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マーラーの本棚

今年はマーラーの生誕150年にあたり、コンサート・プログラムでは例年にもましてマーラーが取り上げられることが 多いようだし、日本国内だけ見ているとあまり実感がないが、海外まで視界を広げれば、マーラーに関する書籍の 出版の頻度は目だって高いように見える。だが、自分でも何かやろうと思ったところで、そういう暇などありはしない。 マーラーだって日曜作曲家だったが、私がマーラーを聴いたり、マーラーに関して書いたりするのは (自分でどうそれを定義しようと)世間的には「趣味」ということになるだろうし、であってみれば「趣味」如きに時間を 割くことが許容されるほど「世の成り行き」は甘くはない。今年はマーラーのアニヴァーサリーである、という認識自体、 「世の成り行き」の中では、かき消されてしまうほど小さく、限られた圏域でのみ共有されているに過ぎない。 マーラーなど必要としていない人間は幾らでもいるし、マーラーの存在さえ知らない人間は更に多いだろう。 そうした大多数の人たちに対してマーラーの価値を唱道することなど己の能く為すところではないし、その権利も 必要性も認められない。

というわけで「世の成り行き」は寧ろマーラーについて何かをしようとする時間を奪い去る傾向を年々強めている。 なくなるのは時間だけではない。気力・体力もまた確実に奪われていく。それでも体を壊さない程度には 休めている現実を感謝すべきなのかも知れないが、時間があるんだから、文句を言わずその時間にやれば いいだろうと言われてしまうと、自分のキャパシティの小ささに絶望せざるを得ないということになる。 ワーカーホリックとさえ言われる(例えば、福島章「マーラーは 時代を先取りする」を参照)マーラーのような勤勉さがあればともかく、遥かに及ばぬ己の怠惰をどうすることもできず、 〈丁度今、そうであるように〉偶に休みに本当に空いた時間ができても、マーラーがマイアーニヒで休暇の第1日目を過した折、 アルマに宛てた書簡に書いたように「ばらばらになった私の内的自我の破片をとりあえずざっとかき集め」 〈1904年6月23日付け書簡、白水社版の酒田健一訳による〉ているうちに大抵の場合には終わってしまい、 何かすることなどできないことの方が多い。こうした文章を書いている時は相対的にはましな方なのだ、、、

ショーペンハウアーは「読書とは他人に考えてもらうことだ」と書いていたと思うが、自分の頭が働かないならせめて読書をと思って、ここのところは通勤などの移動時間にマーラーが読んでいた書物を読むというのをやっている。 それまでは論文を読む作業を続けていたが、論文の場合にはメモを取り、整理する時間が必要なのに、それが取れないため、已む無く中断することにしたのだ。 マーラーの読書傾向については別のところで「人物像:本棚」と題してとりあげているが、マーラーに対して私が 拘りを捨てきれない理由の一つとして書物の嗜好に対する親近感があるのは間違いない。そこで窮余の策という わけでもないが、限られた時間と能力で可能なこととして読書が残ったわけだ。

