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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む (20)

20.

別の参照点。ジェルトリュードの描写する仮想的な風景には、ベートーヴェンの「田園交響曲」が惹き起こした共感覚のこだまが感じられる。 ジッドの「田園交響楽」は音と色彩の対応について、共感覚について語られている小説だ。具体的な対応規則の妥当性はとりあえず置くとして、 ここでは音楽が問題になっている。盲目のオルガン弾きは多いが、視力を恢復し、自ら命を絶った彼女はオルガニストにはなれなかったにせよ、 ここで音楽と色彩が問題になっていることは、三輪眞弘の作品「369」への補助線をひくことを可能にするかに見える。参照されるコンディヤックから、フランスにおける もう一人の盲人の物語の作者であるディドロへの折り返しはどうだろうか?そして、盲人は啓蒙主義的には、人間の認識の相対性を、更にはそうした 認識の相対性に制約された価値論的なシステム(要するに倫理や宗教など)の相対性を証明する事例として考えられていたという点を 思い浮かべてもいいだろう。

Il y a derrière nous, au-dessus et autour de nous, les grands sapins, au goût de résine, au tronc grenat, aux longues sombres branches horizontales qui se plaignent lorsque veut les courber le vent. À nos pieds, comme un livre ouvert, incliné sur le pupitre de la montagne, la grande prairie verte et diaprée, que bleuit l’ombre, que dore le soleil, et dont les mots distincts sont des fleurs – des gentianes, des pulsatilles, des renoncules, et les beaux lys de Salomon – que les vaches viennent épeler avec leurs cloches, et où les anges viennent lire, puisque vous dites que les yeux des hommes sont clos. Au bas du livre, je vois un grand fleuve de lait fumeux, brumeux, couvrant tout un abîme de mystère, un fleuve immense, sans autre rive que, là-bas, tout au loin devant nous, les belles Alpes éblouissantes…

私見では、寧ろメシアンによる風景の音楽化の方がより近いように感じられる。ここでメシアンが共感覚の持ち主であり、色彩と 音楽の間を往来することのできただけでなく、それの経験を実際に数多くの作品の中に定着させていることを思い起こしてもいいだろう。 それは現実に比べて遥かに色彩に富み、時間の流れ方も独特なものに変容する。現実の時間性の持つ、推移の受動性は希薄になり、生成の過程の力動が 支配的となる結果、恰も永遠の現在が出現するかのような印象が生じる。まるでパネルに描かれたような静的で垂直に 屹立する瞬間。そこにある書物の比喩に注目するとともに、ジッドが好んだ小説手法である中心紋(mise en abyme)、 「田園交響楽」という作品のmicro-texteとして解釈したA.Gouletの分析を安田が紹介しているが、これは安田の評価の通り、 非常に説得力があるものだ。


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