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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(26)

26.

従って、20日かかるという記述に反して手術後わずか数日で退院したこともそうだが、それ以上に、盲目の時には隠蔽されていた現実を即座に認識すること、 アメリーの顔に苦悩を読み取って自らの罪を認識し、あるいはジャックの顔を見たときに、自分が誰を慕っていたのかを悟るという設定は、 全くのナンセンスであるということになる。(勿論、ここでジェルトリュードが 先天盲ではなかった、という可能性を完全に排除するだけの手がかりがないのも確かなことであるが、上で参照したオリヴァー・サックスが紹介している ヴァージルの例でもわかるとおり、発達のごく早い時期に視覚が喪われてしまえば、事態は先天盲の場合と大きくは変わらないし、第一の手帖での ジェルトリュードの「発達」の非現実的な短さも考え合わせれば、ジッドがそもそもこの問題についてろくに調べなかったか、あるいは調べはしても、 それを物語に反映させることを怠ったことは、殆ど疑う余地がないと考える。)そもそもが視覚を得る前に、 聴覚と触覚によって構築していた世界の像が、第一の手帖の末尾で語られるような色彩に満ちた視覚的性質のものである筈がなく、まるで幕を切って落として 目の当たりにする風景を、それ以前に想像していたものと比較できるかの如き設定は、視覚にハンディキャップがない人間が創り上げた虚構に過ぎないのだ。

開眼手術後の経験に関するジェルトリュードの言葉に真実味のある部分があるとしたら、それはまさに色彩に関する言及であろう。 光や動き、色彩は彼女にとって予想を絶するような新鮮なものであったに違いなく、その点については必ずしも現実に反しているわけではない。 だがヘレン・ケラーの場合同様、視覚を得る前のジェルトリュードの風景の描写は、彼女がその時点では視覚的イメージ自体を持っていないのだから、 視覚イメージとは結びつかない、単なる言葉に過ぎないのだ。その意味で、風景が書物に見立てられているのは皮肉なことに極めて的確であるともいえる。 だがそれは文字の書かれた書物のイメージですらなく、可能であったとしても全く別のモダリティによる空間認知によって構築されたスキームを辛うじて 言語化したものなのであり、視覚を持っている人間には想像することが困難なものなのだ。それゆえ、ドラノワの映画が、 偶々モノクロであるが故に色彩を表現することができないという点はおくとして、視覚を持たないジェルトリュードが恰も視覚的イメージを持っているかの ごとき描写をしなかったのは賢明だったのである。ジッドの物語が、それが言葉を媒体として組み立てられているが故に辛うじて可能となっている詐術は、 映像に変換した途端に虚偽となってしまう(今日なら、3Dなどのヴァーチャル・リアリティ技術を駆使して、ジェルトリュードに語らせる風景を色彩も 豊かに再現したかも知れないが、、、)。第二部の全く現実性に欠けた展開から想像するに、単にジッドは無知なだけだったのかも知れないが、 いずれにせよジッドの言葉による風景は、それが読者に視覚的イメージを喚起するものである限りにおいて、ジェルトリュード自身の現実を裏切るものであり、 読者を欺くものなのである。まさに無知であることに盲目なジッドに導かれて、読者は共に穴に落ちかねない。つまるところジッドは、18世紀のイギリス経験論者や フランスの啓蒙思想家たちが思弁によって到達した結論にすら至らず、既に実証されていた事実にすら目を向けることなく、 現実に対して盲目なまま、盲人の物語をでっち上げたに過ぎないのだ。

もしジッドがジェルトリュードの現実に寄り添おうとしたのであれば、ジェルトルードが視覚を得たその時点を起点にして、彼女が目に見える世界を理解できるように なるまでのプロセスを記述する物語を書くべきだったのである。牧師は勿論、そもそもジッドの方が、ジェルトリュードが視覚を得た後、本当に直面しなくてはならなかった 危機に対して、全く盲目であるというほかない。こうして科学的事実をもって文学的虚構を断罪するという挙措は不当なことだろうか?科学的に不正確であっても 「文学的真理」(そんなものがあるとして)は損なわれないのだろうか?生理学的・認知的基盤の議論をもって倫理的・宗教的レベルの問題を扱うカテゴリー・ ミステイクを犯していることになるだろうか?私はそうは思わない。なぜならば、ジッドと牧師とが己の無知に由来する空隙を埋めるために用意した素材は、 それ自体が独善的で、倫理的にもいかがわしいものだったからだ。結局のところそれは、総じて人間の心に対する無理解と、(盲人という、別の認知的世界に 生きるという意味合いで、際立った他性を備えた)他者に対する感性の欠如を示しているからだ。逆に、福音書に書かれたイエスの事跡が事実であるとするならば、 盲人を癒した後に生じた危機に対してもイエスは無関心ではなかったに違いない。イエスが「盲人を癒した」という記述を読んで、今日における白内障手術の ようなものを思い浮かべることに終始し、単に視覚を得させることと同一視すること自体、「癒し」という言葉を抽象的にしか捉えられていないことを示しているのではなかろうか。