マーラーの読書傾向についての情報の出所としては何といってもまずは書簡、そしてアルマやバウアー=レヒナーの回想が思い浮かぶが、 実際にはブルノ・ワルターの回想の「個性」の章の記述の影響が大きいのではなかろうか。 ワルターが挙げているのはショーペンハウアー、ハルトマン、ゲーテ(エッカーマンの対話集も含めて)、ヘルダーリン、 アンゲルス・シレジウス、ジャン・パウル、ホフマン、スターン、ドストエフスキー、セルバンテス、シェークスピアといったところだが、 それらに言及するに先立って、マーラーの読書傾向の特徴として科学の哲学的研究が多いことを指摘している点は 一層興味深い。ワルターが例として挙げているのは、フェヒナー、ロッツェと、ここでもまたゲーテの自然科学的研究である。 音楽が文学に多く素材を求めることから、作曲家は文学に通暁しているというようなイメージがあるが、実際には、 例えばブルックナーやフランクのように文学的なものに対する関心がほとんどないケースも少なくない。当然のことながら、 文学的なものに対する嗜好は勿論、一般に「教養」と言われるものの多寡は知性の高さと相関しているわけではない。 マーラーは自分でも自覚していたとおり読書家だったけれど、彼の文学的な書物の嗜好は、実はアナクロニックな側面があって、 同時代の文学よりも過去に偏し勝ちであったのに対し、哲学・科学の分野については同時代の動向に遥かに敏感で あったように見える。21世紀の今日から見れば100年前のマーラーの時代そのものが既に過去のものなので錯覚しそうになるが、 マーラーその人の立ち位置からの展望からすれば、文学的な嗜好の保守性に対し、哲学・自然科学への関心は、プラトンや アリストテレスからマーラーが生きた同時代までの大きな広がりを持っている点が特徴で、最新の動向にも 敏感であったように思われるが、この点についても既に別のところで繰り返し取り上げているので、ここでは扱わない。 一つだけ挙げれば、ショーペンハウアーが「意志と表象としての世界」で提示した見方は、例えばスタニスワフ・レムが 「ゴーレムXIV」で言及している(第43講・自己論)ように、時代の制約からあまりに思弁的に過ぎ、今から見れば滑稽にさえ見える過度の 一般化が著しいとはいうものの、一般に思われている以上にずっと現代的な側面を備えているということを 最近「意志と表象としての世界」を再読して確認したことは書き留めておきたいように感じている。

その一方で、マーラーの「大地の歌」における「東洋趣味」なるものの背景には、ショーペンハウアーの影響が少なからずあるのではなかろうか。 ニーチェが自説をゾロアスターに託したことはおくとしても、リュッケルトにせよ、フェヒナーにせよ、中国ではないにしてもペルシアやインドまでは 関心の領域に含まれているわけで、時代の趣味と無関係とまでは言えないにしても、やや異なった思考の流れをそうした系譜に読み取ることが できるように思われる。(ちなみに日本ではショーペンハウアーは、戦前以来、デカルト、カントと一まとめにされるくらいの知名度を持っているが、 西欧においては寧ろ傍流扱いされているようで、この辺も日本にいると遠近感が狂いがちな部分のようだ。)

もう一つ気付いたことだが、バウアー=レヒナーの回想で第3交響曲のフィナーレについて語ったくだり(邦訳p.142)に出てくる「イクシオンの車」は、 恐らくは確実に「意志と表象としての世界」でそれが出現する文脈(第3巻第38節)を踏まえて言及されているように思える。同様に「子供の魔法の角笛」と アンゲルス・シレジウスが第3巻第51節で一緒に論じられているのも興味深いし、実際にショーペンハウアーが好んだ音楽は(ゲーテがやはりそうで あったように)マーラーの嗜好とは必ずしも合致していないにしても、マーラーが音楽や作曲の営みについて語った言葉には、第3巻の掉尾を飾る 第52節の音楽論がこだましているように感じられてならない。実証的な研究にならないからかも知れないが、「意志と表象としての世界」の内容や 言い回しとマーラーのそれとの関連について、具体的な言及がなされないのは些か奇異にさえ感じられる。例えばカントとは異なって、ショーペンハウアーの 主著は決して難解な書物ではない。もしあるとすれば、あまりに飛躍した論理や気儘なアナロジーについていけないケースや、体系性を欠いている点に 苛立ちを感じたりといったケースだろうが、それにしてもこれだけマーラーに関する言説がある中で、ショーペンハウアーとの関係の具体的な様相についての 言及をほとんど見かけないのは不思議だといった印象を、改めて確認した。

