも抵抗があるのである。 そもそも音楽の代理宗教化だって、典型的なロマン派的現象ではないか、というわけだ。勿論、そうした事態をひっくるめて問題提起 されているに違いなく、ロマン主義の時代において、既に宗教の社会における位置づけが変わり、それとともに宗教を含む社会的な 制度と音楽との間の関係もまた変容し、それゆえに音楽が自律的な価値を持たざるを得なくなったあげく、 娯楽としての消費財になるのを拒絶する選択が、しばしば自分を崇拝の手段とも対象ともする誇大妄想に陥ったという経緯を踏まえた上で、 今日における可能性を具体的に提示する試みであれば、これは是非実演に立ち会いたいと思ったのである。

従って、立ち会うといっても、それは聴き手である私にとっても切実な問題であるからには、高みの見物を決め込むというわけにはいかない。 コンサートホールで音楽を聴くことが自分にとってどういうことなのか、あるいはまた、個人的には恐らく根強い疑念を持っている「儀礼性」について、 コンサートホールでどのような経験ができるかを確認しよう、ということで、まさに問題となっているコンサートホールに向かったのである。

結果はどうだったかを先回りして言えば、熱心なコンサートゴーアーでもない人間が、オーケストラという制度を自明の前提とは 考えない作曲家の新作を聴きに行くという状況は、作品を聴くにあたって決してマイナスではなかったようだ。 演奏は、いわゆる普通のオーケストラ曲とは言いがたい新作の初演とは思えない立派なものだったと思う。 コンサートホールで実演を聴くのがこれほど新鮮で刺激的な経験だったことはあまりない。そして、もし再演される機会があれば、 もう一度コンサートホールに足を運んでもいい、というように感じられた。

以下、まずは印象を備忘のために整理しておきたい。あくまでも一度きりの聴取という限定された経験の記録であるし、 専門の音楽家ではない単なる享受者である故の誤解や、勝手な思い込みもあるに違いない。だが、これだけの刺激を受けたことに 対する素直な反応として、感想をまとめずにはいられない。是非再演を期待したい、という意思表示も込めて、印象を書き留めて おきたい。

「儀礼性」についていえば、最終的にそれを受け入れるかどうかは別として、とにかくコンサートホールでの経験には、常には見る影もなく すっかり退化してしまっているものの、どこかに「儀式的な」側面が存在すること、そしてそれが、「思想や激情や繊細な感覚の揺らめき」の 表現手段としての音楽を拒絶することで、顕わになったように感じられたということが、私にはとても印象的だった。

しかも、それは基本的にロマン主義的な姿勢といえる「思想や激情や繊細な感覚の揺らめき」の表現を拒絶する一方で、代理宗教・擬似宗教と しての音楽という、これまた際立ってロマン派的な在り様をそこに感じ取ったということではない。目的とされる救済が音楽の表現内容であり、 それでいて表現媒体である音楽自体が救済の手段、あるいは音楽そのものが啓示であるといった自己中毒を感じることはなかった。 それでいて、いわゆる「メタ音楽」的なあからさまな制度批判の批評性が持つ、怜悧さとひきかえの不毛さを感じることもなかったのである。 そしてそれにはアルゴリズミックな作曲方法が寄与しているように思われた。

私は以前に、三輪のアプローチに含まれる擬似カルト的な方向性の危うさとそれに対する自分の拒絶反応を書き記したことがあるが、 今回の演奏に関して言えば、音楽そのものからはそうした危うさは感じられなかった。寧ろ、コンサートという制度をうまく利用して、 意図したことを実現しているように思えた。こう書くと何でもないことのようだが、これは実際には大変に稀有なことだと思う。

私は1階席のやや前よりの席から聴いたので、指揮者を中心に、六角形に配置されたヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの合奏体の配置による 音の空間的なやりとりを音響として充分に聴き取れたわけではないが、そのかわり視覚的な効果、特に六角形の頂点の位置におかれた コントラバスの動きを見ることができたのは面白かった。 このコントラバスパートは、「浄夜」の編成による弦楽六重奏版の前作には当然存在しないのだが、このパートの追加は、 当否はおくとしても、作品に別の次元を加えていたように感じられた。