要するにこの作品は、ジッド自身の素材の扱いからして、作中の牧師同様、観念的で、恣意的な押し付けに満ち溢れているように感じられてならない。 勿論、ここでは盲目性というのはモラル上の、倫理上のそれの比喩なのであって、問題はそちらにあるのだ、という弁解が出てくるだろうが、実際に起きているのは、 器質的な盲目性に対する押し付けがましく、自己中心的な態度が、モラル上の、倫理上の同様の態度と並行しているという状況で、ジッドは自己批判を することを忘れてはいない、という弁護は虚しく、色褪せたものにしか感じられない。視覚の代補に関する無関心が恣意的なルソー主義的妄想により 補われていることは、ジッドの自己批判がそれ自体、盲目的で独善的なものであることと決して無関係ではないだろう。恐らく、ジッドの恣意的な聖句の 解釈は、素材としての器質的な盲目性に対する扱いの歪みと連関しているのだろう。裏返せば、イエスが盲者を癒したという奇跡の重みを、ジッドは この程度にしか受け止められないことを「田園交響楽」という作品は証言しているのだという見方もできるだろう。(ところで、ルソー主義批判、視覚中心主義批判 という文脈で、ジッドその人ではなく、より広い文脈に問題を置いてみたときには、デリダの「盲者の記憶」、「触れる、ジャン=リュック・ナンシーに」などを導きに、 その射程をより徹底的に調べることができよう。デリダは「盲者の記憶」において、目は視覚のためのものであるのにまさって、泣くためのものだといったことを記している。 ところで、牧師は、普及版の末尾において、泣くことができなくなるに至る。だとしたら、牧師は末尾においてまさに盲目に至ったのだ、というように考えることは できないだろうか。)

従って、ここでのジッドの聴覚と視覚の共感覚は、三輪眞弘の作品「369」への補助線を引くことを可能にするようなものではないと言わざるを得ない。そしてまた、 「田園交響楽」が聾者の音楽であることを、ジッドの作品の場において誰も論じないのも、ある意味では仕方ないのかも知れない。 だが、この作品を「批評」するのであれば、こうした事情を指摘せずに済ませられるのは何故なのかは理解に苦しむ。結局、批評する側も、 そうした点に関しては、ジッドと同様の盲目性の裡にあって、批評するものも、されるものともども躓くということになるのだろうか? 人はすぐ、盲目性ということで、ジッド自身も関わった「オイディプス」を引き合いに出すが、それらは身体性を欠いた観念的な遊びのように 私には感じられてならない。観念に殉ずる主人公を、その観念の如何に関わらず批判するというジッドの姿勢を、批評する側も共有してしまうのと どことなく構造的に類似したところがあるようだ。決してミシェルとアリサを一緒にしてはならないし、アリサと牧師を一緒にしてはならない。 そうした図式的な相対主義は、他者に対する暴力についての、可傷性への、被曝性への感覚を欠いているのだ。自己意識への批判を短絡させ、 無償の行為を、動機なき殺人と同一視できるのも、そうした批判なり批評なりが、「田園交響楽」の牧師同様、それ自体観念的で、 無責任なものだからではないかと感じられてならない。