もっとも、さすがに上に述べた第3交響曲フィナーレに関する発言については、 言及されている文献もある。例えばフランクリンの第3交響曲についてのモノグラフ(Cambridge Music Handbooksのシリーズ所収)のpp.40-41は 直接言及しているし、フローロスのマーラー論第3巻の第3交響曲の章では上掲のマーラーのコメントに言及している箇所(p.99)こそ、イクシオンの車自体の ついての注記のみであるが、それに先立つ部分では、フェヒナーにも目を配りつつ、ショーペンハウアーの影響については論じている(pp.81-82)。フローロスに ついては邦訳の方がより徹底していて、p.133の訳注で「意志と表象としての世界」の該当箇所の参照と引用がされているほか、ジャン・パウルの 「ジーベンケース」および「巨人」における使用例についての言及もなされている。フローロスは第4交響曲に関してもショーペンハウアーの影響を論じており、 そうした言及自体は実証的な観点からも妥当なのだろうが、いずれにしてもキーワードを媒介とした単なる言及に留まり、作品全体のコンセプトの ようなものに対する検討にはなっていない点はフローロスの「プログラム=標題」についての主張を思えば、些か表面的であるとの謗りを免れないであろう。 もちろんこれは邦訳のないフローロスのマーラー論第1巻の第4章「美学」第4節「芸術と世界:形而上学としての音楽」、特にその中の「ショーペンハウアーと ワグナーの音楽哲学と夢の理論について」の項(p.152以降)とそれに続く項(p.155以降の「マーラーのショーペンハウアー・ワグナー的音楽哲学の解釈: 音楽の形而上学的宗教的な使命」)の存在を考慮に入れた上での印象である。

ちなみにショーペンハウアーとゲーテとの交流を反映してか、「意志と表象としての世界」には「ファウスト」への言及も随所にあり、第1部のグレートヒェンについてがそのほとんどを占めるとはいえ、 それをマーラーのそれ(第8交響曲のみならず、それ以前・以降も含めて)との関係の様相もまた興味深いものがある。 (一方で、この主張が甚だ一方的であることも否定し得ない。慧眼な方なら、私がマーラーの友人であったリーピナーの存在を全く無視しているのは根拠もないし、 フェアではないと批判されるかも知れない。実際、実証的なフローロスは、リーピナーの影響の調査についても怠り無く、総じてフローロスのマーラー論第1巻は こうした点では非常に徹底しており、これが翻訳されずに第3巻のみの邦訳が出ているのは(仕方ないとはいえ)非常に残念に思われてならない。ともかくも、 結局、何を選択し何をしないかに偶然的な側面が付き纏うのは避けられない。 自分の展望でしかマーラーに接することはできないし、語ることもまたできないのだ。)
似たような事情は、やはり最近読み返した「ファウスト」そのもの、エッカーマンの「ゲーテとの対話」、ジャン・パウルの「ジーベンケース」、スターンの 「トリストラム・シャンディ」といった「マーラーの本棚」の書籍それぞれについても言えるように思われる。流石に例えばミッチェルは第1交響曲についての 記述のところでジャン・パウルの「巨人」をわざわざ一部引用して、マーラーの音楽との関係に留意しているが、その一方で、ジルバーマン「マーラー事典」の ジャン・パウルに関する項目のように、独断的にしか思えないような影響関係の否定の記述にぶつかると、果たしてジルバーマンがせめて一冊なりとも ジャン・パウルの小説を通読し、文体のみならず、主題や作品の構造について検討をした上で書いているのか、思わず疑いたくなってしまう。 スターンについて言及されることは更に稀だが、ジャン・パウル、ゲーテのいずれも(しかもその立場の相違、資質の相違に関わらず)、いずれもスターンを 非常に高く評価し、のみならず(終始常にではないにしても)自分の創作の或る種の手本と見做していたことすら窺えるのであれば、そこにマーラーの 精神的な「圏」の中の布置のようなものを見て取ることができそうに思われる。スターンから更にセルバンテス、「トリストラム・シャンディ」から「ドン・キホーテ」 へと広がるのもまた自然なことで、アナクロニックであれば尚のこと、そこにはマーラー自身が意識的に選びとった系譜がはっきりと読み取れるではないか。 「トリストラム・シャンディ」第1巻の冒頭の銘、エピクテータスの「行為ではなく、行為における意見こそが人を動かす」を、マーラーの音楽のメタ的な性格と引きつけることも 突飛とは言えないだろう。(アドルノの顰に倣いつつ、だがアドルノにやや逆らって言えば、マーラーの音楽の「小説」的性質を云々する際の、小説の モデルは、アドルノが引合に出しているものよりは、寧ろ、マーラー自身のこうした選択に添った流れ、寧ろ20世紀の小説に繋げるような流れこそが相応しいと 私には感じられる。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」はいずれもマーラーの本棚の中でも特別な存在だったらしいが、 その長さにも関わらず、私自身繰り返し読み返す数少ない文学作品に含まれるこれらこそ、マーラーの音楽との対比に相応しいし、自分がマーラーを 聴く態度と、これらの小説に接する態度との間の親和性も確かなものだ。)