配置に関して言えば、中心に向いて円環を構成するように奏者が配置されるのは如何にも儀礼に相応しい。要するに聴衆に対して 演奏をしているのではないのだ。聴き手は盆踊りを遠巻きに眺めるような具合にそれを取り囲むようにして、演奏を眺め、聴くことになる。 もっとも舞台両翼とパイプオルガン側の席は売られていなかったので、本当に取り囲んでいたわけではないが。 一方で、奏者の背中、楽器の裏側から音を聴くことになるので、もともと空間的な効果よりは寧ろ視覚的な側面が勝っていて、 音響的にははっきり分離せずに中央で渦をまいて湧き出す音の塊を聴くような具合になる。

オートマトン的な作曲法で気になっていた点の一つとして、時間方向の構成の問題がある。「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」では ラヴェルのボレロの趣向を借り、かつ、三分音という微分音程の利用による音程の混乱によるエントロピーの増大という、 いわゆる「バグ」を逆手にとってパターンの反復の単調さを支えるという巧みさを披露したが、今回はそういうTour de forceはなく、 続けて演奏される「蛇」「虹」の2ブロック構造と、その内部でのコントラバスパートの音量の漸増、そしてコーダにあたる部分での急激な減衰で 区切りをつけていたように聴こえた。

曲はコントラバスの音のやりとりから始まるが、間もなく始まるフォルテでフラジオレットとトレモロを奏するヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの 合奏の独特の響きの運動に紛れて、コントラバスの響きはほとんど聞こえなくなってしまう。時折、フラジオレットのグリサンドを 弾いているのが視覚的にわかるのだが、最初のうちは、それと聴き取るのは難しい。それが、曲が進むに従って音量が増大して、少しずつ 浮び上がってくるのが印象的だった。(正確に言えば、フラジオレットのグリサンド自体の音量が変化するわけではない。バルトーク・ ピチカートの斉奏を挟みながら、通常の奏法、スル・ポンティチェロ―概ねフォルテで弾かれる―といった奏法がグリサンドと併せて 使用される。浮び上がってくる効果はそうした奏法の交代や、グリサンドのパターンの頻度によって得られているようだ。)

とはいえ、漸増の効果はすぐにそれと気づくような時区間では感じ取れないように巧妙に設定されていて、それゆえ音楽の運動が 静止しているのかそれとも微妙に進んでいるのか丁度区別がつかないくらいになっており、これもまた効果的だったと思う。いってみれば、 追加されたコントラバスの蛇の時間性が、非時間的な虹の運動に影を落としているような感じで、これは私には大層好ましく感じられた。 もっとも、残念ながら「369 Harmonia II」の実演にはまだ接していないので、比較しての印象ではないのだが。

弦楽六重奏のための「369 Harmonia II」では2部に分かたれていたらしい、「蛇」と「虹」の部分は、弦楽合奏版ではアッタッカで 演奏され、しかも「虹」の部分は圧縮されていたようだ。(後で楽譜を取り寄せて確認したところでは、小節数にしておよそ3分の1ほどの 長さのようだ。)演奏時間は20分くらいだろうか、もう少し聴いていたい、という気持ちにもなったのだが、長くないのは勿論のこと、 短か過ぎるということもない感じで、うまく設定されていたように思えた。

鮮やかなのは終曲直前、休止しているパートの奏者がヴォカリーズ(とはいえ発声は、これまた西洋音楽のそれではない)が 導入されるところで、ちょっと聴くと弦楽合奏の音響の効果と見分けがつかないように設計されていて、とても印象的だった。 伝統的な西洋音楽でも特に中音の弦楽器の音色があたかも人の声のように聴こえることはしばしば経験されることだが、 それを音響分析の結果に基づいて意図的に利用しているわけで、「虹の技法」のフラジオレットとトレモロのブレンドによる 独特の響きとともに、鮮明な効果をあげていたように感じられた。

多くの場合、伝統的な仕方ではない人声の導入は苦笑を引き起こしたり、居心地の悪さを感じさせることになるのだが、 ここでは背後にある設計上の合理性によってそれが回避されていたように感じられたのは、必ずしも勝手な思い込みではないだろうと思う。

もう一つ、そんなにはっきりとしてはないものの実は私も色彩と音の共感覚を持っているし、鮮やかな色が流動する音響つきの夢をみたことも あるので、純正律に基づく「虹」の色彩的な効果にも期待していたのだが、私の聴き方が良くなかったのかもしれないが、これは些か期待外れ。