それゆえ、例えば以下に引用する若林の「結論」は、視覚・聴覚・触覚のモダリティに関する知識と想像力の欠如を、安易で独善的な文学者の「照応」による 特権的瞬間への賞揚で糊塗し、更には先天盲者の開眼手術に関するこの物語の設定のナンセンスについては無頓着なまま、ジッドが自覚的・ 無自覚的に設定した枠の中で物見遊山の感興に耽り、物語の中で生じている出来事の重みを顧みない、趣味的、骨董的な読解に過ぎず、 ジッドの作品が(もしかしたら彼自身の設定した射程を超えてさえ)投げかける問題に関しては頬かむりを決め込む、文学研究者の気楽さを示すものとしか思えない。 実際には若林の結論づける二重性など、単なる出発点に過ぎないはずなのに、それを「結論」としてしまう安直さを、それでも日本におけるジッド研究の第一人者が、 解説と称して文庫の解説の中で開陳してしまえば、それが日本におけるこの作品の受容を支配してしまうことは避け難い。私は以下の文章の、例えば 「第一の手帖はまさしく、ジェルトリュードがヌーシャテルの音楽界で聴いたベートーヴェンの交響曲第六番だ。」という断定に絶句してしまうし、その後の (実際にはそんなに単純化できるはずもない)第一の手帖の性格づけの暴力性にたじろぐ。「盲人ジェルトリュード」が、「その不具ゆえに」、「知覚する」と 断定される「すべての感覚が渾然として融合した共感覚(シネステジー)の美的世界、(コレスポンダンス)の神秘的世界」の虚構性 (その言い方がそもそも自己撞着を起こしているのだけでも明らかなのに)に気付かず、そこにある明白な虚偽と欺瞞(せいぜいがそれは、 牧師とジッドが若林とともに押し付けたものに過ぎない)を糊塗する無意識の残酷さ、気遣いの欠如に絶望する。 更に第二の手帖を「残酷な覚醒の過程」の内容を読んで、ジッドの無知と無理解(でなければ、凄まじい悪意による歪曲としか思えない)による描写が、 「自殺の道しか残されていない」という必然性と見做されている点に再度絶句する。これが結論だというのだ。そのあまりの酷さに怒りすら覚えるが、 如何なる権威とも無縁の一読者に過ぎない私は、それをこうして証言する外、抵抗の手段がないのだ。これではジェルトリュードがあまりに気の毒ではないか、 と物語の中の虚構の人物に対して、だが、現実にもたくさんいるであろうジェルトリュードを思って義憤に駆られるのを止めることができない。更に、 スイスの村を舞台にし、雪で始まり渇きさえ覚える暖かさに終わる第一の手帖、雪が解けた水の流れにおける溺死と砂漠のような渇きに終わる第二の手帖から なる作品を、「『田園交響楽』はちょうどフランスの春と冬の対照をなしている」と「一杯機嫌」で結論できるデリカシーの欠如、正確さへの配慮の欠如に 暗澹たる思いとならざるを得ない。

「(...前略...)そこが標高1040メートルのラ・プレヴィーヌ村だった。この北スイスの小村の夕暮れの風景は、あまりにも美しかった。わたしの耳にはどこからともなく、 ベートーヴェンの交響曲第六番が聞こえ、また脳裏にはボードレールの有名なソネット『照応(コレスポンダンス)』がひらめいていた。

(...詩の引用を含め以降しばらく略...)

私はたしかに『田園交響楽』を見たのである。もうとっぷりと日の暮れた山道を降り、やがてスイスの国境を越えてフランスに帰り、その夜はジュラ山脈のオルナンに 宿をとった。おいしいロゼを飲み、焼鳥に舌つづみを打ちながら、わたしは友人と『田園交響楽』の二重性について語り合ったのだった。
たしかにこの小説の第一の手帖と第二の手帖はきわだった対照をなしている。第一の手帖はまさしく、ジェルトリュードがヌーシャテルの音楽界で聴いた ベートーヴェンの交響曲第六番だ。ここにはあらゆる美の讃歌が、善の讃歌が、愛の讃歌が、調和の讃歌がある。盲人ジェルトリュードは、その不具ゆえに、 聴覚を視覚に、触覚を聴覚に、嗅覚を視覚に照応させて、この世界を、すべての感覚が渾然と融合した共感覚(シネステジー)の美的世界、照応 (コレスポンダンス)の神秘的世界として知覚している。これが第一の手帖だ。しかし第二の手帖にいたって、この共感覚(シネステジー)と照応 (コレスポンダンス)の美的・神秘的世界はたちまち解体し、消滅して、その新しく見開かれた眼にはどす黒い現実が情け容赦なくなだれこんでくる。 こうして第二の手帖はおそろしく急テンポに残酷な覚醒の過程を記録してゆくだろう。ジェルトリュードの行手には自殺の道しか残されていない。 『田園交響楽』はちょうどフランスの春と冬の対照をなしている、それがオルナンの宿で一杯機嫌になったぼくが友人に述べた結論だった。」

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