だからといって(例えばフローロスであれば恐らくそう主張するだろうが)、マーラーの本棚の書籍を読まなければマーラーの音楽を理解できない、という わけでは全く無い。フローロスの如き意見は、音楽を後づけで、あるいは外から説明するための語彙に音楽を還元しようとする 倒錯でしかなく、せいぜいのところが実証的なアプローチによって創作の文脈を明らかにすることが可能になるに過ぎない。 創作の文脈は、それによって生み出された作品そのものではなくその条件の一部に過ぎないし、寧ろそうした文脈の限定をはみ出る部分がなければ、 時代と環境の隔たりを超えて作品が享受され続けることも不可能になる。同じように、マーラーの音楽を聴くとき、作曲者がどのような書物を読んで いたかを知り、それを実際に自分でも読むことが必須の条件であろうはずがないし、そうすることが無条件に聴取の質を担保することもまたない。 ただ単に、私の場合にはこのような接し方をしているし、今後もしていくだろうという、ごく特殊な受容の具体例を述べて、 そうした視点からの展望と、それに対する素朴な感想を書き連ねているだけ過ぎない。そもそも生きている時代が違うのだから、特に マーラーと同時代のものに対しては視座の違いに応じて座標変換をすべきだし、実際そうしている部分もまた存在するのである。

例えばフェヒナーやロッツェ、ハルトマンのようなマーラーと同時代の思潮についていえば、私にとっての同時代のより新しい思潮に座標変換によって 移動するのが相応しいことのように私には感じられる。ショーペンハウアーは上述のように「ゴーレムXIV」のような文脈においても通用するような 先見の明を持っていただろうが、自然科学の分野において当時の知識の制限の下で書かれた部分まで有難がるのは少なくともマーラー自身の 指向とは背馳しているとしか思えない。ゲーテの植物論や色彩論にしてもまた然りだろう。今日にマーラーが生きていれば、今日の最新の知見に 関心を抱いたに違いない。この点について遠近法的な倒錯に陥った骨董趣味はマーラーその人の精神に相応しくない。そしてマーラーの音楽を 通じて私に伝わってくるマーラーの「声」は、座標変換をした後の、今日における展望の下でも依然としてその力を喪っていない。今日が 「マーラーの時代」だと言い募るのは、それ自体が視界狭窄に陥った度し難い傲慢さの現れとしか思えない。端的に、人間が、人間の意識の 様態が今のようなものであるうちは、マーラーの声は届くのだ。ジュリアン・ジェインズが「二院制の心」に関する仮説で示唆したような、意識の 様態の変容が今後更に起きた後の未来において、マーラーの声がどのように響くかは想像を超えている。

マーラーが私にとって特別な存在であることを、最近の読書を通じて改めて確認できたことは、個人的にはアニヴァーサリーに相応しいことであったと 言ってよいのかも知れない。実際、同じことを誰に対してもできるわけではない。否、マーラーの場合が例外なのであって、他の作曲家に対して 同じことをやるのは自分の嗜好から言って無理だろうし、ただでさえ「世の成り行き」に翻弄されている中、時間的にも全く不可能である。 「所詮は趣味なのに何をごちゃごちゃ言っているのか」と言われれば返す言葉はない。けれど、単なる「趣味」ならもう窒息し、絶えてしまっているだろう。 マーラーはそうではない。それは自分の一部であり、寧ろ「世の成り行き」の中で維持していかなくてはならないものなのだ。 「お前の意識のあり方になど客観的には価値がない」と言われればそれまでだが、ショーペンハウアー風に言えば、「意識はかくのごとく 盲目の意志によって動かされているのだから仕方ない」というのが応答になろうか。将来において仮に「意識について」の諸々の問題が解けたとしても、 「意識にとって」の問題が解けたことにはならない。結局ところ私のような愚かな「意識」にとって、マーラーはこの上ない同伴者、水先案内人なのだ。

(2010.5.29/30, 6.6, 2024.6.27 noteにて公開)

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