もっとも弦楽合奏になると(それこそチェリビダッケのような場合を除くと)、弦楽六重奏で期待できるようなピッチの正確さは期待する方が 無理だろう。通常はロマン派を基準にエンハーモニックをばりばり弾きこなせるように修練を積まれたプロフェッショナルの方々が、 恐らく短期間のリハーサルで演奏をされるわけなので、いってみれば正確さの定義自体が異なっているのだから。

その一方で、「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」の三分音が、プロの演奏家が習得した技能をいわば逆手にとって、予期せぬ響きを 生み出していたことを思えば、こうした事態をどのように考えるのかは興味深い。「別の」身体性を獲得するために恐らくは必要と されるであろう「修行」に対して、タブラ・ラサではありえないどころか、モダンなオーケストラを支える高度な技能が妨げになりうる、 ということなのだろうか。ロマン主義に目標を定めた本来の主旨から考えれば時代錯誤になってしまうが、寧ろピリオド楽器の団体で 演奏したらどうだろう、などと余計なことも想像してしまう。

一方で、合奏という形態に関していえば、必ずしも各パート1本の弦楽六重奏の方が「本来の響き」がする、 というわけでもないように思える。楽器を重ねたときの音色は、その楽器をソロで弾いたときのものとは別の、固有の価値を持つものと 考えるべきだろう。ヴォカリーズにしてもまた然りに違いない。そもそも純粋な響きが欲しければコンピュータを用いて フォルマント合成をやればいい。(実際、加算合成に対する三輪の関心は初期から続いているもので、シンセサイザーを用いたサイン波 合成により作品を構成する「部分音クラヴィア」(1986)のような試みも存在するのである。またすでにそこで高次倍音の平均律からの逸脱に よる音響効果や、あたかも人声を模擬するような効果も試みられていることを忘れるべきではないだろう。)だがそもそも独奏の、あるいは 合奏の弦楽器の「音色」を成り立たせている雑音的な内部構造の豊かさは、人間が楽器を弾くことによってしか得られないものだし、 人の声についてもまた然りだろう。そして、弦楽合奏に人の声が加わったときのあの独特の響きは、そうした細部なしには得られないものに違いない。 ここでは人間が不完全な模倣をするのではないのだ。背後にはフォルマント合成の技術による根拠づけがあるに違いないが、 もし私が勘違いをしているのでなければ、技術自体が目的となってしまう転倒はここでは回避されていて、三輪のテクノロジーに対するアプローチの独特さと、 その効果を感じることができたように思える。

と同時に、演奏不可能な特殊なことを要求されているわけではないとはいえ、ある意味では職業的なスタンダードとは異なった方向を 目指すという「修行」のような試みに対応し、まだ存在しない音楽を誕生させるプロの演奏家の方々の技量と柔軟性と姿勢に対して、 率直に感心してしまった。

繰り返しになるが、こうした興味深い作品がこれが初演とは思えない充実した指揮・演奏によってリアライズされるのを聴けたのは素晴らしい 経験だったと思う。うまくは言えないのだが「うまくいっている」感じがして、とても好感の持てる演奏会だった。 何より、こと私に関して言えば、作曲者のことばの通り「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を 想起させるための儀式のようなもの」「そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」 としてその音楽をきくことができたことに、率直に言って感激した。そのことばに些かのひっかかりを感じていただけになおさらだったのだと思う。

勿論、自分の中の疑問がすべて消えてしまったというわけではないのだが、作品の力に説得され、何かを受け取ったような、そして、それをきっかけに 何かが見えてきそうな感じがする、非常に勇気付けられる経験だった。こうした経験が出来たことに対し、作曲者、演奏家の方々に感謝したいと 思う。それに対して自分に何ができるわけでもないが、受け取った何かをこれから吟味し、自分なりに咀嚼していく作業をこれからやっていこうと 考えている。無論のこと、最後まですべてが透明になると考えるのは誤りだろうし、経験の質を損なうことになってしまうに違いない。 理解できずに、感じ取ったものが沈殿する部分こそが大事なのだ、ということを忘れてはならないだろうが。

(2006.08.28,29作成,9.6加筆, 2024.6.23 noteで公開)

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