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心中宵庚申・上田村・2001年2月公演の思い出

「心中宵庚申」上田村 嶋大夫・富助 お千代:簑助 半兵衛:文吾
「同」道行思ひの短夜 津駒大夫 お千代:簑助 半兵衛:文吾


嶋大夫さんの「上田村」を聴いてからもう2年になるが、そのときの感動は今でも ありありと思い起こすことができる。私が文楽を見続けることになった きっかけはこの嶋大夫さんの「上田村」で、この演奏は決定的なもので忘れることが できない。まだまだ印象は生き生きとしているので、その時に感じたことをここで 書きとめておきたい。嶋大夫さんの語りを聴いて感じることについては、最も 最近の、といっても実際にはほぼ1年ぶりの中将姫の 演奏の感想中にまとめたので、そちらをご覧いただければ幸いである。

上田村は近松の最後の世話物、「心中宵庚申」の一部だが、この作品から受ける印象は 他の近松の世話物と比べて、やや例外的である。
それは登場人物、特に心中する二人に対する視線の温かさに拠るところが大きいように 思われる。この作品はとりわけ半兵衛の身分、立場と、そして性格の悲劇であるのだが、 最後に一回きり、ここでは近松の半兵衛への視線は優しく、同情的ですらあるように 思われる。
一般に近松の作品での人物の描き方は時代物にあるような定型的なものでは勿論なく、 リアリティと鋭さがあるが、同時にどこか醒めているというか、突き放したような ところがあり、作品の闇の部分には冷ややかさが感じられるように思えるのだが、 この「心中宵庚申」にはその冷ややかさを感じない。特に上田村の段の優しさは 痛ましいほどで、平右衛門、おかる、お千代、半兵衛の間にはもはや対立はなく、 けれども、幕切れの門出の不吉さを彼等すべてが感じずにはいられない、そうした 状況を描く作者の心のうちにも深い同情と、諦観を伴った深い悲しみがあったように 思えてならない。
尤もこうした他の作品との比較は後知恵であって、その時には内容を知らずに作品に 向き合うことになったのだったが、私が嶋大夫さんの語りで強く感じたのは、その 優しさと、悲しみの深さであった。

まず忘れがたいのが、その出だしの部分である。語り出しの数秒で、季節や気温や 時刻、空気の調子、光の加減といった情調が克明に定位されるのに驚いた。 のどかさといってもよい、その穏やかさが、まず聴いている私の身体にしみわたって ゆくのだ。
そしてお千代が現れ、半兵衛が加わり、その穏やかさが消えてしまって緊張がその場を 支配して行く頃には、もう床が語り、三味線が鳴り、人形遣いが人形を遣っている ということは忘れてしまっている。人物が語りあい、その一言一言がそれぞれの心に 波紋を描いていくのを「観て」いるのだった。
平右衛門の優しさ、半兵衛のもともと武士であったことを感じさせる潔癖さ、そして 従順で、おそらく受動的に過ぎるお千代のけなげさ。こうした人物の描写を一人の 大夫が語りわけていく、その物凄さは、聴き終わった後にほとんど奇跡のように 思われた。

そして段切れ、物語が終わる時、単に浄瑠璃が最後に達したのではなく、移ろった 時間の重みを、空気の調子の変化、光の変化で感じ取ることになる。この移ろいの感覚、 時間が経ち、不可逆な出来事が出来したという感覚をこんなにはっきりと感じたことは それまでなかった。
最初は春の訪れさえ予感させる穏やかさから、炊いた門火が虚ろに浮かび上がる 闇への門出への移ろい。
和解の喜びの背後から夕暮れの冷気のようにしのびよる悲しみの予感。
「果ては夫婦が無常の煙、灰になっても帰るな」の部分の胸も潰れんばかりの痛ましさ、 劇場は静まり返り、息をつめて二人の門出を見送る。おこつく身重のお千代を気遣う 半兵衛。二人を見送るおかると平右衛門。二人が添い遂げると決意したことへの 喜びの涙と、抑えることのできない悲しみの予感のもたらす涙の両方を、登場人物だけで なく、劇場全体が共有する幕切れとなった。そして、その涙は恐らく近松自身も共有した ものに違いないように私には思われたのである。

上田村に続く「八百屋」では特に紋寿さんの婆が素晴らしく、その出から完全に見所の 心を捉えたように思う。
そして最後の「道行」。文吾さんの気持ちがほとばしるような半兵衛。津駒大夫さんが 語り、簑助さんの遣うお千代の悲痛。その最後は近松の心中物では例外的に、陰惨さが 微塵もなく、ここでも近松の二人に対する同情の思いのようなものを感じることができ るように思える。

この「心中宵庚申」の上演は作品の素晴らしさ、文吾さんの半兵衛、簑助さんの お千代、紋寿さんの婆をはじめとする人形の素晴らしさ、そして嶋大夫さん、綱大夫さん、 津駒大夫さんほかの床の素晴らしさが融合した最高のものであったと思う。
そして最後にもう一度、その中でも「上田村」は私にとっては奇跡のような演奏であった。 能と同様、文楽の素晴らしい演奏の記憶の生々しさと永続性は驚くほどで、2年を過ぎた 今でも、その時のことをありありと思い出せるし、そのときに不覚にも涙をこらえるのに 大変な苦労をしたのと同様、思い出すたびにその時の気持ちが蘇って涙が出てきそうに なる。やや外傷的ともいえるような強烈な経験であった。

(2003.1.12記, 2024.9.14 noteにて公開)

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